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司令官ナアマンの信仰 (列王記下5:9~19a)

メッセージ

2016年9月18日富里キリスト教会

「司令官ナアマンの信仰」
(列王記下5:9~19a)

1.マイナスをプラスにする神の救いの御計画

ナアマンはアラムの国の軍の司令官です。アラム王にも信頼厚く、「ナアマン」(=優しい)という名前の通り、勇敢な兵士であると同時に優しい心の持ち主だったようです。5:1から読んでみます。「アラムの王の軍司令官ナアマンは、主君に重んじられ、気に入れられていた。主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからである。この人は勇士であったが、重い皮膚病を患っていた。アラム人がかつて部隊を編成して出動したとき、彼らはイスラエルから一人の少女を捕虜として連れて来て、ナアマンの妻の召使いにしていた。」(列王下5:1~2)

「神様はかつてこのナアマンを用いて、アラム軍に勝利を与えられた」とあります。これは伝説ですが、列王記上の22章で、ユダとイスラエルが合同して、アラム軍を攻めた時に、アラムの一人の兵士が放った一本の矢が、イスラエルの悪王アハブに命中して、彼は預言どおりに命を落としてしまいました。その時の弓を放った兵士がこのナアマンではないかと言われています。このようにして、主はたとえ異邦人の敵の司令官でありましても、自由に用いることがあるのです。そして、今日はこのイスラエルに敵対している一人の異邦人の救いの物語です。

その時の戦争の際に、ナアマンがイスラエルの地から捕虜として連れて来た一人の少女がいました。そしてその娘を、自分の妻の召使いにしていました。この召使いの名もない一人の少女の一言によって、彼はイスラエルに行く決心をしました。ナアマンは重い皮膚病を患っていたからです。この聖書では皮膚病となっていますが、他の聖書では「らい病」と記されています。ですからナアマンは、何とかしてこの不治の病をいやしてもらおうと、わらにもすがる思いではなかったでしょうか。

ですから召使いの少女の言葉を聞いて、王様にイスラエルの預言者に会っていやしてもらいたいとの願い出たのでした。最終的には、このナアマンの救いによって、イスラエルの地からこの異邦のアラムの地に、神の救いがもたらされることになります。そのきっかけは、この一人の拉致をされてきた少女の言葉から始まりました。「御主人様がサマリヤの預言者の所においでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」(5:3)

ですから、神様はどんなことをしてでも、御自分が救いを宣べ伝えたいときには、どんな人間でも用いるということです。少女からしてみれば、いわば外国に拉致をされていった憐れな運命を背負った子供です。でも、捕囚の地でも、司令官の妻の召使いになり、その国の王様の次に権威のある人物に伝道ができたのです。いわば、神から遣わされた宣教師のような役目をこの少女は担ったのです。

そしてナアマンも、らい病という不治の病を抱えていました。彼もこのらい病という不遇な生涯ではありましたが、その病を通して神様はナアマンを救い、アラムの国に福音を宣べ伝えたのです。病気になっていなければイスラエルまで行くことはありませんでした。病気だからこそ、この名もない召使の小さな言葉に耳を傾けたのです。そしてはるばるサマリヤまでやって来ました。神様の御計画の中には、無駄だったとか、失敗だったとか不幸だったという言葉はありません。神の前にはどんな負の遺産でも、全てに目的があり、神の必要があるのです。

2.ナアマンの罪

ナアマンは自分が助かるために必死でした。何でもしました。たとえ敵の国であろうが、出かけて行きました。彼は王様の許可をいただいたばかりか、アラムの王の推薦状までいただくことができたのです。当時はアラムの方がイスラエルより優位な国だったようです。ナアマンは、王の推薦状を携え、そしてお礼のために銀十キカル、金六千シェケル、着替えの服十着を持ってお供を率いて出かけて行きました。現在の重さに換算しますと、銀で340キロ、金68キロです。ですから、相当の財宝を持って出かけました。それだけ、何とかこの病をいやしてもらおうと願ったのではないでしょうか。まさにわらにもすがる思いだったのです。みんなそうです。必死にいろんな治療方法を試してみます。

そしてサマリヤに来てイスラエルの王に面会をし、アラム王の手紙を渡しました。するとイスラエルの王は、「わたしが人を殺したり活かしたりしたりすると神だとでもいうのか。この人は皮膚病の人を送りつけていやせという。よく考えてみよ。彼はわたしに言いがかりをつけようとしているのだ。」(5:7)と言って衣を裂きました。衣を裂くということは深い恐れ、悲しみを表している行為です。ああ、また戦争が始まる、そしてこの国は滅ぼされてしまうと恐れたのでしょうか。

これを聞いたエリシャは、ナアマンを自分のところによこすようにと使いをやりました。そしてナアマン一行がエリシャの家に着きますと、エリシャは自分で出て行かずに、使いのものをやってこう言わせました。「ヨルダン川に行って七たび身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」(5:10)と。

これを聞いたナアマンは、彼のプライドが傷つけられたと思ったのでしょう。一瞬にして怒りに火が付きました。怒り心頭に達し、怒って身をひるがえしてエリシャのもとを立ち去りました。そしてこう言いました。「彼自らが出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。」(5:11~12)彼は憤慨しました。

ナアマンの気持ちが分からないわけではありません。「こんなにたくさんの宝物を持って、はるばるダマスコからやってきたのに、本人が顔を出さないで、召使を使って『ヨルダン川で七回身を洗え。』というのか。そんなことのために来たのではない。預言者が出て来て、神に祈り、この患部に手を置いて手を動かしながら、祈ることによって癒されるのではないのか。」と思いました。おそらく彼は今までそのような祈祷師に何人も会って、祈ってもらった経験があったのではないでしょうか。「顔も出さないで、馬鹿にするな。自分を何様だと思っているのか。」と彼の本性が出てしまいました。

彼には癒しのイメージがありました。立派な服装をした預言者が出て来て、うやうやしく神の名によって祈り、患部に手を置いて動かすことによって病がいやされるというイメージでした。しかしこれは自分のイメージです。ナアマンの願望でした。彼はこの自分のイメージとか自分の理想という思いに支配されていました。これこそがナアマンの偶像だったのです。自分の心のイメージを偶像化していたのです。しかし、まことの神は、目には見えません。声はします。信仰とは見ることではなく、聞くことなのです。それは神の言葉から来るのです。この神の御言葉に従うかどうかによって、その人の信仰が判定されるのです。

ナアマンの間違いは何だったのでしょうか。神が喜ばれるのは、たくさんの供え物や宝の山ではありません。神が喜ばれる最善の供え物は何でしょうか。そうです。神の御言葉をいっぱいに受け、御言葉に聴き従うということです。これが神の喜ばれる最高の献げ物なのです。今、エリシャはナアマンにその信仰を求めたのでした。「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」(サムエル上15:22~23今週の暗唱聖句)とありますとおりです。サムエル記からの一貫したテーマです。

いかに私たちが、この信仰を履き違えているかということです。あの新約聖書にも登場してきました百人隊長の信仰もこれと同じです。彼は自分の部下の病気をいやしてもらおうとして主の前に出ました。するとイエス様がいやしてやろうと言って同行しようとします。すると百人隊長はこう言いました。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」(マタイ8:8)と。そして主イエスはこの兵士の信仰に感心し、「あなたが信じたとおりになるように。」と言って御言葉を語りました。するとその瞬間に部下の兵士はいやされました。

ナアマンも兵士です。権威のもとにあるものです。たとえ預言者が姿を表さなくても、この預言者の姿は見えなくても、その権威ある言葉を信じて従うかどうかが問われ、試されていたのです。そしてナアマンは残念ながら、この神のテストに失敗して帰ってしまうところでした。ナアマンは、たくさんの宝物を持参し、覚悟してやって来ました。預言者が顔を出して、40日断食しなさいと言ったらそうしていたでしょう。アルコールを一切断ちなさいと言ったらそうしていたでしょう。でもあまりにも小さな、簡単な命令でした。ヨルダン川に身を七回浸して、洗いなさいといったのです。あまりにも簡単すぎて、自分が馬鹿にされていると思えたのでしょうか。あのアラムの大河ナバル川やパルパル川で何度も身を洗ったこともあったかもしれません。それでもだめだったのに、なぜこの国の狭い小さな川で身を洗わなければならないのかと思いました。

しかし、この誇り高い男にも一縷の希望が残されていました。それは、下々の声に聞くという態度でした。来る前は、召使の子供の声に耳を傾けました。そして今度は、自分の部下の声に耳を傾けることができたのです。部下は「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはその通りになさったに違いありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」(5:13)と主人をいさめました。

3.ナアマンの信仰

そしてナアマンはこの部下の言葉を聞いて、預言者が言った言葉の通りに行ったのです。「ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダン川に七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供のようになり、清くなった。」(5:14)とあります。ハレルヤ!彼はいやされました。御言葉の通りに川に入って七回身を浸したのです。彼の体は元どおりになり、まるで子供のようなみずみずしい体になったのです。

おそらくナアマンは、自分が今まで身につけていたアラム軍の総司令官としての軍服を脱ぎ捨てたと思います。腰に差していた剣も、兜も、鎧も取って、裸になってヨルダン川に身を浸しました。彼は有名なアラムの戦士、司令官です。自分の腕一本で、ここまで昇りつめてきました。王に気に入れられるほど、忠実な兵士として命がけで王に仕えてまいりました。彼の人生を支えていたのは、軍人としての誇り、人格、忠義、知恵、経験、そして戦う気力でした。そのことによって高い地位を得て、莫大な罪を築いたのでした。

しかしいま彼は一人の病人として、それらのものをすべて脱ぎ捨てて、裸になって水の中に入らなければなりませんでした。自分が今まで培ってきた地位や生き方、経験や知識、富財宝を一切捨てて、川の中に下って行ったのです。つまり彼は、自分が今まで頼ってきた者一切を捨てて、ただ神の御言葉に従ってその通りに身を低くしてへりくだって従ったのです。これがナアマンの信仰ではないでしょうか。

自分を良く見せる物、自分を価値あるものと見せている物、それらをすべて脱ぎ捨てたのです。そしてへりくだって、神の御言葉にだけ信頼してそれに従って身を沈めました。神の御言葉に従うということは、ある意味では、自分を捨てるということにもなるのではないでしょうか。自分が大事にしてきたもの、自分が価値あるものと思って来たものを捨て去らなければ、そして自分自身を捨てなければ、本当の意味で神に従うことにはならないのではないでしょうか。

ナアマンも今初めて、鎧を脱いで、刀をおいて、あるがままのらい病という病いをもったままで、流れに身を委ねました。これが神の御言葉どおりに川に下って行ってヨルダンに七度身を浸すということです。するとどうなったでしょうか。「彼の体は元に戻り、小さい子供のようになり清くなった。」とあります。彼は聖められたのです。もう刀に頼って生きて行く闘いの人生は、終わりました。自分を鍛えて頑強な筋肉を身に着ける人生とは決別したのです。幼子のように、素直に御言葉に従う信仰を得たのです。これが小さい子供のようになったというということです。彼はこの不治の病らい病のお蔭で、新しく生まれ変わったのです。らい病のお蔭で、異教の国の偶像礼拝者の中からも神の救いにあずかる人が起こされたのです。

「彼は随員全員を連れて神の人の所に引き返し、その前に来て立った。『イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました。今この僕からの贈り物をお受け取りください。』」(5:15)しかしエリシャはそのお礼の品物を断りました。そう言わないでと、何度もエリシャに受け取るように勧めましたが、エリシャのその贈り物を固辞しました。後でエリシャこう言っています。「今は銀を受け、衣服、オリーブの木やブドウ畑、羊や牛、男女の奴隷を受け取る時であろうか。」(5:26)と。

その人の人生にとって最も大事なものは、そのような衣服や金や銀や財産ではなく、今はただ神の御言葉に従うことが第一のことであると言っています。残念ながら、エリシャの弟子のゲハジは、この欲に目がくらんで預言者ではありましたが、ナマンからこっそりと品物をだまし取って自分の家にしまい込んでしまいました。そしてそのことがエリシャの霊の目に明らかにされて、彼は逆にらい病にかかってしまいます。これはわたしたちクリスチャンに対する警告です。せっかくこの世の富や力から解放されて、自由な身になったにもかかわらず、なお世の富や地位や財産に心を奪われるならば、同じようになるということです。

かと言ってエリシャはナアマンに、これからは弟子としてエリシャに従って来なさいとは言いませんでした。ただ自分の国に帰っても、職務に励むことが大事ですが、これからは神の僕として偶像を礼拝しないことや、この世の富に惑わされないように目に見えない真の神を礼拝することを約束しました。そしてナアマンは、もし自分が万が一、アラムの軍神リモンの神殿に行ってひれ伏すような時があっても、それは王の代え添えとして心からリモンの神を礼拝していることではありませんので、どうぞそのことをお許しくださいと願いました。するとエリシャはナアマンに、「安心してゆきなさい」と言って送り出したのです。

神様はわたしたちを、神の救いの目的のために用いられます。どんな人でもどんな時でも、たとえ病いや困難の中にありましても、神様は救いの目的のために用いられるのです。それはわたしたちが、この世の富や自分の考え方や自分の人生の基準というものを捨て去って、へりくだって子供のように神の御言葉に従うことから始まります。なかなかそうできないわたしたちです。プライドや誇りや経験や知識や高慢な心が残っています。自分、自我という偶像がしっかりと残っています。ですから、たとえ病いや障害や欠点や弱さがありましても、むしろそこにこそ神の力が力強く働くのです。ですから、あるがままの自分、病いや障害や欠点をもったままで、すべてのことを感謝しつつ御言葉に従って歩んで参りましょう。        

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