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取税人ザアカイの救い (ルカ19:1~9)

メッセージ

2012年2月19日富里キリスト教会
「取税人ザアカイの救い」
(ルカによる福音書19:1~9)

1.罪人(ざいにん)のザアカイ

まず最初は、ザアカイの「ザ」の字を取って考えてみたいと思います。「ザ」の付く言葉はいろいろあります。「罪人」の「ザ」、財産の「ザ」、「ざまあみろ」の「ザ」といろいろありますが、聖書を読んでみましょう。「イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである、」(ルカ19:1~4)

ザアカイの特徴は、「徴税人の頭」「金持ち」「背が低かった」とあります。そして「群衆に遮られていた」ということが書かれてあります。このことから、彼は、自分の背の低さにコンプレックスを感じて、何とか高く見せよう、世間を見返してやろうと必死に何かにすがりついて、ある程度の地位を手に入れました。彼がすがりついたのは、お金でした。

ザアカイも、金さえあれば、世間の人は自分を認めてくれる、誰も背が低いと馬鹿にしないだろうと思い、一生懸命、徴税人の権利を買い求め、そして不正な税の取り立てをして、私腹を肥やしていました。「金持ちであった」と聖書には書かれてありますから、相当の金持ちだったのでしょう。自分の背の低さを、自分の欠点や弱点、人に知られたくないことなどを隠すために、必死になって金をためて世間を見返していたわけです。人よりも一番高い所によじ登って、「ざまあみろ」と威張っているザアカイでした。

自分のあるがままの体を受け入れられない、背が低いという欠点をなんとかカバーして人にばかにされないために、必死に築いてきた人生でした。なりふり構わず、高みを目指して完全な人間になろう、人に良く思われよう、人々の賞賛を受けよう、世間から認めてもらおうという背伸びの人生でした。そして、お金の力を借りて、何とか自分の力で這い上がって、高みに上ろうと必死に生きてきた人生でした。

罪というのは、自分のあるがままの姿を偽って、必死に素足の自分を神の目から隠そうとすることです。自分を欺き、他人の目を気にし、自分を隠して、何かにすがって自分を神のごとくにしようとすることです。そして、自分の力で上に上にと登って行こうとすることです。まさに、ザアカイの「ザ」は、財産の「ザ」であり、罪人(ざいにん、つみびと)の「ザ」でした。

ですから彼は、イエス様が来たぞという知らせを聞いて、自分も行ってどんなお方か見たかったのではないでしょうか。本当の自分を認めてくれる本当の友を探していたのではないでしょうか。本当の自分を認めてくれる人、自分を無条件に知っていてくれる人、自分を愛してくれる人を求めていたのではないでしょうか。

2.あるがままで愛されているザアカイ

二番目は、ザアカイの「ア」ですが、これは二つの言葉あるような気がします。一つは、「あるがまま」の「ア」、もう一つは「愛されてる」の「ア」です。先回りしていちじく桑の木に登ったザアカイのそばを、イエス様の一行が通り過ぎようとされました。19:5には「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』」とあります。

まさかいちじくの葉っぱの蔭から見下ろしている自分に、イエスは気付くはずはないと思っていました。葉の蔭からこっそりと息をひそめてみていたザアカイでしたが、突然、自分の名前が呼ばれたものですから、どんなにか驚いたことでしょう。「ザアカイ」、義しい人という意味です。あんなに大勢の群衆がひしめき合っている中で、自分の名前が呼ばれるということは、イエス様がザアカイを十分に知っていたということです。しかも、イエス様は木の下からザアカイに呼びかけました。決して木の下から、「失礼じゃないか、降りて来なさい。」と言わずに、下に立ったままで、上を見上げてザアカイに呼びかけたのです。

世間に憎まれ、高い所に上っている人間を、元の場所に戻すことはなかなかできません。必死に高い所に上って、何かにしがみついている人に、木から手を放して降りて来なさいと言っても、そう簡単には下りて来ないのではないでしょうか。本人の名前を呼ぶしかありません。そして、お前は義しい人だ、何も悪い所はない、一つお願いがあるのだが、今晩私をあなたの家に泊めてくれないかとお願いするほかなかったのではないでしょうか。

イエス様は、私たちに対して、上目線ではなく下から呼びかけています。これは私たちの罪のために、これから十字架にかかって死のうとしている人の姿です。私たちの罪のために身代わりになって十字架にかかろうとされておられるお方の声です。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。そんなに背伸びしなくてもいいんだよ。私はあなたをあるがままで愛しているんだよ。」という声です。

主は、あの十字架の低みまでご自身をへりくだらせて下さいました。ザアカイの罪のすべてをご自分の身に負うてくださったのです。私はあなたの罪の一切をこの身に負って、贖いとりなしているから、自分の我を張らずに、背伸びをする必要もなく、あるがままで私のところに降りて来てほしい、とお願いされたのではないでしょうか。このイエス様のへりくだりと謙遜さを受けて、ザアカイはあるがままで木から降りて来て、イエス様を自分の家に迎えいれました。ザアカイも、無理に高く見せようともせず、背伸びする必要もなく、本来の自分のあるがままの姿で素直にイエス様をお迎えしました。それは、このイエス様の呼びかけに、神様の愛を感じたからでした。

4.回心して帰ってきたザアカイ

三番目は、回心の「カ」と帰って来たの「カ」です。ザアカイは、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」という主の言葉を聞いて、急いで木から降りて来ました。そして喜んで主を家に迎え入れたのです。彼は自分の足で、素足で、自分の背の高さのままで、あるがままの姿でイエスの前に立ちました。自分をよく見せよう、高く見せよう、恥ずかしくないように見せようというあせりはもうありません。自分を死ぬほどに愛して下さるお方と出会ったのです。自分を愛し、自分を神の家族の一人として認めてくださるお方を知ったのです。

しかも、ザアカイという彼本来の名前を呼んでくださったのです。そして彼自身、本来の自分の帰るべきところに帰ることができました。自分の力で、自分の財力を使って、高みを目指してよじ登って行く必要が無くなりました。神であるイエス様自身が、自分より下におられるのですから。必死に這い上がろうとする人生ではなく、素直にへりくだって、低きへ下る生き方へと帰られたのです。

信仰とはこのようにして、主の愛によってはじめて自分の罪を認め、このお方の前に立つことです。神様は、人間一人一人を土のチリから造られ、それに命の息を吹き込んで生きるようにして下さいました。神の霊によって神の前に生きること、神の御言葉の前に立つこと、これが本来の人間の姿です。他と比較する必要はありません。背が低いままでいいのです。神様がそうのように造られたからです。他人を見て羨ましがったり、ねたんだりする必要はありません。いちじくの葉で自分の欠点を隠す必要はありません。よく見せようとする必要はありません。ザアカイは、今初めて自分の家に帰ることができました。それはイエス様と共にいる家です。イエス様の方から、来て下さったのです。

5.新しい命に生きるザアカイ

自分を探し求めて、あるがままで受け入れ愛して下さっておられる方と出会ったザアカイの新しい生き方が最後に記されています。四番目は、命の「イ」であり、生きるの「イ」です。「しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰かから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。』イエスは言われた。『今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。』」
(19:8~9)

木によじ登るような、背伸びの人生ではなく、自分の素足で地面に立つ時から、私たちの新しい生き方が始まります。ザアカイは、神様の大きな愛を知りました。自分の存在そのものを認め、受け入れ、愛してやまないお方がいることを知りました。そしてこのお方の前で、あるがままで生きて行こうとした時に、彼の人生に大きな変化が生まれました。

今までは、むさぼるようにして人からむさぼり取っていた生き方から、人に与えたいという生き方に変わったのです。自分にはあれがないこれがないという人生から、あれもあるこれもあるという人生に変えられました。あれもこれも欲しい欲しいという人生から、誰かにこの喜びを分け与えたいという人生に変わったのです。それが、「自分の財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰かから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」という決心でした。いや決心というよりは、もうそうせずにはおれなくなるほどに、彼の心は神様の愛とイエス様の恵みでいっぱいになっていたのです。

木から降りで、自分の素足で立って、神を見上げて歩もうとする時に、そこから私たちの新しい人生が始まります。イエス様が彼とともに歩いて下さる人生です。自分は欠けている、何かが足りない、不十分な人生だ、不完全な自分だと恐れる必要はありません。また、その欠点を他人のせいにして、誰かを非難したり攻撃する必要はありません。私たちの一人一人は、神に愛され知られているのです。あなたは、神に愛されているのです。あるがままの自分、素足のままで地面に立つところから、私たちの新しい人生が始まって行くのではないでしょうか。(岡田 久)

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