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十字架を誇る (Ⅰコリント1:18~31)

メッセージ
2018年4月8日富里キリスト教会
「十字架を誇る」
(Ⅰコリント1:18~31)
1.復活後の40日間

主の御名を賛美します。
主イエス・キリストが十字架に架かる40日前をレント(受難節)と呼んで、古い教会ではこの時期、静かに祈ったり、聖書を読んで主のご受難を偲びながら過ごす伝統があります。しかし、実は主が復活されてから、天に帰られるまでも40日あると言いました。この復活後の40日はあまり重んじられませんが、わたしは十字架前の40日と同じように大事に過ごしてもいいのではないかと思いなす。

この間、主は信仰から離れて行く弟子たちや、復活を信じない弟子たちのために、何度も何度も現れてくださって、「さあ、わたしは復活したから信じて待ちなさい。」と言いました。使徒言行録には、復活してから使徒たちに現れてこう命じています。使徒言行録の1:3から読んでみましょう。「イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして彼らと食事を共にしていた時、こう命じられた。『エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなた方は間もなく聖霊によるバプテスマを授けられるからである。』」
(使徒言行録1:3~5)

つまり復活後の40日間は、エルサレムを離れないで、神の約束のされたものを待つ期間ではなかったでしょうか。みんなてんでばらばらに散ってしまうことなく、父が約束された聖霊を待つ期間、これが40日だったのではないでしょうか。実際は、イエス様が天に帰って行かれたのは、復活してから40日目でした。そしてそれから弟子たちは、祈りつつ10日間待ちました。そしてついに、復活してから50日目に父からの聖霊が、イエス・キリストを通して弟子たちの上に降ったのです。それ以降、弟子たちは復活の確信を得て、大胆に伝道し始めました。

使徒言行録の1:14にはこの間、「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」とあります。そして約束の50日目にはどうしたかと言いますと、「五旬節の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい数が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして炎のような舌が別れ別れに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」(使徒言行録2:1~4)

ですから復活後の40日間、そして昇天後の10日間の50日間という時期は、弟子たちは熱心に祈りつつ、父なる神が約束されたものを待っておりました。ですから、受難節のレントと同じように、わたしたちは5月20日のペンテコステの日まで、約束されたものを祈りつつ待つ期間としたいと思います。約束されたもの、それは聖霊様です。祈って待ちましょう。2018年度は、「聖霊に従って生きる」という教会標語です。ですから、まず聖霊様があの時のように、5月20日のペンテコステの日に、わたしたちの上に力強く降って来てくださることを祈ってゆきたいと思います。

40days after the resurrection of Jesus Christ is a very important time
as same as the lent. Because resurrected Jesus encouraged and inspired the disciples against their unbelief. Until the baptism of holy Spirit on Pentecost they had to wait for Spirit in prayer. So we should wait for holy Spirit in constant prayer as they did.

2.十字架の言

このようにして、ペンテコステの日に聖霊が激しく下って、ペテロをはじめ、弟子たちが一丸となって、エルサレムから伝道の声を上げました。それ以来、数々の奇跡とみ言葉の伝道によって、福音がエルサレムをはじめ、全世界に宣べ伝えられてゆきました。特にパウロによって、異邦人にも福音が伝えられて、地中海沿岸の多くの町々にも教会が立てられました。その中で最も大きく発展した教会がコリント教会でした。しかしこのコリント教会は、大きな教会でしたが、異邦人教会として多くの問題を抱えた教会でした。

その主なトラブルは、先ほどの子供メッセージにもありましたが、自分好みの牧師や伝道者をひいきにする信徒同士の分裂分派の問題でした。それから不道徳と言った性的乱れ、物欲や偶像礼拝、人の悪口を言うことやアルコール飲酒の問題、そして盗みの問題と、ありとあらゆる問題を抱えた教会でした。問題のデパートのような教会です。これでも教会かと言えるようなことが、このコリントの手紙の中に書かれています。そして、実はそのような問題は、今日の私たちの教会も、またどこの教会でも抱えている問題です。そういう問題を抱えた教会だからこそ、教会の上にはいつも十字架が掲げてあるのです。罪人の集まりだからこそ、罪を赦すための十字架がどこまでも必要なのです。

パウロは、そういう問題を抱えたコリント教会を愛しているがゆえに、涙を流しながらこの手紙を書いたのです。「そうではないだろう、イエス様が言った言葉を思い出しなさい、聖霊の一致を守りなさい。互いに愛し合いなさい、イエス様の十字架を忘れたのですか。」と何度も何度も、繰り返し繰り返しコリントの信徒の説得に努めているのです。そしてそのキリストの福音の中心が十字架と復活です。この手紙の、前半ではキリストの十字架の大切さを語り、後半ではキリストの復活について語っています。

そしてパウロが一番心にとめたことは、イエス・キリストの十字架でした。今日の聖書箇所ですが、「十字架の言葉は、滅んでゆく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われるものには神の力です。それはこう書いてあるからです。『わたしは知恵のある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。』」(Ⅰコリント1:18~19)とあります。

After the Pentecost the early church have been empowered by holy Spirit. They received the power of holy spirit and proclaimed the gospel
around the world. And then many churches have been built by the disciples around the Mediterranean world. The biggest church of these churches was the Corinthian church. But this church had a lot of trouble. The bigger trouble was the division and sect. against this trouble Paul preached the message of the cross not to boast each other.

初期の教会におけるまず最初の問題は、何といっても自分を育ててくれた牧師や宣教師に対する思いです。信仰が成長し、教会生活に励んでくれば来るほど、自分の恩師を頼る信仰になって行きました。イエス・キリストしかも十字架につけられたキリストこそが、教会の真の牧師であり見習うべき方なのです。それが人間の比較になってしまうのです。教会の中に不一致、分裂と分派の根を抱えたままです。そして、何かのきっかけで爆発して教会がバラバラになってしまうことがあります。

そこにはやはり、我が、我がという自分中心の考えがあります。もちろん、誰が正しいか、何が正しいかということが明らかにされるためには論争も時には必要ですが、その根底には、結局、先生や宣教師の名を借りて自分を誇りたいという人間の罪が潜んでいることを、パウロは見抜いていました。ですから、パウロのこの手紙の中で、この分裂寸前のコリント教会に対して、「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていました。」(2:2)と言っていますし、わたしはキリストの十字架を宣べ伝えるのです(1:17)と何度も言っています。

パウロが特に強調したのは、キリストの十字架の福音でした。すなわち、「イエス・キリストがわたしの罪のために身代わりになって死んでくださった」ということです。そしてこのお方のバプテスマを受けたものは、すでにキリスト共に死んだものなのです。「生きているのはもはや私ではなく、キリストがわがうちに生きているのです。」(ガラテヤ2:20)わたしはイエス・キリストとともに死んだものなのです。キリスト共に自分の自我、自分の理想、自分の考え、自分のポリシー、自分のプライド、自分の好みというものに死んだものなのです。

I would like to ask you as Paul did that please stand on the message of the cross and please confess your sins constantly. Because I said to you to confess your sins, most Christian never say their confession of sins and they are thinking they are right. They will never die by themselves and their heart will be never be broken. They do not live on the message of the cross. There is no reason to boast themselves.
If we boast, we should boast the Christ on the cross and say that we are sinners we need your forgiveness.

ところがこの十字架のキリストに立っていないクリスチャンは、いつまでも自分の罪というものを認めません。自分の罪ということを言葉にして告白したり祈ったりすることがないのです。これが十字架なしの福音です。そして、こういうクリスチャンが実際多いのです。自分というものに死んでいませんので、いつも自分のプライドが高くて、相手を認めたり赦したり受け入れたりすることができません。十字架の言葉に生きていないのです。

いつも自分が正しいのです。そして、自分を誇り相手を批判します。しかもそのことが、教会生活が長くなればなるほどに出てくるのです。十字架の前に立たないので、自分がなかなか消えません。自分というものが小さくならないのです。自分の罪というものがまだよく分からないのです。自分がしっかりと生きているのです。砕かれないのです。自分に死んでいないのです。自分の真の罪にまだ気が付いていないのです。

皆さん、「わたしは罪人です。あなたの十字架の救いが必要です。」と言う単純な祈りを忘れてしまっているのです。ですから、わたしは皆さんにも訴えたいのです。「わたしは罪人です。」という言葉を出して祈ってほしいのです。言葉だけでもいいです。なぜならその言葉さえ出てこないほどに、頑なになっていることはないでしょうか。口が裂けてもそんな祈りはできないと思っていないでしょうか。それだけ人間の罪が頑ななのです。年をとればとるほど、信仰生活が長くなればなるほど、そういう傾向にあります。「自分は罪人です。」という言葉で祈ってほしいのです。そこしか私とイエス様を繋ぐ接点はありません。この十字架の言葉が、人生の分かれ目です。

自分の罪を認め、神の前に心砕けて悔い改める者にとっては、このキリストの十字架を通して、そこに神の力が働くのです。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、召された者には、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(1:22~25)わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。十字架という愚かと思える出来事を宣べ伝えるのです。しかし、これ以外に救いはありませんしこの言葉しか残らないのです。この十字架のキリストを誇りましょう。

3.神の愚かさの宣教

なぜ神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いのでしょうか。ある人がこういいました、「すみません。特伝のチラシは家の近所や職場ではできません。誰も知っている人がいないところでしたら堂々とチラシを配ることができるのですが…。」と。知っている人がいるところで、チラシを配るのには抵抗を感じる方がいるかもしれません。それはなぜでしょうか。一つには、近所から白い目で見られるからとか、周りから憐れまれるとかで、どこかしら自分の弱さを出しているような気がして配りたくないものです。知らないところでしたらできるでしょう。

誰でもクリスチャンならば、そういう思いを感じたことがあるのではないでしょうか。自分の弱さや失敗や恥や罪と言ったものを出したくはありません。ましてや知っている人の目では。でも、自分を誇ったり自慢したりするのではなく、自分の弱さや罪深さを前面に出して証をするならば、そこに神様の力が働くのです。そして、自分の弱さや恥や罪を話をし、証をする人はそこからどんどんと神様の命と力をいただいて造り変えられて成長してゆきます。多くの人を救いに導きます。もしその自分の弱さや欠点や罪というものを隠したりしていますと、いつまでも成長しませんし、証も何もできません。

I know one preacher whom I respected and learned. Whenever he was invited to the evangelical meeting, he preached one testimony that his beloved only son was died by sudden traffic accident. Then his son was just preparing to go to the seminary. The preacher suffered from suffering and kept on to ask God why you took my son. He used to testimony his tragedy and when he preached this message someone decided to believe. Precisely “the world would never find God through human wisdom, so God decided to save all those who believe His message which the world calls foolish and silly.” (1:21)

「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じるものを救おうとお考えになったのです。」(1:21)人が救われるにはどういう方法があるでしょうか。何か資格を取ったので救われたわけではありませんし、結果を出したからでもありません。そうではなく、どうしようもない罪人のわたしのゆえに神様が愛して下さったから救われたのではないでしょうか。みんな助けを求めて救われたのではないでしょうか。

神様の救いは本当に不思議です。人間の業ではありません。神様が選んでくださったのです。神様が教会へと導いてくださったのです。それ以外に考えられません。そして、そこにわたしたちの救いの根拠があるわけでから、わたしたちは決して自分を誇ることも自慢することも、自分をよく見せようとして頑張る必要もありません。あるがままの自分、弱い自分、罪人の自分をそこで表せばいいのです。そこに宣教の愚かさがあります。

本当にこの「十字架の言葉」いう人の目には愚かな宣教によって、一人一人また一人と救われる方が起こされておりますことを感謝します。イエス・キリストはわたしたちの罪のために十字架に架かってくださいました。そこ神様の愛が示されました。この十字架のもとにこそ真の救いがあります。真の平安と安らぎがあります。この十字架の言葉にこそ、神の救いの力があります。今週も十字架のキリストを見上げ、十字架を誇り、十字架のキリストを宣べ伝えてまいりましょう。                     

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