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十字架を背負う (マタイ16・21~28)

メッセージ

2010年6月27日富里教会
「十字架を背負う」
 (マタイによる福音書16:21~28)

1.神をいさめた男

今日の聖書の箇所を読んでみましょう。「このときから、イエスは、ご自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打明け始められた。すると、ペテロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よとんでもないことです。そんなことがあってはなりません。』」(マタイ16:21~22)

ここでは完全にサタンに魅入られています。しかもイエス様を、脇に引き寄せて、注意しているのです。神様を注意し、いさめる人なんているでしょうか。この時ペテロは自分が神様になるほど、自我の強い人間でした。神の道を妨害しようとさえしたのです。イエス様から、「サタンよ引き下がれ。わたしの邪魔をする者、神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱責されました。まさに自分中心のクリスチャン、自我の強いクリスチャン、肉のクリスチャンそのものでした。

ペテロはこれでもクリスチャンか、これでもキリストの弟子かと言われるほどの情けない態度でした。どんなにかイエス様の心が痛んだか知れません。イエス・キリストの十字架と復活ということが彼らには全く理解されていなかったのです。それよりは、自分が将来はイエスのナンバー2になって、いい地位に立とうという立身出世の気持ちでいっぱいでした。

ですから、イエス様がこれから十字架に架かり、死ななければならないと言いましたら、主を脇に寄せて、いさめ始めたのです。つまり、自分たちが考えている救い主とは違う、救い主は力を持って世界を支配して、イスラエルの再興をしてくれる方だと考えていました。そんな方が最後に、しかも十字架で死んでしまうなんてあってはならないと考えたのでした。本当にペテロは聖書も神の力も知らない、自分の思い、自分の願望、自分の考えでイエス様についてきていたのです。思い込みの激しい、偶像礼拝者だったのです。よくこんな人間が、「イエスは神の子、救い主です」と信仰告白できたものだとあきれるばかりですが、これはペテロが言ったのではなく、天のお父様が告白させたことだと聖書にはありますが、まさにそのとおりだと思います。ペテロを見たら、信仰告白は人間の業ではなくまさしく、神のなせる業なのです。ペテロを神様が選ばれ、聖霊様が告白させたのです。

主が逮捕された時、ペテロはイエス様を知らないと言いました。その時、主はペテロにこう言いました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ:22:31~32)と。私たちは、たとえ主を裏切り、失敗し、罪を犯しても、やがて時がくれば必ず立ち直る者だとイエス様は信じて、十字架の道を、私たちのために選ばれました。

2.自分を捨てる

そして、弟子たちにこう言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(マタイ16:24~25)と。もちろん、この時にはペテロは完全にサタンに魅入られていましたから、自分を捨てるどころか、自分を前面に押し出して、イエス様をいさめていたわけです。後にも先にも、こうして神を堂々といさめることのできた人物はペテロを他にしてはいなかったと思います。

人が自分自身を捨てるということは、なかなか難しいものがあります。イエス様だってそうでした。自分の十字架を負うことは簡単なことではありませんでした。ですから、あのゲッセマネの園で血のような汗を流しながら、必死に神様に祈り求めました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と必死に祈りました。(マタイ26:39)しかし、父なる神の答えは、父の御心を行なうことでした。イエスは祈りに祈って、しかもたった一人で、血の汗を流すようにして祈られました。そして最後には、「しかし、私の願いどおりではなく、御心のままに。」「あなたの御心が行なわれますように。」(26:39,42)という言葉に変わったのです。

3.祈りを通して

主はこの祈りを通して、自分の命を捨てる決断をしました。そして、人々の罪を赦すためにあえて出て行かれました。祈りこそ、私たちが自分に死に切ることのできる場所です。祈りを通して、自分のからだも人生も命も投げ出す決心ができるのではないでしょうか。しかしその死の後には、神の栄光の勝利の時が待っています。自分に死ぬことも、祈りによって決心します。そして、それがただ単に死で終わるのではなく、必ず勝利の命へと甦るという確信と希望を持って立ち上がることができるのも、祈りによってです。祈りの時は自分に死ぬ時です。祈りは、神の御言葉が私を通して、この世に現実に肉となって働き出す時です。私たちの祈りを通して、神の強い意志、神のほとばしり出るような愛がこの世に流れ出すのではないでしょうか。

イエス様は眠っている弟子たちにこう言いました。「もういいだろう。さあ、起きなさい。目を覚ましなさい。わたしと一緒に祈りの座についいて祈って欲しい」と。そして、「この世の罪のために、人々が救われるために、そして私たちを通して神様の御心がなるように祈ろうではないか。」とおっしゃっておられます。これが、「自分を捨て、自分の十字架を背負う」ということです。そして、「イエス様に従って行く」ということです。ここに教会の働きがあります。神様がキリストのからだとしてここに教会を造ったもの、祈りの群れとしての教会を造ったのです。この世の罪のために、神様にとりなしをする群れとしての教会です。教会は祈りの家であり、イエス・キリストの十字架が立てられ、イエスの名が置かれているところです。それは祈る群れだということです。

4.ひざまずく教会

「自分を捨て、自分の十字架を背負って、主に従う」ということは祈るということです。祈りにおいて自分に死に切ることです。祈りにおいて、自分をささげることです。祈りこそ、私たちクリスチャンが、あの十字架のイエス様の姿に見習うということの最もふさわしい行為だと思います。

今、サッカーのワールドカップが開催され全世界の目が、南アフリカに注がれていますが、日本のチームも予想に反して決勝トーナメントに進みました。試合に行く前には、全く勝つ見込みのないチームが決勝に進んだのです。その蔭には、一人のクリスチャン、田中マルクス闘莉王選手(浦和レッズ)の存在がありました。日本の勝利の蔭には、チームを一つにさせた闘莉王の言葉がありました。それは、「我々は弱いんだ、強いふりをする必要はない、弱いなりにがむしゃらに闘えばいいんだ、後は神様が助けて下さる。」こう言って、かれは君が代を歌う時には、選手もベンチも一緒に肩を組んで歌いました。そして、カメルーンに勝った時には、一人ピッチにひざまずいて天を仰いで神に感謝の祈りを捧げました。

主が戦ってくださるのです。主が勝利して下さるのです。主が敵を倒して下さるのです。弱い私たちにできること、それは、祈ることです。弱いからこそ祈るのです。祈りにおいて自分に死んで主に信頼し、主に委ねることができるのです。たった一人でもいいんです。でも一人でも、弱いもの眠ってしまうような不信仰な者でも祈るならば、すなわち力強い十字架の主に信頼して祈るならば、必ず主が勝利して下さるのです。

私たちは弱いものです。でも弱いなりに見えも体裁もかなぐり捨てて、ただ神の前に必死によりすがって祈りたいものです。今は、恵みの時、救いの時です。そして今は、祈る時です。教会の力は祈りの中にあります。自分たちの力ではなく、神の力が必要なのです。闘って下さるのはあの十字架の主なのです。茨の主が勝利して下さいます。ひざまずきましょう。祈りましょう。自分を捨て、自分の十字架を背負って、主に従いましょう。教会で、家で、職場でひざまずこうではありませんか。私たちは弱くとも主は強いお方です。私たちは負けても主は常に勝利して下さいます。今はひざまずく時なのです。ひざまずく教会になりましょう。
                                      (岡田 久)

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