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十字架の言葉 (Ⅰ コリント1・18〜25)

メッセージ

2010年1月10日富里教会
           「十字架の言葉」
          (Ⅰコリント1:18〜25)

1. 十字架の言葉は滅び行く者には愚かです

1月から3月までは、聖書教育にそってこのコリント人への第一の手紙を取り上げてゆきたいと思っていますが、今日は、コリント教会の中にあった分派活動の問題について取り上げてみたいと思います。1:11にパウロはそのことを取り上げています。「わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。あなたがたはめいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などといい合っているとのことです。」(1:11〜12)

このように、一番最初に伝道した人、そして自分がバプテスマを授けてもらった先生を互いに誇り合っていました。おそらくコリント教会にはいろんな人が集まっていましたから、律法を誇るユダヤ人のクリスチャンはケファ、ペテロを誇り、自由な信仰を持つギリシャ人のクリスチャンはアポロを誇り、自由な信仰を持つユダヤ人はパウロを引き合いに出していたようです。そして自分こそは、この教会の正しい信仰の継承者であり正統派であり、あなたがたは亜流だと言わんばかりでした。それは、キリストさえパウロと同格にしてしまうほどの勢いでした。彼等はそのようにして、自分の信仰のルーツを誇ることによって、自分自身を誇りたかったのではないでしょうか。

アメリカの宣教師のかたが日本に来て不思議に思ったことがあるとおっしゃっていました。それは、あの同志社大学を創設した新島襄先生の記念会の時に、大学関係者がそろって新島先生の墓前に行ってお参りをしている姿を見みたからです。この様子を見て、宣教師の方は、新島はキリストよりもこの組合派の教会にとっては偉大なのかと思ったそうです。

そのように知識偏重に向かうクリスチャンと、もう一方は、逆にしるしを求めるクリスチャンもいます。祈ったら奇跡が起こった、病気が治った、悪霊が出て行った、目が見えるようになった、そのような奇跡によって自分を誇ろうとする信仰です。これがユダヤ人的な信仰、しるしを求める信仰でした。これもまた本人の能力を誇らせ、教会の中に分裂を引き起こす危険性がありました。信徒がお互いにこの賜物で競争し合うのです。このようなしるしと知恵の両極端の信仰に対して、パウロは、私たちは「十字架の言葉」以外に誇ることがあってはいけませんと教えました。

2.十字架の言葉は信じる者には神の力です

「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を探しますが、私たちは十字架につけたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」(1:22〜24)

十字架の言葉というのは、「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えることです。自分の知恵や知識を誇るのではなく、また目に見えるしるしを誇るのではなく、十字架につけられたイエス・キリスト、この一点に私たちの誇りを集中させることです。自分を誇るのではなく、あの十字架につけられたナザレ人イエスを誇ることです。自分が救われた時のことを考えてみれば、誰も自分を誇ることはできないはずです。

静岡県の北部の方で開拓伝道をされ、今まで五つの教会を建て上げられた田中政男先生という方がおられます。この先生の証はいつも決まって、こう始まります。「私は、中学を卒業して町の製材所に丁稚奉公に出されました。将来は材木屋の仕事をしようとして一生懸命働いていました。18歳の時に製材所のだんなさんの奥さんがクリスチャンで、丁稚の私に『政男君、100円上げるから教会の伝道集会に行かない』と誘われて、100円もらえるなら行ってもいいと思って、はじめて教会に行きました。それから、イエス様を信じて、信仰生活を続けて行くうちに献身の思いが与えられました。そして、世界宣教へと導かれてゆきました。」と。

ですから、田中先生はいつも自分を紹介する時に、「100円上げるから教会に行ってと言われて、救われた田中です。」と言うそうです。今なら誰も、100円上げるから教会に行きましょうと言っても来ないでしょう。でも、田中少年にとってはその100円が欲しかったのです。それだけ彼は貧しい生活をしていました。そしていつも、自分をそのように紹介して、無きに等しい者、人に軽んじられている者を神様はあえて選ばれました、ということを肝に銘じておられるとのことです。

十字架の言葉というのは、取るに足らない私をも選んで救って下さったイエス様の救いの言葉です。こんな私を、罪に汚れた者も、救われるに値しないものを選んで下さった十字架の恵みです。人生に疲れ、人間関係に疲れ、家族関係に破れてもうグジャグジャになってしまった人生の只中で、救いの光にめぐり合って救われた私達です。でもそこに、神様の不思議な救いの御計画があったのです。

私たちは皆そのようにして救われました。教会は、いつもこの救いの原点に立ち返ることが必要ではないでしょうか。誰も自分を、そして自分の信仰を誇る必要はありません。見栄を張って自分を良く見せようとしたり、背伸びをしたりする必要はないのです。だれだれ先生にバプテスマを授けてもらったと得意になる必要も、どこそこの有名な教会で救われましたと言う必要もありません。みんな、キリストの十字架によって、無条件でその罪の中から救い出されたものです。

3.十字架の言葉は教会の一致と宣教の手段です

教会の中心は十字架であり、その十字架による救いのメッセージです。すなわち、イエス・キリストは私の罪のために十字架にかかって下さった。この十字架を教会からはずしていけないと思います。イエス様が私のために十字架にかかって下さったが故に、私も兄弟のために益を図ってゆこう、自分を高めるのではなく、相手のためにどこまでも低くなってゆくことです。信仰の道とは、「低くきに上る道」だと、ある方が申しました。確かに私達にも、向上は必要です。霊的に成長し実を豊かにつけてゆくことに努めることは大切です。でもその方向は、相手が成長することを喜び、相手が成功することを一緒に喜ぶ、兄弟姉妹のプラスになるように行動してゆくこと、これがキリストの弟子としての生き方ではないでしょうか。

この十字架の言葉によって、私たちがしっかりと愛によって結ばれて行くことが教会の命であり、また目標でもあります。私たちが一致するために、この世から呼び出され、ここに教会が建てられました。この一致を通して、私たちは伝道してゆくのです。先週も話しました、「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんと言う喜び。」(詩篇133:1)一致こそ、伝道の最大の武器なのです。

いつもこのキリストの十字架の言葉のもとに立ち続けるものでありたいと思います。そして自分の弱さを表わし、お互いの罪や失敗を告白しあう交わりを造ってゆきたいと思います。今まで、皆さんの信仰告白や救いの体験の証を聞きながら、皆さん、本当に自分のことを赤裸々にあるがままで語られておられるのを聞きました。その主の十字架によって救われた証を聞きながら、聞くものの心に何か熱いものが込み上げて来るのを感じたと思います。

素直に自分の罪を告白すること、これが「十字架の言葉」です。これがまたわたしたちの教会の力であり、伝道の手段であり方法ではないでしょうか。21節の後半にパウロは、「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」と言っています。自分の愚かさ、弱さ、不十分さ、欠点、失敗を互いに告白することによって、そこにイエス・キリストの十字架の救いが、力強く働くのです。まさに、十字架の言葉は自分を誇り、うわべを誇る者には愚かなものですが、罪に汚れ、弱く愚かな私たちには救いを得させる神の力です。この主の十字架の救いのみ言葉を心から感謝します。そしてこの十字架の言葉を、今年も宣べ伝えて行きたいと願っています。

                                              (岡田 久)

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