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初めに言があった

メッセージ

2009年8月2日富里教会
         「初めに言があった」
             (ヨハネ1:1〜5)

1. はじめに

主の御名を讃美します。
8月に入りました。朝のNHKのラジオで、子供相談室という番組があります。
今、ちょうど子供達が夏休みで、いろんな質問が出てきます。そして、その質問に学校の先生や専門の科学者が答えるのですが、とても面白い質問がありました。例えば、「宇宙の始まりは、何ですか?」とか、「種と花はどっちが先ですか?」という質問です。先生方は、進化論に基づいて答えてくれますので、少しガッカリする所が多いのですが、確かに、宇宙の始まり、世界の始まりは最初どうだったんだろうと、私も考えてしまいました。では、一体、聖書では世界の始まりは何だといっているでしょうか、今日はそのことを御一緒に考えてみたいと思います。

2. 初めに言があった

今日取り上げた聖書の御言葉は、ヨハネ1章1節〜5節までの御言葉です。もう一度1節を読んでみましょう。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネ1:1)非常に、短い言葉ですが、深い意味をもった言葉ですね。今朝は、この1節の御言葉に注目して、最初に「初めに言があった」、そして二番目に「言は神と共にあった」、そして三番目に「言は神であった」という3点についてお話してみたいと思います。

まず、最初の「初めに言があった」という言葉ですが、聖書では、この世界が存在する以前に、まず最初に言が存在していたと書かれてあります。よく、科学の本を見たりしますと、宇宙の始まりはガスであったとか、生命の始まりは分子構造を持った微生物であったとか、と言う記述が出ております。そしてその分子が、偶然に一つの生命体に進化していったと述べられています。これは、あくまでも神の存在を認めない、偶然的進化論的考えに基づているものです。でも、聖書では、何と言っているかと申しますと、「初めに言があった」と言っています。

そして、1:14では「言が肉体となった」と言っています。私たちは、まず言葉というものを考えた場合に、誰でも、最初に人間がいて、この人間がこのようにして口で話すことによって言葉が生じてくると考えます。ですから、誰でも、普通は、先に肉体、物質があって、言葉が次に存在すると考えます。これが常識です。ですから、宇宙の起源を考えた場合に、最初から、言があったとは普通考えにくいことです。しかし、聖書は、初めにあったのは、物質ではなく「言」だと言っています。肉体が言葉を発するのではなく、「言」が肉体と成るのです。「言」が先で、言が万物を造るのです。(1:3)

よく、戦場に行く兵士に、敵の悪口をさんざん言わせ、呪いの言葉を吐かせてから送り出すといわれています。敵を言葉で攻撃してから、武器で殺すのです。言葉が先きなんです。ですから、逆に、敵に対して、「愛している、仲良くしよう」と叫んでから戦いに行ったら、おそらく戦争にならないでしょう。人間の言葉ですら、そういう力を持っているのですから、ましてや神の言葉であれば、もっと強力に現実的に、無から有を呼び起こし、行動する力をもった言葉だと思います。

聖書は、このように私たちの常識や知識を180度転換しなければ、解からないと言っても過言ではありません。なぜなら、初めに「言」があったからです。現代人も科学者も、物の見方、考え方を180度転換しなければ解からない世界だといっていいと思います。いや、むしろ真の科学者であればあるほど、この世界は人間の知識や科学では、説明できないことがあるということを知っているのではないでしょうか。

夏休みの子供相談室での、「世界の始まりは何ですか?」という質問に対して、聖書では、「最初は、言という神様がおられたんだよ。そしてこのお方が、御言葉をもって、何もない世界に宇宙を造り、地球を造り、僕達人間を造ったんだよ。君はこのことを信じるかい?」と私だったら答えるような気がします。そして、この世界を、そして聖書を、人間の知識や理性ではなく、神の言から見直してみるならば、今まで解からなかったことも見えてくるのではないでしょうか。これが、信仰の視点ではないかと思います。

ヨハネによる福音書の1:1の「初めに、言があった。」という言葉の、この「言」という言葉は、当時のギリシャ哲学から借りて来た「ロゴス」という哲学用語です。これがユダヤ人の神の言葉であるヘブライ語の「ダーバール」に最も近い言葉だと考えて、ギリシャ人に解かるように、ヨハネはロゴスという概念を用いて、この福音書を書きました。ロゴスはギリシャ哲学では、もともと「宇宙の原理」とか「人間内在の理性」という意味で用いられておりましたが、ヨハネはこのロゴスにヘブライ的な意味を付け加えて、無から有を造り、人格的な意味を持ったものとして新しく解釈し直して、このヨハネ伝1章の冒頭の言葉を書いたのです。

「言」という日本語の漢字を見てください。上の部分は「心」という字です。そして下の部分が、「口」から成っています。つまり、「言」という言葉は、「神の御心が口から出たもの」という意味です。そしてこの神の御心の言葉は、無から有を造り、そのことを成し遂げて、完成すると言う強い意味を持っております。無から有を造り出すわけですから、神が「光あれ」と言ったならば、そこに光が存在するのです。人間は何かの材料から別なものを作ったり、新しいものを発見したりすることは出来ますが、何もないところから何かを造り出すことはできません。言である神様だけが、無から有を造りだし、それを成長させ、保ち、完成させることができるのです。

昨日、宇宙から若田さんが無事帰って来ました。4ヵ月半の長いミッションを終えての帰還です。若田さんは、宇宙ステーション「希望」の組み立てというすばらしい仕事を成し遂げました。出発前に、自分が宇宙に行ったら、何か精神的に変化することができるだろうか、と話しておりました。そのことについてのコメントはまだ聞いていませんが、かつて、アポロ15号に乗って、月面着陸を果たしたアメリカの宇宙飛行士、ジム・アーウインという方がおります。この方は、あの真暗な月面に降り立った時、逆にそこに神様がおられるという臨在感を全身で、ひしひしと感じました。そして、宇宙から帰ってからNASAを辞めて、キリスト教の伝道師となったのです。世界中を講演して歩いて、神の存在を語り伝えたといわれています。

全員ではありませんが、科学の粋を集めた宇宙飛行士であればあるほど、また深く真理を探求する科学者であればあるほど、現実の世界を越えたところに、神の存在を感じるということがあるのではないでしょうか。ヘブライ人への手紙11:3に、こういう言葉があります。「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され(たことを知るのです)、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」

このように、この世界は、すべてが言である神によって創造され、生成され、保たれ、完成へと向かっているということを、わたしたちは知ることができるのではないでしょうか。この「言」こそ、神の神、主の主であるキリストであるとヨハネは考えました。そして、ヨハネはこの言を、受肉前の天におられるキリスト(先在のキリスト)と考えました。ですから、この1節を「初めにキリストがおられた。キリストは父なる神と共におられた。キリストは神であった。」と読み替えることもできるのです。

3. 言は神と共にあった

さて第二番目に、このロゴスなるキリストは、単に「初め」であるお方だけではなく、私たちと「共におられる」お方でもあるわけです。それが次の「言は神と共にあった」という御言葉です。この「共に」という言葉は、原語のギリシャ語では「プロス」という前置詞ですが、これは何かに向って行くという方向性をもった言葉です。つまり、「言(ことば)」は、単独者ではなく、相手を求め、別な人格を必要とされる方だということです。それがこの「共に」ということの意味です。

言は、神に向って共にあるということですから、父なる神に対して、子なるキリストが相対している、向き合っている、お互いに人格関係を持ったお方だということです。これが「共にあった」という意味です。そしてその向き合う人格関係というものが言葉を媒介にしてなされるものだということです。言葉そのものが、最初から相手を必要としているということですね。例えば、この礼拝の宣教もそうです。この語る口と聴く耳を通して、神の言葉が語られ、この言を媒介とする関係の中に、命と光が輝いて、お互いに成長してゆくこと、そこに「共なる」神がご臨在されるのです。(これが今日における、イエス・キリストによる新しい天地創造の働きなのです。教会の姿です。)

この言なるキリストは、単独者ではないのです。また、この言は、初めから物質でもありません。物質には人を愛するとか、憐れむとかという感情や人格的なものはありません。「共にある」神様は、人格を持った方なのです。ですから神様はもともと父なる神様、子なるキリスト様、聖霊なる神様の三位一体の愛の交わりを持った方であり、この方が、私たちに交わりを求めておられ、愛情と感情を持って関わって下さるお方なのです。それは、相手を支配し、相手を自分のものにしようとすることではありません。お互いに、別な存在として、違う存在として、相手を認めつつ、相手をあるがままで、受け止め、共にいることを喜ぶこと。これが「共にいる」という関係ではないでしょうか。

「言」という世界で、「語る」と言うことと「聞く」ということにおいて成り立つ人格的な世界、これが「共にいる」世界ではないかと思います。先日、友人とレストランで食事をしながら、話していたのですが、彼はこういう質問をしてくれました。「どうして、神様はエデンの園の中央にわざわざ、『命の木と善悪の知識の木』(創世記2:9)を生えさせておいて、『善悪を知る木からは、決して食べてはならない』(2:17)と言ったのだろうか。もし、エデンの園が完全な楽園だったら、どうしてそのような命令をしたのだろうか。命令とか戒めと言うのはエデンの園にはふさわしくないのではないか。」と言いました。

確かに、楽園の中に、「してはいけない」という禁止や戒めの言葉があるというのは奇異な感じもします。でも、エデンの園においては神が語り、人間が聞くという関係によって成り立つ完全な世界です。神様は、アダムに一つの条件として、戒めの言葉を与えました。それが「園の中央の木の実を食べてはならない」という命令です。これは、神と人間は「共にある」存在ですが、その御言葉に従うことによって、神を神として敬うことを求めています。この二者の関係は、一方が「語り」、他方がそれに「聞き従う」という意味での自由で対等な「神と人間の関係」を言っているのではないでしょうか。

そして今日の世界も基本的には神が「語り」、人間が「聞く」という関係によって、「共にいる」世界です。家庭では、親がいて語り、子供がそれを聞く世界、会社では上司がいて、部下がそれを聞くということにおいて成り立つ世界。教会では、牧師が説教を語り、信徒がそれを聞くということにおいて共にいる世界です。どちらが優位だという関係ではありません。お互いに自由な立場で対等に、キリストの言葉を語り、それを聞くことによって、共に成長発展してゆく世界、これが聖書的な教会の姿ではないかと思うのです。また、この宣教の言葉によって、世界も本来の神と人間の世界に、回復してゆくのではないでしょうか。

かつて神様は、エデンの園でアダムに語られましたが、サタンの誘惑によって罪が入り、アダムは神の御言葉に背を向けてしまいました。「語る、聞く」ということにおいて「共にいる」という関係が崩れました。そして、アダムとエバはこのエデンの園から追い出されてしまったのですが、神様は再度、イエス・キリストの十字架の言を通して、罪の赦しを与える言葉、即ち、福音を語られました。そして、この福音の言葉によって、再び命と光の満ちあふれる世界、新しい神の国を、この世に来たらしめようとされているのです。それがこの教会であり、御言葉を中心とした礼拝であり、語る口と、聞く耳によって生じる新しい天地創造の業ではないでしょうか。

ですから、預言者イザヤはイザヤ書の冒頭で「天よ聞け、地よ耳を傾けよ。主が語られる。」(イザヤ書1:2)と言っています。新約のマルコも、その福音書の冒頭で、「神の子、イエス・キリストの福音の初め」(マルコ1:1)といって語り始めています。そして、このヨハネも「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」といっているのです。いずれも、新しい神の国の始まりについて語っているのです。それが、この宣教の場であり、礼拝の場なのです。ここに、神の言葉によって、新しい命が満ちあふれ、光が輝き出るのではないでしょうか。

人間が一生懸命神の言葉を聴くことによって、そこに美しい世界が創造されるのと同じように、夫婦がお互いにお互いの言葉をしっかりと聞きあうことによって、そこに美しい夫婦の姿が現れ、さらに、神の姿が現れてくるのです。私たちはそのようにして、夫婦として召され結ばれているのです。この夫婦の言葉による人格関係が、強まれば強まるほどそこに、神の姿が浮き彫りにされてくるのではないかと思います。時には、神のかたちを壊してしまっているような私たちですが、いろんな訓練や試練を通して、互いに完成目指して作り上げられてゆきたいものです。先はまだ長いですが、あきらめないで頑張りましょう。

4. 言は神であった

そして、最後ですが、三番目に「言は神であった」となっています。ここで、不思議なことは、どうして最初から、順番を変えて「神は言であった」と言わなかったのかということです。最初から神様が言葉であるならば、それなりに納得がいきますが、「初めに言があった。言は神と共にあった。」と語って、実は、この言が神であったと三番目に言うのは、順序が違うのではないかと思いました。

でも、ヨハネは、やはり、神様のことを言う時に、宇宙の始まりを説明するためには、何をおいてもまず第一に、神様は「言」であり、人格関係をもたれるお方だということを、言いたかったのではないかと思います。「言」(=キリスト)、これこそ神であり、神の中の神、主の中の主であり、神の本質そのものであるということを訴えたかったのではないでしょうか。ヘブライ書1:3にこういう御言葉があります。「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。」

この「言」なるお方こそ真の神であることを、ヨハネは強調したかったのではないかと思います。ですから、神であるということを三番目に持ってきたのだと思います。神の本質は「言」であり、しかもこの「言」を通して「共に」いて下さるお方なのです。この神の御言葉を「語ることと、聞くこと」という関係において、私たちの心の中に、新しい命と光を創造し、それを生成し、発展させ、完成されるお方だということです。今朝もこうして、キリストの御言葉の光のもとに呼び集められ、キリストの命の言葉に豊かにあずかることができましたことを、心から感謝したいと思います。    (岡田 久)

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