ようこそ、富里キリスト教会の公式ホームページへ

初めに、神は天地を創造された (創世記1:1~5、31)

メッセージ
2017年7月2日富里キリスト教会

「初めに、神は天地を創造された」
(創世記1:1~5、31)

1.神の作品としての世界

今朝与えられました聖書の御言葉は、「初めに、神は天地を創造された。」という創世記第1章1節の御言葉です。これは世界の始まりについての、厳かな宣言の言葉です。しかしこの聖書の最初の言葉の中に、すでに神様の大きな愛の奥義が記されております。皆さんにお尋ねしますが、この天地万物、宇宙も含めて、この世界の初めに何が存在していたでしょうか。この世界の起源、この宇宙の始まりに何が存在していたでしょうか。一番初めに、存在していたのはだれでしょうか。

そうです。この世界の起源、そしてこの天地が造られる前から存在していたのは、神です。神が、まず最初におられたのです。そして神がこの世界を創造されたのです。天も宇宙も地も海もそして海の底にあるものも、物質の元素である水素や酸素や炭素もすべては、最初に存在しておられた神によって造られたのです。人間の歴史も、時間の流れも、神の創造の作品なのです。そして神は、この世界の初めでもあり、世界の終りでもあるのです。時間も、季節も、歴史も、神の創造物なのです。更に神は、「天と地」を創造されたと言っています。時間がヨコの線だとしますと、天と地はタテの線です。つまり、神は天と地、宇宙と地球をも創造されたのです。この空間世界も神の創造物なのです。

ですから神は、わたしたちが居住可能な、この空間世界と時間の流れの両方を造って下さったのです。これがわたしたちの世界です。神の作られた世界なのです。そしてわたしたちは今その中に生きています。神の創造世界の中に生きているのです。ですから、いつでもだれでも神を求めさえすれば、神を見い出すことができるようにして下さいました。いわばこの世界は、神様の書いた文字のない聖書のようなものです。未開の地で手元に聖書がない人でも、この自然世界を通して神の存在を知ることができるのです。

新約聖書の使徒言行録17:24(P.248)から読んでみましょう。
「世界とその中の万物を造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えて下さるのは、この神だからです。神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見い出すことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れておられません。皆さんのうちのある詩人たちも『我らは神の中に生き、動き、存在する』『我らもその子孫である』と、言っている通りです。わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の業や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。」(使徒言行録17:24~29)

少し引用が長くなりましたが、神様がこの世界を造られたのは、誰でもどこの国の人でも、神の世界の中に生き生活していますから、神を求める気にさえなれば、神を見つけることができると言うことです。この世界は神の世界です。わたしたちは神の中で生活しているのです。神が造った神の子孫でもあるのです。ですからその気にさえなりさえすれば誰でも、神を見い出すことができるのです。しかし、ほとんどの人はこの天地創造の神を求めていないと言うことです。

むしろ、金の像や仏像や木製の神様を信じて拝んでいるのです。手軽にどこでもお賽銭を投げ入れて、願いごとを聞いて下さる便利な神様を拝んでいます。これが偶像礼拝です。成田市はそれで栄えて来ました。御神体は木製の青い絵の具を塗った不動明王です。これが神なのか、どこか漫画に出て来るような神様ですね。そして天地を創造された真の神を知らない人々が、こぞってこの木製の不動明王を拝もうとして集まって来ます。本当の神様を求めていない、いや知らないというだけなのです。聖書を読もうとしないし、この天地を創造された見えない真の神を見い出そうともしません。パウロはこれを無知な時代だと言っています。

ですからそういう偶像から立ち帰って、自然を見ればそこに神の摂理を誰でも発見することができるというのです。そのために神はこの世界を造られたのです。神の作品の中で生きているのですから、その神の作品を拝むのではなく、それを造られた方を拝むのです。神の造った動物や木や星や太陽を拝んでも意味がありません。それらの被造物の背後におられる方を見い出すことが大事です。そのために自然世界なのです。

2.愛の創造

さて話はもう一度、創世記の1章1節、「初めに、神は天と地を創造された。」という御言葉に戻りますが、神は、時間というヨコの線を御支配され、そして天と地というタテの空間の線をも御支配されました。さてこのタテとヨコの線の交わったところは何でしょうか。そうです。じつは神は天地万物の初めから、タテとヨコの交わった十字架という神の救いの意志を示しておられたのです。この十字架を通して神は、人間の時間と空間を御支配される。更に言いますならば、イエス・キリストの十字架を通してこの世界を最終的に完成しようとされておりました。それは愛の世界です。御子イエス・キリストに示された神の十字架の愛を通して、この世界を愛を持って創造されようとしていたのです。

そのことを示しているのが、神の名前にあります。ここでは「神」はヘブライ語で「エロヒーム」となっています。じつは神の単数は「エル」なのです。「イーム」がつくと複数になります。例えば、ケルブの複数はケルビームです。そして天地を創造したという動詞「創造した」は、単数なのです。普通主語が複数形であれば、動詞も複数形になります。でも聖書のこの文では、主語は複数ですが動詞は単数なのです。

つまりこれは、神というのは単数ではなく複数と言うことは、父、子、御霊なる三位一体の神だと言うことです。この三者の神が一体となって、天と地を創造したと言うことです。もちろん唯一の神ですが、この天地創造にあたっては三位一体の神が共同して一つとなって造られたと言うことです。

それを表しているのが次の2節の言葉です。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして光があった。」(創世記1:2)とあります。この箇所を現代訳聖書は次のように訳しています。「地球とは言っても、まだ形がなく、混沌としており、真っ暗闇で、液状であり、神の御霊は、あたかもめんどりがその翼を広げて雛をはぐくんでいるかのように、その上を覆っていた。」(現代訳)真っ暗闇の世界を、聖霊様と共に神の愛が、まるでめんどりが雛をはぐくむかのようにして翼を広げて覆っていたと訳しています。最初から神様は、愛を持ってこの暗い世界を覆っておられたのです。

ここに三位一体の神の共同の働きが記されています。つまり、「神の霊」といいますのは、聖霊様のことです。次に「神は言われた。」というこの神の言葉は、父なる神の御言葉です。そしてその時に「光あれ」といわれて光が世に来ました。この光が子なるキリストです。ですからこのようにして、神の聖なる霊と父なる神の御言葉と光なるキリストによって、第一日目の世界が創造されたのです。この三位一体の神の愛の交わりの中から来られた神の愛の光、これがキリスト光であり、天地創造の中心である十字架の愛の光となったのです。ですから神は天地創造の時から、愛の造り主であられたのです。天地創造は神の愛の表れでもあるのです。

3.光あれ

1章2節に「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」とあります。神が造られた地上は混沌としておりました。そこには深い淵と水が覆っていたようです。ただ、その混沌とした真っ暗闇の地上の水の上を、神の霊がうごめいて覆っていました。これはまさに現代の私たちの世界を言い表しているような気がしてなりません。混沌という言葉は、見分けがつかない無秩序の世界を表しています。それはまるで今日の世界のようです。

国の境界線が定まらず、お互いが土地を奪い合って争っている状態。まるで光が見えない世界、言葉が解らない世界、自分というものが解らないで、人々がさ迷い歩いている時代、それがこの混沌という言葉の意味するものではないでしょうか。まさに現代の闇の世界、無秩序の世界です。それはまるで人間が、光が見えずに手探りで暗闇の中をいたずらに動き回っているような世界です。もし皆さんが、真っ暗闇の部屋に投げ込まれたらどうしますか。右も左も上も下も解らない世界です。手探りでうごめくしかないのではないでしょうか。何が一番必要ですか。

大地震と津波で被害を受けられた方々が、真っ暗闇の中で身動きができずに建物の下敷きになっているとき、何が一番欲しかったでしょうか。犠牲になった方々は、誰かの声を求めて必死に叫び続けました。そしてお互いに声をかけ合って、励まし合って救助を待ちました。言葉です。そして真っ暗闇の中で何がいちばん助けになったのかといいますと、やはり光です。ローソクの光でも、光を見ているとホッとします。この光と言葉こそ、混沌とした暗闇の中にいる人々の唯一の救いとなったのです。

同じように、この暗闇と混沌の世界に一番必要なのは、神の御言葉の光なのです。ですから神は、まず最初に、「光あれ」といったのです。すると光がありました。3節から読んでみます。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」(1:4~5)とあります。真っ暗闇の世界に光が射し込むことによって、光と闇とが分けられました。そして光は昼、闇は夜と名付けられました。

神はここで光を創造された際に、五つの動作をされています。「神は言われた。」「神は光を見た。」「良しとされた」「分けられた」「呼ばれた」です。神がこの世界を造られた時、一番最初に造られたのは光でした。しかも混沌と真っ暗闇に光る光です。暗闇に光る一筋の光です。これは、どんな光でしょうか?皆さん思い出して下さい。この光はあのキリストが肉を取ってこの世に来た時の光でもあるのです。ベツレヘムの羊飼いを照らした天使の軍勢の光です。暗き夜に住む人々に、命をもたらす真の光です。光であるキリストがこの世に来て、すべての人々を照らしました。しかし残念ながら、この光を受けたのはわずかな人々しかいませんでした。多くの人々は、このまことの光が来たことも知らずにいましたし、この光を受け入れることさえ拒んでしまいました。

そして神は、このご自分の御独り子イエス・キリストの光を見て、良しとされました。キリストは30歳から33歳までエルサレム、ユダヤ、ガリラヤ地方で、その御言葉と御業を持って人々に神の国の福音を宣べ伝えました。そしてこう言いました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ8:12)と。更にこう言われました。「光は今しばらく、あなたがたの間にある。光のうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」(ヨハネ12:35~36)と。

神はこの暗い世界を、神の霊がまるでめんどりが雛を抱くように、覆いかくまって下さいました。そして、この闇の世界に向かって、「光あれ」といい、光を送り出し、このまことの光によって人々を照らし、照らされた者には永遠の命をお与えになったのです。そして人々をこの命を与える真の光のもとへ来るようにと招かれました。ですから、誰でも自分の罪を悔い改めて、この光のもとに来る人は、その光を受けて光の子、昼の子としていただくのです。(Ⅰテサロニケ5:5)ですから今のうちに、この光のもとに自分の罪を悔い改めて立ち帰りましょう。この神の創造された世界が、そのように叫んでいるのです。わたしを求めなさい、そして生きて新しい命のうちを歩きなさいと。

そして次に神は「光と闇を分けられ」ました。光と闇とは共存することはできません。わたし達もどちらかに属しているのです。あなたは光の子となるか闇の子となるかどちらを選びますか?それはわたしたち一人一人の決断にかかっています。そしてこの光と闇を、神は何を持って分けられたのかと言いますと、御子イエスキリストの十字架を持ってこの世を分けられました。つまり、イエス・キリストの十字架を信じて受け入れる者と、十字架を拒む者とにです。

今は決断の時です。十字架の光を信じて、一歩足を踏み出すか、十字架の光を拒んで背を向けて暗闇の中に逃げ込むかです。ペテロは十字架の光に照らされて、自分の罪を悔い改めて男泣きに泣きました。でもユダは、十字架の主に背を向けて、この世の闇の中へと姿を消して行きました。十字架の光はこのようにして、光に属するものと闇に属するものを分けられます。あなたはどちらに属したいですか。

4.光の朝に向かって

わたしたちは闇に属するものではありません。自分の罪を悔い改めて、十字架のキリストを信じて光に属するものとされたものです。そしてやがて私たちは、復活の朝を迎えます。キリストが死んで葬られた墓は、三日目には空になっていました。そしてそこには光輝く姿をした二人の天使が座っていました。キリストの墓の中には、死と闇の支配はひとかけらもありません。神の栄光の光輝く明るい墓の中なのです。光の神はどこまでも追って来て下さるのです。墓の暗闇も、炉の燃える火も、主と共にいる者には何の恐れも害も与えないのです。

そして最後に「夕べがあり、朝があった」という創造の御言葉で一日目が終わっています。普通は、朝があってから夕べが来ます。でも聖書の一日は夕べから始まるのです。そして暗い深夜を経て、やがて明るく輝く朝を迎えるのです。これが復活の朝です。キリストが十字架にかかって死んで墓に葬られて、三日目に復活されたと同じように、最後には復活の光がやって来るのです。死の彼方には復活の光が見えています。わたしたちは今、この復活の朝に向かって進んでいるのです。

ローマ書に「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。」(ローマ11:36)とあります。わたしたちは神によって生かされ、命を与えられ、やがて神と相見える復活の朝に向かって進んでいると言っても過言ではありません。神に向かって歩んでいるのです。光に向かって歩んでいるのです。

初めでありまた終りである神は、この世界を光で始められ、光を持って終わろうとしておられます。わたしたちは今その光の中に置かれて、光の子として歩んでいるのです。ですから、それにふさわしく光の道を歩む者となって行きましょう。闇に追い越されないように、御言葉の光を見つめて歩みましょう。やがて朝の光のもとで、先に召された兄弟姉妹と再会することを待ち望みながら、歩んで行きたいと願っています。    

powered by Quick Homepage Maker 4.50
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional