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共に福音にあずかるために (Ⅰコリント9:19~27)

メッセージ

2013年9月8日富里キリスト教会

「共に福音にあずかるために」
(Ⅰコリント9:19~27)

1.共に福音にあずかるために

9:19に「わたしは、誰に対しても自由なものですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。」と言っています。真の自由というのは、自分を縛っていた者から解放されて自由になるということだけではありません。むしろ、その自由をもって誰かに仕えて行くことによって真の自由な人間として行動できるのです。

一体、自由ってなんでしょうか。何も束縛されない、何でもできることが自由でしょうか。パウロは、自分はキリストによって自由にされたものである、しかし、その自由を自分のために用いるのではなく、真の自由とはすべての人の奴隷になることだと言っています。その人と同じ立場になるということです。22節に「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かを救うためです。」と言っています。

パウロは、自分は自由人であるからこそ、弱い人には弱い人になり、弱い人の立場を理解し、弱い人の考えを受け入れ、同じ目線に立って福音を宣べ伝えました。そして「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音にあずかる者となるためです。」(9:23)と言っています。つまり、パウロは福音が人々の心に届くようになるために、自分は、その人と同じ目線に立つ、その人の奴隷となって仕えてもよいと考えていました。そして、そのことなしには、福音はその人に届かないからです。(Understandという言葉の意味)

パウロはむしろ、福音によって自由にされた者として、相手に対して、どこまでも思いやりと同情をもって相手に接しました。そして、自分が下に立って(Understand )、へりくだり、相手を心から尊敬することです。自分が救ってやるというような傲慢な態度は、すぐに態度や言葉に出てしまいますので気をつけなければなりません。心からへりくだって、相手を自分より優れているものとして尊敬をもって接することです。そして誠意をもって福音を語ることです。

パウロは「わたしは福音のためにどんなことでもします。それは私も共に、福音にあずかるためです。」と言っています。つまり、私たちは福音を宣べ伝えることによって、初めて自分も福音あずかることができるのです。もし、自分が救われただけで、福音を宣べ伝えないならば、その人はまだ福音にあずかっていないといってもいいのではないでしょうか。(福音の半分しかあずかっていません。)自分が救われただけでは、まだ完全に救いにあずかっていないのです。誰かに福音を宣べ伝えてこそ、あなたは福音に完全にあずかっていることになるのです。

イエス様も、弟子たちに命じました。「全世界に出て行って、すべての造られた者に福音を宣べ伝えよ。」と。これは、私たちが福音を宣べ伝えることによってはじめて福音にあずかることになるからです。弟子となっただけでは、まだ福音にあずかっていません。いや、半分しか預かっていないと言ってようでしょう。「いや岡田先生、私たちは福音にあずかって救われました。」と答えるかもしれません。果たしてそうでしょうか。本当に福音にあずかった者は、福音を宣べ伝えるはずです。真の弟子になるために福音を宣べ伝えるのです。出て行って福音を宣べ伝える時に、真に福音にあずかっていることの喜びが出てくるのです。そこに福音の真理が見えてきます。

2.自分の体を打ちたたいて

9:24から読んでみましょう。「あなたがたは知らないのですか。競技場で走るものは皆知るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」(Ⅰコリント9:24~27)

パウロは言っています。「競技する人は皆、すべてに節制します。」勝つ秘訣はこれです。節制です。英語では「control himself, strict training」となっています。節制、すなわち辞典には「欲望を適度に抑えて、控えめにすること。」とありました。信仰の金メダルを取るためには、自分の欲望を抑えて、自分をコントロールすることが最も近くて、確実な道なのです。

むやみやたらと動き回るのではなく、ちゃんと目標、ゴールを目指して走ることです。また、空振りをするようなボクシングではなく、的をしっかりと捉えるような打ち方をするというのです。レースの目標、ボクシングの的をしっかりと見定めることが大事です。目標、的とは何でしょうか。それはイエス・キリストです。このお方にしっかりと標準をわせること、これが無駄のない確実な練習方法なのです。これがパウロのトレーニング方法です。信仰の目標であり、的であるイエス様に標準を合わせるということです。これが節制するということです。

いかがでしょうか。私たちは、自分の生活態度を節制しているでしょうか。セルフコントロールしているでしょうか。どうしたら節制できるでしょうか。すぐ頭に思い浮かぶことは、まず夜更かしをしないことです。酒、たばこを飲まないことです。規則正しい生活をすること、また腹八分目の食事をし、暴飲暴食をしないことです。そしていかがわしいところに出入りしない、みだらな本や画像を見ないことです。この世の楽しみに心を奪われないことです。また、ただがむしゃらに伝道するのではなく、自分の生活をきちんと規則正しく守り、聖い生活をすることです。サタンはいつも私たちの心の隙を狙っていますから、常に節制をして、自分自身の心を見張っていなければなりません。それが福音にあずかる確実な道です。

最後に、ここでパウロは、「賞を得るように走りなさい。」と言っています。何がなんでも金メダルを「取りなさい」というのではなく、金メダルを「得るように」走りなさいと言っています。ここにわたしは、一つの慰めを見るような気がします。

先日の世界陸上の女子マラソンで、銅メダルを取った福士加代子という選手がおります。福士というのは青森県に多い名前なので、印象に残っていたのですが、彼女はもともと一万メートルのトラックの選手でした。それがトラックからマラソンに転向したのです。ところが転向後の最初のレースで、入賞どころか、ゴールにも届けないほどの最悪のコンデションでした。ゴールを目の前にして、ふらふらになり、まるで生まれたての小鹿が一生懸命自分の足で立つような恰好をしてよろめきながらやっとの思いでゴールに入りました。でもその時、スタジアムからは観衆の割れんばかりの拍手がわき起こりました。

私はこれが、「賞を得るように走りなさい」ということではないかと思いました。
たとえ最下位でも、最後までレースを諦めないことです。そして自分のできる限りの力を尽くして完走することです。最後の最後まで走ることをやめないということではないでしょうか。もうレースは始まっています。長いレースの中には、時にはつまずくことがあります。よろめくことも、倒れる時もあります。もう走るのをやめたくなる時もあります。でもイエス様が、いつも私たちのそばにいて一緒に走って下さいます。倒れたら抱き起してくれます。たとえご自分が負けても、私たちのために最後まで一緒に走ってくださるお方です。最後の最後まで、レースを諦めず、ゴールであるイエス様を目指して完走したいと願っています。                      (岡田 久)

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