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全世界に出て行って

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2009年3月29日富里教会宣教

      「全世界に出て行って
                (マルコによる福音書16:14〜18)
                            
私は本当に神様に感謝しています。このような森の中の一軒家のような教会に神様が、毎週のように新しい人を遣わしてくださるからです。そして、神様を信じたいという願いを持つ方を起こして下さっています。ともすると神様が求道する方を送ってくださるので、伝道しなくてもいいのではないかと思う時があります。しかしそうではなく、むしろ神様が新しい方を送ってくださるからこそ、その流れを止めないためにも、私たちは忠実に主の御命令に従って、御言葉の種を蒔き続けることが必要です。

全世界に出て行って、全ての造られた者に、福音を宣べ伝えよ」
この御言葉の中に私たちのなすべきことが、4Wと2Hという形で明確に述べられています。まずどこへ(WHERE)行くのかというと、「全世界」です。誰に(WHO)向ってかといいますと、「すべての造られたもの」に向ってです。そして何を(WHAT)伝えるかと言いますと「福音」です。どのように(HOW)するのかと言いますと、「宣べ伝えること」です。なぜ(HWY)そうするのかと言いますと、「主の御命令」だからです。

イエス様は弟子たちに、人を集めてきなさい、教会を造りなさいとは言いませんでした。むしろ出て行ったそこで福音を宣べ伝え、そこで弟子を造り、教えなさいと命ぜられました。ここで、「出て行って」とはどういうことを意味しているのかを考えてみたいと思います。

A 不十分な私でも

主が宣教の御命令を出された時には、正直申しまして、11人の弟子たちは不信仰でした。マリヤが一番最初に「主は生きておられる」と告げた時も、弟子たちは半信半疑でした。このマルコ16:14でも「その後、11人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をお咎めになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。」とあります。彼らはまだ復活を信じなかったのです。そしてイエス様にとがめられました。口語訳では「責められた」とあります。

こんな弟子たちでも、主は根気よく何度も何度も現れ、疑い深いトマスには、わざわざ手とわき腹の傷跡を見せて、信ずることを迫りました。そういう不信仰な弟子たちですが、そういう彼らに命ぜられたのでした。「まず、全世界に出て行きなさい!」と。たとえ不信仰であっても、復活がまだ信じられなくても、大切なことはこの主の御言葉に従うかどうかです。この御言葉に従って出てゆくならば、必ず、主は一緒にいて下さり、いろんなしるしを持ってともに働いて下さると約束されています。17節に「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」と言われました。私たちがたとえ、不十分でも、また復活の確信がなくても、この御命令に従う時、主は本当に驚くべき奇跡としるしをもって共に働いて下さいます。

ですから大事なことは、この主の御命令に従って、「出かけてゆく」ということです。なかなか実を結ばなくても、徒労と思えるようなことがありましても、この御言葉に忠実に従う時に、神様は祝福を与えてくださいます。不思議なことですが、結果を期待せず、忠実にこつこつと御言葉の種を蒔いてゆくことが大切です。神様は不思議なことに、私たちが蒔かなかった所から、救われる魂を起して教会に導いて下さることがあります。それは、伝道は私たちの力によるのではなく、神様の働きによることを教えるためなのです。大切なことは、私たちがこの宣教の御命令に、忠実に従うということです。

実際、不信仰な弟子たちでしたが、主の御命令どおりに伝道しました。20節に「一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」とあります。今年は、きれいな教会案内を用いて、私たちのエルサレムである富里市から始めて、成田、佐倉、酒々井、八街、四街道そして千葉県北部、そして地の果てまで福音の種を蒔いてゆきましょう

そして「教会に来て見ませんか?」「一人で悩んでいないで、聖書の言葉を聞いてみませんか?」とお一人お一人に声をかけてみましょう。自分の近くから始めて、ユダヤ、サマリヤ、千葉県全域まで、さらに地の果てまで福音を宣べ伝えて行きたいと願っております。実際、教会案内も私のメッセージもインターネット、ホームページを使って、今、全世界に配信されています。グアムをはじめ、求道者の方を含めますと、現在、アメリカ、オーストラリアまで届いております。

B.私たちがキリストの愛のからだです

また、私たちが全世界に出て行く際には、一人で行って、孤軍奮闘するのではありません。退路を断って、背水の陣で討ち死にするまで闘うというのではありません。イエス様が共におられます。しかもこのイエス様は「天と地の一切の権能を授かっておられるお方」(マタイ28:18)なのです。さらに、私たちはキリストの一つの体である教会の交わりの中から遣わされて行くのです。そして、私たちがどこに行っても主の名によって集まる時には、そこに復活の主がいて下さるし、私たちの交わりの中に主が御業をなして下さるのです。

あのイスラエルの幕屋の中に臨在して下さった神は、常に私達と共に歩んで下さるお方です。また私達と共にいて下さるインマヌエルの神様なのです。そのように、復活の主も、甦って私達の間に宿り、主の愛のうち私たちの兄弟姉妹の交わりの中にいて下さるのです。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたは出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネ15:16〜17)とヨハネ福音書の中でも言われました。ここでも、主は私たちが実を結び、その実が残るように出かけて行きなさいと命じておられます。

イエス様は、私一人に行きなさいとは言いませんでした。「あなたがたは行って」と複数になっています。ですから私たちは共に出かけて行って、キリストの体なる教会の手足として、主の愛を証するのです。これが主の宣教命令です。ですから、教会案内も皆さんで一緒に蒔きましょう。私たちの互いの愛を熱く保ちながら、心を一つにして種蒔きましょう。そして祈りの中で、主が先立って、蒔く場所を示して下さり、その導きを受けながら主と共に、全員で、心を一つにして、御言葉の種を蒔いてゆきたいと願っております。                      (岡田 久)

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