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全てを先んじて導かれる神の恵み (出エジプト13:17~22)

メッセージ
2020/09/06
富里キリスト教会礼拝説教
「全てを先んじて導かれる神の恵み」
(出エジプト13:17〜22)

①ペリシテを回避
先週は過越についての話でした。頑なだったファラオはとうとう10番目の最後の災い、人間も家畜もすべての初子が打たれ死ぬという災いを受け、悲しみのどん底にいたります。しかし、他方でイスラエルの民の初子は誰も死にませんでした。主が命じられた通り、子羊の犠牲を屠ることによってイスラエルの民への災いは過ぎ越され、主はこの民を救われたのでした。ファラオはこの主の恐るべきみわざ、さばきと救いを見て、とうとう降参しました。イスラエルの主というのはとんでもなく恐ろしい。早く出て行ってくれ。あなたたちが願っていたように主に仕えるがよい。そして、私をも祝福してほしい。全面降伏です。そう言ってファラオはイスラエルを去らせました。エジプトに来て430年。長年の奴隷生活。苦難のイスラエルはとうとう解放されたのです。
さあ、一目散に出ていこう。早く、最短最速でカナンの地まで行こう。イスラエルの民はきっとそう思ったことでしょう。しかし、主は彼らをそのようには導かれませんでした。

13:17
「さて、ファラオが民を去らせたとき、神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった。それは近道であったが、民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれない、と思われたからである。」

神様は彼らを、約二週間ほどでカナンまでたどり着けるペリシテ街道を外し、あえて遠回りの道へと導かれました。理由は2つあったと思われます。一つはペリシテが非常に強いということです。旧約聖書では彼らはカフトル、クレタ島からきた民族とし、エーゲ海地方を発祥とする海の民の一派だと言われています。彼らの特徴は、当時珍しい鉄器を使っていたことにあります。製鉄技術をパレスチナに広めたのは彼らペリシテ人とも言われています。ですから鉄を使う彼らは非常に強かった。
また、彼らはとても好戦的で、イスラエルの民がカナンに住むようになってからも度々攻撃を受けるようになります。有名なのはダビデと戦ったゴリアテ。彼はペリシテ人でした。のちにダビデ制圧するまで、ペリシテはイスラエルの天敵であり、非常に苦しめられた存在でした。そのような強い敵と戦う力は奴隷から解放されたばかりの当時のイスラエルにはありませんでした。神様はそのことをだれよりもよくご存知だったのです。
2つめの理由は、イスラエルの民の信仰がまだ弱かったという点にあります。皆さんもよくご存知だと思いますが、彼らはまあ、とにかく苦難があるとすぐに疑い、ひたすら文句を言う。そんな人たちでした。強靭なペリシテを前にしたとき、動揺することは目に見えていました。実際、彼らはこの後エジプト兵が追いかけてきたとき、荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がマシだといってパニックを起こします。イスラエルの民の信仰はまだ始まったばかりでとても小さく弱いものでした。
神様は、周囲の状況、イスラエルの民の状況を完全にご存知な上で、一見最も楽そうでありながも実は最も困難な道を通さなかったのでした。いつでも神様が私たちに与えてくださるものは私たちの浅はかな知識や理性をはるかに超えた慈しみに満ちた最善なのです。

②最善の道は一番の遠回り
そして、そんな神様がイスラエルの民に用意された道が、「葦の海に通じる荒れ野の道」への迂回でした。葦の海とはイスラエルの民が海を二つに分けるというあの神の奇跡の中で渡った海です。距離だけで見れば完全な遠回り。無駄、寄り道とも言えるようなルートです。しかし、この道こそが最も安全で確かなルートだったのです。なぜなら、それは全てをご存知で常に私たちを愛し、憐れんでくださる慰めに満ちた神様が用意された道だからです。神様が私たちに与えられるものは常に最善です。自分自身で切り拓く道ではなく、神様が備えられた道を信頼して歩むとき人は、はじめて平安に生きていくことができるのです。

詩篇37:23
「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる。」

しかし、それにしても一見無駄に見える旅路です。なんで?わざわざ?そんな疑問が浮かぶ人がいるかもしれません。それは、人はどうしても、最短ルートというものをいきたい。そのような性があるからかもしれません。特に現代は、効率を重視する社会です。コストパフォーマンスという言葉をご存知でしょうか。コスパ、コスパとよく聞きます。最小の費用、労力で最大の利益を。そういった思考です。確かに損得で言ったらその方が得ですし、すぐに結果が求められる企業にはある程度必要な考え方かもしれません。
しかし、主の導き、主の備える道とはそのようなすぐに結果が出るようなインスタントなものではありません。すぐにはわからないかもしれない、しかし、最も安全で、最もふさわしい道が備えられているのです。
イスラエルの民に用意されたルートはまず、安全でした。強大なペリシテ人との戦いを回避し、守られました。そして、イスラエルの民はこの厳しい荒野を通る遠回りをしていくことによって神の救いを体験し、信仰者として訓練されていきます。このルートを通ったからこそ、あの葦の海の奇跡を体験し、天からのマナの恵みをいただき、シナイ山で十戒という神の律法をいただき、神の民として生きる契約を結びます。そういう一つ一つを体験し、失敗しながらもイスラエルの民は二週間ではなく40年かけて、神の民へとなっていったのです。私たちにもそのような道が備えられているのです。

③主の道には神が共におられる
そして、一見険しく、遠回りに見えるような主の道が最も安全で最もふさわしい、そう言える理由、根拠があります。それはそこにいつも、必ず神様が共にいて、守ってくださるということです。昼は雲の柱として、夜は火の柱として主は荒野の旅の中、イスラエルの民と共にいてくださりました。決して離れることはなかったのです。
そして、神の臨在を表す、雲の柱と火の柱は共にいるだけでなく実際にイスラエルの民を守りました。この後、エジプトの大群がイスラエルの民に押し寄せてきますが、雲の柱は民の後ろに回り、エジプトとイスラエルの間に立ち、真っ黒な雲となって近づかせませんでした。また、火の柱もエジプト軍をかき乱し、戦車の車輪を外して進みにくくされました。この様子を見てエジプト兵が「主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」と恐れたほどです。
どんな困難をも、主と共にいれば必ず守ってくださります。主の御手の中が、この世で最も安全な場所なのです。神によって始められた救いの御わざは神ご自身が必ず責任をもって完遂なされるのです。
また、主は私たちの人生の旅路の最前線に立って導かれます。主は、雲の柱、火の柱となって、イスラエルの民に先立って導き、民の先頭を離れなかったとあります。主はいつも私たちを導くお方、そして私たちは導かれて歩む者です。自分の足で、自分の意志だけで、自分の道を歩むのではありません。主が備えられた道を主の導きに従って、主を信頼して、主と共に歩む。これがキリスト者として本当に幸いな人生の歩み方です。私たちは羊なのです。大牧者イエス・キリストの導きに従っていかないとさまよってしまうのです。
そして、その導きはみことばと聖霊によってなされていくものです。イスラエルの民は雲の柱、火の柱である主ご自身が導いたので地図がなくとも迷いませんでした。これは現代でいう聖霊の予表といえるでしょう。過越の羊がほふられて、柱が与えられたようにまずキリストが屠られて、聖霊が導き手として与えられた。そういった点からみても、そのように受け取れます。
また、柱はみことばとも言えます。
(詩篇119:105)
「あなたのみことばは私の道の光 私の歩みを照らす灯」

みことばが、足のともしび、道の光となって我々に進むべき道を指し示し、教えてくれるのです。
そして、この柱はカナンの地に至るまで彼らがいかに罪を犯し、失敗した時でも決して彼らを離れることがありませんでした。同じように聖霊もみことばも天国に至るまで弱い私たちと共にあり、昼も夜もずっとまどろむことなく永遠に導き続けてくださるのです。

④人生は旅の如し
人生は旅の如しと言いますがこのイスラルの旅路もまさに人間の人生そのものを表しているように思います。時に人の人生とはこんなところ行くつもりじゃなかった。どうして?そのように行きたい道が閉ざされることがあります。多くの人がそこに憤りや悲しみを覚えてしまうでしょう。やはり人間には自我や願望がありますから。無理からぬことかもしれません。
しかし、それは道が閉ざされたのではなく、新しい道、主によって備えられた道が開かれたことを意味しているのかもしれません。そして、その道は自分で描いていたルートではなかったかもしれませんが、神さまから見ると最も良い道なのです。なぜなら主が私たちに与えられるものは常に最善だからです。
かつて、私は世界各国18カ国を旅して回るという、いわゆるバックパッカーをしたことがあります。私の旅のルートは最初船でロシアのウラジオストックに行き、一週間シベリア鉄道に乗り、モスクワまで行きました。そこから東ヨーロッパ、トルコ、イスラエル、エジプトと中東を脱け、アフリカを南下し、南の果てまで行きました。そし東南アジア、インドを回り、最後はもう一度東南アジアに戻り、マレーシアから日本に帰ってきた。そういう旅路でした。
しかし、この今言ったルートは出発当初から予定していたルートとは実は大きくかけ離れたものでした。本当はシベリア鉄道でモスクワまで行ったら、そこから南米に飛び、主に南米を中心に旅をする予定だったのです。情報収集などの準備も南米についてしか調べていませんでした。
ですが、ロシアから南米までのエアチケットがあまりにも高かったので、一旦トルコまで南下することにしたのです。ハブ空港で便数の多いトルコからならもう少し安いだろうと踏んだのです。しかし、トルコの日本人宿で激安チケットが手に入るサイトを教えてもらったことによってトルコから必ずしも南米に飛ぶ必要が無くなってしまいました。そうなると欲が出ると言いますか、寄り道したくなり、あこがれのイスラエルに行き、エジプトに入りアフリカを下り、南アフリカから南米に飛ぶことにするという今を考えたらとんでもないルートに変更してしまいました。
ところが、その寄り道をしている最中に、私は南アフリカの一つ手前のナミビアという国でパスポートを盗まれるというトラブルに遭い、そのごたごたのせいで南アフリカーアルゼンチン行きの飛行機に乗れず、当初の目的であった南米に行けなくなってしまったのです。その時は本当になにをやってもうまくきかず、神様に閉ざされたような思いがしました。最初は、本当に絶望し落ち込みました。しかし、その時に読んでいた三浦綾子さんの「道ありき」という本で神のご計画は愛によるものであり、人間には納得できないこともいずれわかる。神のなさることは全て良いことだといった言葉を受けて、考えを改めました。
私はこの文章を読んで、いかに自分の思いだけに捕われ、主により頼むことができなかったことに気付かされました。パスポートを盗まれ、目的地の南米にもいけなかった。トラブルが続き、自分の思うように全然進まない。しかし、このできごとにもきっと意味がある。「神は愛なり」だからだ。信じよう。自分の価値観で良い、悪いを決めるのはもうやめよう。南米なんか行けなくたっていいじゃないか、全てを主に委ねよう。そしたらきっと一番良い道が拓かれる。
そう思いました。そして、私は立ち直り、懲りずに旅を続け東南アジア、インドまで行き日本に帰ってきたのです。振り返ってみると最高の旅でした。南米にはいけませんでした。しかし、主はそれ以上に素晴らしい体験を私に与えてくださいました。全く後悔も未練もありません。何よりこの出来事が私に大きな気づきを与えてくださったのです。
私の旅は自分の計画していたルートを辿ることはできませんでした。しかし、最高の旅でした。神様の用意されたルートは最善でした。人生は旅の如し。自分の人生において考えてみても、必ずしも自分が行きたい道がベストではなく、主の備えた道こそがベストであり、その道を信頼して歩むことこそ最善であることを私はそのとき体験的に実感したのです。

◎結 私たちも旅人
本日はイスラエルのカナンまでの旅の始まりの箇所でした。私たちもイスラエル同様、旅人でありこの世はあくまで仮住まいです。今の私たちの人生は、イエス・キリストの十字架の贖いによってエジプトならぬ死と罪から解放されるという救いに預かり、約束の神の国へと向かっている旅の途中です。神の国へと向かう道の中で、少しずつ私たちは神を知り、神の民となっていくのです。
その道のりは時に私たちの目線で見るととても効率も悪く、遠回りにみえることもあるかもしれません。また、自分の描いていたルートとは違うものかもしれません。しかし、神の導きにコスパは関係ありません。そんなインスタントなものではありません。私たちの考えをはるかに超えて、深いご配慮の中でなされる御わざなのです。「神は愛なり」だからです。
その意味はすぐにはわからないものです。振り返ってみてはじめてわかるようなものです。主の道は進む前からは見えないものです。信頼して進んでみた後にそこに道があったことがわかるのです。そして、その見えない道こそが主が共にいて守り、導いてくださる最も安全で確かな道なのです。
そして、雲の柱、火の柱は聖霊とみことばとなって私たちをその主の道へと導いてくださります。自分自身の力と考えで自分の道を歩むのではなく主の道をまっすぐ信頼して導かれて歩んでいこうではありませんか。その中で私たちは、神様がいかに愛と憐れみに富んだお方だということを少しずつ知っていき、神の国、もっと言えば神様そのものに一歩ずつ近づいていくのです。そういった最も安全で幸いな旅路を共に歩んでまいりましょう。

箴言3:5−6
「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」

武井誠司

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