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全ての民を弟子とせよ (マタイ)28:16~20

メッセージ
2018年12月2日富里キリスト教会
「すべての民を弟子とせよ」
(マタイ28:16~20)

1.礼拝と宣教

「さて、11人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておられた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは言って、すべての民をわたしの弟子としなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』」                     (マタイ28:16~20)

この言葉は有名なイエスの宣教の大命令と言われる言葉です。いわばイエス様の最後の言葉、遺言と言ってもいい言葉です。11人の弟子と言いますのは、弟子の一人のユダが裏切って自殺してしまったためですね。残されたのは11人の弟子たちだけでした。しかもガリラヤの山に行って、復活の主と出会った後で、主にひれ伏して礼拝をしたときに、11人のうち何人かの弟子たちはまだ疑っていたとおあります。ですから、5人疑っていたならば、後残りの6人しか復活のイエスを信じていなかったことになります。

三年間、寝食を共にしてキリストの弟子としての訓練を受けたにもかかわらず、真に信仰をもって従っていたのは残りの数名しかいませんでした。いかがでしょうか。たったわずかの12名の弟子たちの内に、一人は完全に裏切って離れて行って、しかも自殺という罪を犯して死んでしまいました。イエス様からも生まれてこなければよかったと言わしめたほどです。そして11名の中にはまだ疑う者もいたのです。このわずかの不完全な弟子たちに向かって、主は最後の大事な遺言ともいうべき言葉をお語りになりました。

まさに不完全な群れ、まだまだ頼りない未熟な弟子たちでした。でも、そういう弟子たちに対して主ご自身の方から近づいてこられたのです。弟子たちは、疑いつつも主に従っていたのでした。わたしはそれでもいいと思います。疑いを持ちながらでも、仲間について行く、群れを離れないでついて行く、そこにもすでに主の選びがあると思います。そしてそういう不信仰ながらも、実際に伝道してゆく中で、主の不思議な御業を次々と体験してゆきます。そして少しずつ復活信仰、復活の証人としての確信が身についてくるのではないでしょうか。ですから多少疑いがあっても、確信がなくても群れについて行くということです。

そして何よりも礼拝を守ることです。疑っていた弟子たちも、疑いや不信を持っていましたが、それでも山に登って礼拝しました。この礼拝を続けることが第一です。そしてすべてはこの主を礼拝するところから始まるのです。ですから疑いがあっても、不安を抱えていてもまず礼拝を守りましょう。「安息日を覚えてこれを聖とせよ。」という十戒の戒めにある通り、安息日を守ることです。礼拝している最中に、イエス様が近づいてこられるのです。

This is the famous Great Commission of Jesus Christ. He said “Go and make disciples of all nations, baptizing them in the name of the Father and of the Son and of the Holy Spirit, and teaching them to obey everything I have commanded you.” (Matthew 28:19-20)
Then there were 11disciples because Judas committed suicide. And some of the disciples suspected the resurrection of Jesus. Therefore  the true disciples may be only a few. Indeed they were incomplete and weak disciples. But Jesus came to them and said “Go into all the world and preach the good news to all creation. And make disciples of all nations. “  (Mark 16:15) Jesus said that make disciples of all nations , not only Japanese but also Mongolians and Taiwanese and Sri Lankan and American. We may have some handicaps of the language, but I would like to make disciples of all nations overcoming the language barrier. For this is the command of Jesus. Let us involve and preach the people of all nations. This Narita region is a good place for world evangelism, because many people of all nations come to this area. Let us share and preach the good news to the people of all nations going to the lost people.

そしてわたし達が日曜礼拝をさせてくださいと、人々にはっきりという時に、神様が働いてくださってそうさせてくださるのです。この日曜礼拝を守ること、これがイスラエルの時代から、信仰者の戦いでした。モーセがエジプトの国から、労働の奴隷であったイスラエルの民を引き出し、荒野で礼拝をさせてくださいと王にお願いした時以来の戦いです。この世の王は、これを許しませんでしたが、神様が働いてくださって、民を労働の奴隷から脱出させて、荒野での礼拝へと導きだしてくださいました。礼拝を守るための戦いでした。わたし達は毎週、毎週、この戦いをしています。そして礼拝からまた皆さんを、この世に宣教者として遣わします。

礼拝の最後にする祝祷は三位一体の唯一の神の名によって神の祝福を祈り、皆さんをこの世に派遣するための祈りです。皆さん方は一人一人宣教師なのです。世界祈祷週間は外国の出来事ではなくて、この町の私達の身近の出来事なのです。「天と地の一切の権威を授かっている」尊いイエス・キリストの御名を、皆さんが帯びて出発するのです。毎週毎週のこの礼拝が、派遣式でもあるのです。カンボジアやインドネシアの社会では、イスラム教や仏教という異教の神々の反対もあるかもしれません。でもキリストの権威を身に帯びて、わたしたちもこの異教の国日本へ遣わされてゆくのです。

2.行って全ての民を弟子とせよ

イエス様は最後にこう言われました。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子としなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(28:19~20)と。

この命令を原文のギリシャ語に忠実に訳してみますと、主動詞は「弟子としなさい」です。そしてそれに「行きながら」「バプテスマを授けながら」「教えながら」という現在分詞がついています。現在分詞というのは常に継続して行われる動作だということです。英語ではingのついた動詞になっています。つまり解りやすく訳してみますとこうなります。「あなたがたは、絶えず出かけて行って、すべての国民と民族をキリストの弟子になるよう訓練しなさい。そのためには、三位一体の神が三者のうちで愛の親しい交わりを持っているように、人々をこの愛の交わりの中に招き入れ続けなさい。そして聖書の御言葉の訓練と教育を常に怠ることなく行いなさい。そのことによってあなたがたは初めてキリストの弟子を造ることができるのです。そしてわたしの教えに忠実なものとなることができます。」となります。

さて、この最初の御言葉「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子としなさい。」という言葉に注目してみたいと思います。どうしたらすべての民をキリストの弟子とすることができるでしょうか?今私たちの教会では会員のうち三分の一が外国の方です。果たして外国の方々に言葉でもって訓練できるかどうか心配です。つい何も訓練しないままで、バプテスマだけを授けてしまっていることはないだろうかと反省することもあります。正直、言葉の壁と限界を感じることがあります。でもイエス様はこう言いました。「すべての民」です。どこの国の人でもキリストの弟子にすることです。スリランカ人であろうがモンゴル人であろうが、アメリカ人であろうがキリストの弟子にすることが、主の御命令なのです。

そしてもう一つ教えられたことは、やはりどこまでも出かけるということです。最初の19節「だから、あなたがたは行って」とあります。もちろん今度のクリスマス礼拝に、家族や友人をお誘いすることは大事ですが、礼拝に来てくださった方を訪問し、そこで御言葉を宣べ伝えることです。礼拝はやはり礼拝の場所です。み言葉を聞いて祈りをささげることが主な内容です。でもそれだけではキリストの弟子は造れません。やはり出かけて行くことです。そこで教えることです。そこで三位一体の主にある愛の交わりを形成することです。それは宣教師だけの働きでしょうか。牧師だけがそれをするのでしょうか。そうではありません、この宣教命令の言葉は全クリスチャンに向かって語られ、命じられているのです。

I would like to say again that first of all Jesus wants us to go to Him to
worship. And after the worship Jesus moves us to go to this world as a missionary involving the lost people into our fellowship of Holy Spirit teaching the word of God. Wherever we are we would like to share our testimony of salvation like sister Gerulla. This is our purpose of life as a Christian. Jesus called us to be a disciple of Jesus not only a believer. The disciple of Jesus is to be like Jesus, it is like a colt taking Jesus on his back or like a vessel Jesus in it. And Jesus said at last that I am with you always to the very end of the age. Jesus is always with us talking and helping and keeping. He is never far away from us never abandon us, He is near. So let us go to the world preaching the good news of the birthday of Savior.

もう一度申しますと、この18節以下の主の宣教のご命令というのはこう言うことです。まず主のもとに来て、御前にひれ伏して礼拝を捧げることです。次にこの日曜日の礼拝から出かけて行くことです。礼拝が終わって家に帰るのではありません。生活の場に宣教者、証人として派遣されるのです。そしてそこで、生活の中で三位一体の神の愛の交わりに人々を招き入れ、愛にあって、主の教えである聖書を学びながら教えるのです。

しかもこの弟子を造るという仕事を主が再臨される時まで行い続けなさいというご命令です。そして主ご自身がいつもその場にいてくださって、助け導いてくださる」というのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と約束しておられます。この御命令に従う者と共にいるということです。この目的のためにわたし達は召し出されたのです。わたし達が救われたのは、この弟子造りのためなのです。万民すべての民をキリストの弟子にするために救われたのです。

疑いがあっても、不信仰な者でも、主はわたし達をキリストの弟子として召し出してくださいました。ですからまず礼拝を守り続けることです。教会を離れないで、交わりの中につながり続けることです。礼拝が証であり伝道なのです。たとえバプテスマを受けたばかりの方でも、わたしは日曜日には教会の礼拝に行きますと、誰かに公に証しすることが宣教の立派な働きなのです。救い主の誕生というこの良き知らせを、出て行って人々に宣べ伝えましょう。(18~20節までを全員で朗読して終わる)(岡田 久)

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