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全てが成就した

メッセージ
2009年4月5日富里教会
     「全てが成就した」
          (ヨハネによる福音書19:28〜30)
                          
1. わたしは渇く

ヨハネによる福音書19:28〜30までを読んでみます。
「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」

私の父は48歳でガンで亡くなりました。当時、私は大学生でしたが、父の死を最後までみとりました。高熱になって、喉が渇き、呼吸がだんだんできなくなります。喉元に水をやってももはや呑み込むことができません。それよりも、体中が手を当てられないほどの高熱になりました。ガンによる死は、とても苦しいと言われますが、それは、痛みよりも死ぬ間際のこの焼けるような喉の渇きではないでしょうか。聖書でも地獄の最大の苦しみはこの焼けるような喉の渇きだとあります(ルカ16:24)。

このように、主ご自身は人間が味わう最大の苦しみである「渇き」を、私たちと同じように味わい尽くされました。もちろん、鉄の太い釘で十字架に架けられているわけですから、その手足を引き裂く痛みも、想像を絶するものがあると思います。いずれにしましても主は死の間際まで、罪の贖いの子羊として、私たちために最後の最後まで苦しみ抜かれたのでした。

マルコ15:23にはこうあります。「没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。それから、兵士たちはイエスを十字架につけた」と。イエス様は処刑される前に、麻酔薬の入ったぶどう酒をすすめられましたが、それを断りました。どうしてでしょうか。それは、イエス様は私たちが受けるべき罪の罰を、私たちの代わりに御自分の体に完全に受け止めようとして下さったからです。私たちの罪の罰をご自分の体に受け止めるために、主はとことん傷み、悩み、渇き、苦しんで下さったのです。ただ、死を選ばれただけではないのです。誰かが私たちのために身代わりになって苦しまなければ、しかも何の罪もない義しいお方が身代わりに神の罰を受けて下さらなければ、私たちの罪は贖われることはなかったのです。それは聖書の預言者イザヤの言葉が成就するためでした。

「彼(キリスト)は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みで合ったのに、私たちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:3〜5)とあります。

2. 全てが成就した

そして、主はご自分の贖いの業が、完全に成し遂げられたことを見極めた上で最後に、ぶどう酒をお受けになりました。それが最期の「成し遂げられた」というお言葉です。この言葉は原語のギリシャ語では「テテレスタイ」といいます。これは、「テレオー」という言葉の完了の受動形で、「あることが終了した」、あるいは「完成した」、「実現した」という意味です。この共同訳聖書は「成し遂げられた」と訳していますが、私はこの訳が一番正しいのではないかと思います。

それでは一体、何が成し遂げられたのか、何が完了したのか、何が終ったのかということです。それは、救いの歴史がすでに完了したということです。私たちが、あるいは教会が全世界の救いのために、これから伝道して救いを完成するということではないのです。もうすでに救いはあの二千年前のゴルゴダの十字架の上で、終った、成就したと言うことなのです。アダムの罪以来、人間が背負ってきた罪の負債が、あの十字架の上で償われ、あの時以来、イエス・キリストを信じる者は誰でも例外なく、罪赦され、神の子とせられ、永遠の命をいただくことができるのです。全く新しい世界が成就し、新しい歴史が始まったのです。

そしてこの神が出した答え、結論に対して誰も私は関係ないということのできる人はいません。全ての人があの十字架のキリストの死に関係があるのです。キリストの十字架は全ての人に関わりがあり、全ての人に向って問いかけ、全ての人に応答を迫っているのです。パウロはこう言っています。「私たちはこう考えている。ひとりの人(キリスト)がすべての人のために死んだ以上、全ての人が死んだのである。そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために、生きるためである。」(?コリント5:14b〜15、口語訳)

パウロは、キリストが死んだということは、すべての人が死んだと言うことだといっています。義しい人はどこにもいません。全ての人はこの十字架によって既に死んでいるのです。キリストを十字架にかけた罪の責任を問われているのです。そして神様はこの2000年の時間の隔たりを超え、民族の壁を超えて、この御言葉を通して、私たちにこの救いの良き知らせを届けて下さったのです。「この十字架の御言は、私には関係ないと言って背を向けるものには愚かなものですが、この十字架の御言を聞いて信じる者には、救いを与えて下さる神様の力なのです。」(?コリント1:18)

イエス様は私たちの罪のために、ぶどう酒を最期まで口にせず、私たちに代わって罪の罰と責めをご自分の体に引き受けて下さいました。そして「私は渇く」とおっしゃって最期まで、ご自分の苦しみをもって完全に贖いの業を成し遂げて下さいました。そして、最期に贖いの業が成し遂げられたことを確認した上で、ぶどう酒を受けて息を引き取られました。これが「全てが成し遂げられた」という主の御言葉です。

私たちは例外なく、今、この主の十字架の前に立たされています。主は両手を広げて、私たちを抱きこむようにして立っておられます。それは誰も滅びることなく、この主の十字架のもとに立ち帰ることを願っておられるからです。今は、恵みの時、救いの時です。救いを成し遂げて下さった主の御元に立ち返ろうではありませんか。                   (岡田 久)

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