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光あれ (創世記1:1~5)

メッセージ

2011年5月1日富里キリスト教会
「光あれ!」
(創世記1:1~5)
1.創造の神は愛の神

まず聖書の一番最初の言葉を読んで見ましょう。
「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」(創世記1:1~2)とあります。聖書は、初めがあったことを宣言しています。しかも、その初めから、おられたのは神です。その神が、初めに天と地を創造されました。ですから、この世界、宇宙が出来る前から神は存在しておられたのです。よく子供の頃、この空の向こうに何があるのだろう、宇宙の果てはどこだろうかと想像したことがあったと思います。天をも神様が造られました。

しかも、原語のヘブライ語で見てみますと、「神」という言葉は「エロヒーム」という複数形です。しかし、「創造された」という動詞は、「バーラー」という単数形になっています。ということは、ここでは父、子、聖霊なる複数の神様が、単数の一体となって、天と地すなわちこの世界に向って愛をもって創造の業を行なったということです。三位一体の神がここに意味されているわけです。父なる神、子なる神、そして霊なる神が、愛の故に、その愛の対象として天と地を創造された。そのことが万物の始まりであり、起源なのです。2節には混沌とした暗闇で覆われている世界の上を、聖霊なる神様が、水面上を覆うようにして動いていたのであります。

ですから、この創世記1章1節~2節の御言葉から思い浮かぶのは、御子イエス・キリストを十字架につけるほどに、この世を愛して下さった神様の大きな愛の姿です。聖書の中で最も大切であり、この一言で聖書全体を表わしていると言われている御言葉があります。それは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)この御言葉の原型とも言われるのが、この聖書の最初の言葉なのです。神の本質が、すでにこの聖書の最初の言葉に隠されて示されているのです。神は天と地に向って愛の業、すなわち創造の業を始められたのです。聖霊なる神様は、まるで雌鶏がその雛をかばうようにして、暗闇の世界に呻きながら動めく人々の上に、今も愛の翼を広げておられるのです。

エフェソ1:4(P.352)の御言葉を読んでみましょう。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」天地創造の前から、すでに神様はイエス・キリスト様を通して私たちを愛して下さり、その愛のうちに私たちをお選びくださっておられるのです。

2.創造の神は、御言の光の神

愛が本質であられる神様は、その愛の極みにおいて「光」をこの地に与えて下さいました。それが、次の3~4節の言葉です。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て良しとされた。神は光と闇を分け」(創世記1:3~4)とあります。混沌として無秩序であったこの世界の上に、神の霊が漂っていて、神の愛がその極みとして、ついにこの地に「光あれ」という言を通して、混沌とした闇の世界に入ってこられました。

神様がこの暗闇と無秩序の世界に対して、はじめて御自分の御意志を語られたのが、「光があるように!」という言葉でした。ここで始めて「言葉」が語られました。黙って光が創造されたのではありません。あるいは、別の物質から合成されたのでもありません。神の言葉によって光が与えられたのです。人間はこの光さえも、自分の手によって原子の光を造り出そうとしました。でも、真の光は、神の御言葉によって造られました。放射性物質から造られるのではありません。神の御言葉が創造したのです。無から有を造り出す言葉です。そして、全てのものがこの神の御言葉によって造られました。

ヘブライ人への手紙11:4にこうあります。「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」神はその言葉をもって、光を造り、大空を造り、海も陸も、その上に棲む動物や植物まで創造されました。そして最後に、人間を土の塵から造られたのです。そして天地を創造され、今日のような世界が存在し、私たちはその中に生かされています。神の言葉は、無から有を造り出す言葉です。

今も、震災と津波、原発事故で被災された方々は、避難所生活をし、これからの生活のメドも立たずに、暗い中にあって必死に希望の光を求めながら頑張っております。人は暗闇の中の一筋の光と希望の言葉なしには生きてゆけません。
イザヤ書60:1に「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出て、主の栄光があなたの上に現れる。」とキリストの光を預言した言葉があります。私たちも、この闇を照らす一筋の光に目を注ぎつつ、光を求めて歩んで行きたいと思います。

4.創造の神は、救いを完成する神

神はこの世に光を送りました。しかし、すべてが光に照らされて昼になったわけではありません。闇の部分が残っています。そして、光を昼と呼び、残された闇を夜と呼びました。そして夕べがあり、朝があって第一日が終りました。これが神の一日です。聖書では夜と言わずに、「夕」となっています。夕とはどういう時でしょうか。たいていは、仕事が終って、さあ、これから町にでも繰り出して楽しもうという時間帯かも知れません。でも、聖書では「夕」と言いますと、後に出てきますが、アダムとエバが罪を犯してしまった後で、神様が二人を呼びに行った時刻です。共同訳聖書では、「風の吹くころ」(創世記3:8)となっていますが、現代訳聖書では、「夕方」となっています。

つまり、神様が私たちに会いに来られる時間、これが夕方なのです。朝ももちろん神様とお会いする時ですが、「夕べがあり、朝があった」ということは、「これから暗い夜が来る、でも、私が一緒にいるから心配することはない。」と神様がおっしゃって下さる時間なのです。ですから、夕とは夜が来る前に、主の前に御言葉の光を求めて祈る時です。夜の暗闇に負けないように武装する時です。そして、主に委ねて眠る時です。ただし、眠っている間も、神様が目を覚まして守っていて下さいます。

この夜の時間は、人生の中で一回だけではないかもしれません。創世記の1章には何度も繰り返して、「夕べがあり、朝があった」あります。人生の中で、何度も暗い夜を迎えることがあるかもしれません。先日の大震災の時のように、一瞬にして家族も家も仕事も失ってしまうことがあるかもしれません。原発事故で、生まれ故郷を離れ、着の身着のままであちこち避難して移動しなければならないことがあるかも知れません。誰でも、長い人生の中で、そのような暗い夜を過ごす時があります。でも、必ず明るい光の朝がやって来ます。これが、「夕べがあり、朝があった」という神様の約束の言葉です。必ず、朝がやって来ます。朝の光が輝き照らす時が来ます。これが、「光あれ!」とおっしゃった神様の言葉です。

神様は、私たちの人生が、日が暮れるようにして終わりを迎えるのではないといっております。そして、この夜と昼の順序を通して、私たちの人生の中で、たとえ夜の暗闇の中を歩くようなことがありましても、必ず、朝の光がやってくるということを約束しておられます。たとえ、夜を貫いて生きてゆかなければならないような時があっても、全ては、復活の朝の光に向って歩いているのです。初めにおられた神は、この終わりの復活の光をめざして今も働いておられます。繰り返し繰り返し、「夕べがあり、朝があった。第一の日である。」と初めであられる神は、光の終わりをめざして今日も前進しておられます。

今日から始まる一週間、夜を迎える時にも、いつも私たちを見続けてくださっている神様の光を祈り求めつつ歩みましょう。そして最後の復活の朝の光のもとに甦らせてくださる主の約束の御言葉を心に蓄えつつ、希望の 朝をめざして日々歩んで行きたいと思います。(岡田 久)

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