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兄ユダの執り成し (創世記44:18~34)

メッセージ
2019年8月18日富里キリスト教会
「兄ユダの執り成し」
(創世記44:18~34)
1.神が僕どもの罪を暴かれた

いよいよ全世界的な飢饉の時代がやってきました。ヨセフの故郷カナン地方も食料が無くなって、ついに食料のあるエジプトまで食料を調達に行かなければならなくなりました。ヨセフの兄たちはエジプトに合計二回買い出しに行っております。今日はその二回目の買い出しの場面です。ヨセフは二回目に来る時には、末っ子のベニヤミンを連れてくるようにと命令しました。ところが父ヤコブは、ヨセフに続いてベニヤミンにも、もしものことがあればと思い、なかなかベニヤミンを一緒に遣わしませんでした。

しかし四番目の兄ユダの説得によって、なくなくベニヤミンを同行させます。案の定ヨセフの策略によって、ベニヤミンの袋の中から銀の杯が出てきました。これは、あらかじめヨセフがこっそり入れておいたものでした。そしてベニヤミンを銀の杯を盗んだかどで、自分の屋敷で奴隷として使おうとして連れ戻します。実はこれは、ヨセフが自分を売り飛ばした兄たちが、その後どのようになったのかを確かめるための芝居でもあったのです。昔のように、血を分けた兄弟を顧みずに、ベニヤミンだけを残して、自分たちだけでカナンに帰ってしまうのかどうかを試したのです。

おそらく昔でしたら、ベニヤミンが悪いといって、ベニヤミンを非難し、自分達だけでカナンに帰って行ってしまったかもしれません。そういう自分中心の兄たちでした。妬みに駆られて弟のことを何とも思わない兄弟たちでした。でも十数年の歳月の間、兄たちにも自責の念、ヨセフに悪いことをしたなあという思いが沸き上がって来たのではないでしょうか。父に対してついた嘘と弟殺しの罪の思いが彼らの心をいつも苦しめていたのかもしれません。

44章14節を見ますと、「一同は彼(ヨセフ)の前で地にひれ伏した。」とあります。つまり兄弟全員が、ベニヤミンのためにヨセフの屋敷に舞い戻って、ベニヤミンのために執り成しの願いをしたのです。ここにかつての兄たちとは違う、弟思いと親思いの兄弟たちの姿がありました。そして、その中で特に目立っていたのがユダでした。彼は四番目の兄でしたが、ここでは兄弟全員の代弁者としてヨセフに執り成しています。

「御主人様に何と申し開きができましょう。今更どう言えば、わたしどもの身の証を立てることができましょう。神が僕どもの罪を暴かれたのです。この上は、わたしどもも、杯が見つかった者と共に、御主君の奴隷になります。」(44:16)と言いました。ユダが「僕どもの罪」と言っているように、ここで初めて彼らはかつての自分たちの犯した罪の過ちを口にしたのです。そしてベニヤミンと共に、罪の償いとしてヨセフの奴隷になることを告白しました。

相手の罪や過ちを責め立てるのではなく、それをお互いに自分たちで負い合うことによって、兄弟の一致を表明したのです。ヨセフはまだ自分の身を明かすことなく、兄たちの信仰の成長ぶりをひそかに確かめています。しかし今やっと、兄弟たちの中に、あの人が悪いとかこの人のせいだとかという第三者的な見方ではなく、自分たちは同じ兄弟姉妹なんだ、あいつのせいでこうなった、あいつがいなければという自己中心的な考えではなく、自分も同じ兄弟なんだ、自分の中にも同じ罪があるということを告白するようになったのです。

Judah said “God uncovered your servants’ guilt. We are now my lord’s slaves – we ourselves and the one who was found to have the cup.” (Genesis 44:16) Judah confessed their guilt that once they sold their younger brother Joseph to the Egyptian caravan. They did not blame each other and confessed their sins in his word. They proposed to be slaves of Joseph with their younger brother Benjamin.
Their heart has changed totally.

ダニエルも同じような祈りをささげています。彼は何の罪を犯したわけでもありませんが、自分自身の罪と自分の民の罪の両方を告白して祈りました。「わたしは主なる神を仰いで断食し、荒布をまとい、灰をかぶって祈りをささげ、嘆願した。わたしは主なる神に祈り、罪を告白してこう言った。『主よ、畏るべき偉大な神よ、主を愛しその戒めに従う者には契約を守って慈しみを施される神よ、わたしたちは罪を犯し悪行を重ね、背き逆らって、あなたの戒めと裁きから離れ去りました。・・・こうしてなお訴え、祈り、わたし自身とわたしの民イスラエルの罪を告白し、わたしの聖なる山について、主なるわたしの神に嘆願し続けた。』」(ダニエル9:3~5、20、P1395)とあります。

ダニエルは何も罪を犯していませんでした。義しい人でした。弟を売ったことも妬んだこともありません。それでも彼は自分自身の罪について告白して祈ったのです。ユダは「神が僕どもの罪を暴かれた。」とかつての罪を告白しました。よくこの教会は愛がないとか、この教会は伝道しないという方がいますが、それは自分自身を第三者的に括弧にくくって言っているのではないでしょうか。そして自分だけが愛がある、自分だけが正しいと思っていますと、第三者的な思いが出てくるのではないでしょうか。この教会は同じ神の家族、神の民なのです。そういうあなたも同じ家族の一員なのです。愛がないという人は自分に愛がないと言っているのと同じなのです。伝道しないという人は自分が伝道していないということなのです。皆が聖書が分からないということは、自分が分からないということを言っているのです。

ですから聖書に「自分に罪がないというなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。罪を犯したことがないというなら、それは神を偽りものとすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」(Ⅰヨハネ1:8~10)自分に罪がないといえる人、自分は罪を犯したことがないといえる教会員は誰もここにいないはずです。そう言える人は教会のメンバーではありません。神の家族の一員ではないのです。神様の目から見るならば、すべての人が罪人の頭なのです。神に対して大きな借り、負債を皆持っているのです。ですから、誰も自分には罪がない、罪を犯したことがないといえる人はいないのです。

The prophet Daniel also prayed intercessional prayer. “While I was speaking and praying confessing my sins and the sins of my people Israel and making my request to the Lord my God for his holly hill.” (Daniel 9:20) He was a righteous man, nevertheless he confessed his own sins and the sins of his people Israel. We are the same God’s family and one body of Christ. We are the portion of one body. If we accuse the other portion, it will accuse to ourselves because we are the same one body. So one who are the member of this church never blame the other portions for we are the same family of God. One who belong to one body should confess their sins and guilts each other at first like Judah.

2.この子の代わりに奴隷となります

更にユダはこう言って、ヨセフに訴えています。彼は自分の罪を告白しただけでなく、自分が身代わりになってその罰を受けてもいいとさえ言ったのです。
「何とぞ、この子(ベニヤミン)の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子は他の兄弟たちと一緒に帰らせてください。この子を一緒に連れずに、どうしてわたしは父のもとに帰ることができましょう。父に襲いかかる苦悶を見るに忍びません。」(創世記44:33~34)

四番目の兄ユダは、四番目の兄ですが、兄弟全員を代表して、一生懸命ヨセフに執り成しの願いを訴えています。ここにわたしはあの十字架の上で、罪人たちのために必死に執り成しの祈りをささげるイエス・キリストの姿を見る思いです。キリストはご自身、本当に罪を犯したことがないお方であるにもかかわらず、罪人のために、自分の命を捧げるほどの執り成しをしています。そこには自分を犠牲にしてまでも、罪深いもののために身代わりになって罰を受けようとする愛がありました。執り成しの祈りと言いますのは、普通の祈りではなく、自分を犠牲にしてまで、自分を捨てて、相手のためにプラスになることを計ってあげる祈りです。

自分が代わりに罰を受けます、自分が代わりに責めを受けますという自己犠牲ともいえる必死の、また大いなる愛を動機とした祈りではないでしょうか。これが兄ユダの執り成しの祈りでした。ユダはこの子の代わりに自分を奴隷として使ってください、この子だけは父のもとに帰してください、わたしが犠牲となってもかまいませんと訴えました。父ヤコブをこれ以上苦しめることはできませんと、ベニヤミンと父ヤコブに対する愛、そして他の兄弟たちのためにも、代わりに自分を犠牲として奴隷になることを申し出ました。このユダの子孫からダビデが生まれ、さらにイエス・キリストが生まれてくることになります。

有名なイエス様の御言葉があります。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。」(ヨハネ15:12~14)まさにユダは、兄弟のために自分の命を捨てたのです。神様の愛をユダは表しました。自分を捨てるという愛です。そして兄弟の身代わりとなるということです。

しかも自分の愛する友だけではありません、愛せない友に対してこのことを表すことが本当の愛です。うまが合う人、雰囲気が合う人、恩義のある人に対する愛は真の愛ではありません。そんなことは皆します。敵を愛する愛なのです。イエス様の十字架は、弟子たちだけの為でしたでしょうか。そうではありません、イエス様の愛は自分のわき腹を刺したローマ兵に対しても向けられていました。総督ピラトにも、祭司長や律法学者にも、そしてあの主を裏切ったユダにもです。

このようにして、ユダの執り成しの祈りは、自分の罪を告白するだけではなく、自分を捨てて、自分を犠牲にしてまでもなお、相手のために自分を犠牲にして捧げて行く神の愛にまで高められていたのです。そしてこのユダの執り成しによって、ついにヨセフ自身も感極まって、自分の素性を明らかにします。ヨセフもついに自分の本性を表します。そしてそこには、兄弟たちに対する積年の恨みや憎しみや報復という顔ではなく、大きな愛と赦しと和解の顔を見ることができるのです。

Judah not only confessed their sins but also proposed to replace Benjamin. His intercessional speaking was raised to the love of God that will sacrifice at his own expense. Hearing to the Judah’s intercessional speaking, Joseph revealed his own face that is the same son of Israel. They could see each other in the forgiveness and reconciliation of God. If we recognize our failure and our sins and abandon ourselves and make a intercessional prayer, we will be able to see the face of God in our opponent. Jesus said ,“ Love each other as I have loved you, Greater love has no one than this, that he lay down his life for his friends.”(John 15:12)

わたしたちが自分の非を認めて、自分を捨てて、友のために執り成しの祈りをする時に、敵対している相手の顔に神の愛の顔を見ることができるのです。かつて、この12人の兄弟たちの父親ヤコブも兄エソウと敵対していました。兄に合わせる顔がない、兄は自分を赦してくれるだろうかと思案しつつ、一晩中祈りました。そしてついに、その夜を徹した祈りの中で、ヤコブの自我という腿のつがいが神の手によって砕かれました。そしてヤコブは自分というものを捨てて、死を覚悟して兄エソウの前に、へりくだって進み出ました。そうしましたら、兄は自分に仕返しをするどころか、弟ヤコブの首を抱いて接吻しました。ヤコブはこの兄の顔の中に神の愛の顔を見ることができたのです。

そして今、このユダも父ヤコブの信仰を受け継ぐ者として、死を決意してヨセフの前に出ました。しかし、そこで見たのは弟ヨセフの愛と赦しの顔だったのです。まさにユダもそして兄弟たちも、このヨセフの赦しの再会を通して、神の愛の顔を見ることができたのです。ヨセフ自身も自分の仮の姿を脱ぎ捨てて、真の姿、同じヤコブの兄弟だということを明らかにしたのです。わたしたちも自分の罪を告白して、そして自分を捨てて一歩、歩み出すならば、そこに兄弟姉妹の和解と一致の姿を見ることができるのではないでしょうか。その時に、神が宿るところの真の兄弟姉妹、真の神の家族になって行くような気がします。(岡田 久)

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