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偶像礼拝を避けよ (Ⅰ コリント10・14〜22)

メッセージ

2010年1月31日富里教会
    「偶像礼拝を避けよ」
         (Ⅰコリントの信徒への手紙10:14〜22)

1.偶像礼拝とは何か?
旧約聖書の十戒の第二番目に「あなたはいかなる像も造ってはならない」という掟があります。そして、イスラエルの闘いは常にこの偶像との闘いでした。これは天地万物を造りたもうた真の神を拝まずに、神が造った被造物である星や太陽や動物や木を礼拝の対象にして拝む事でした。日本では火の神様、山の神様、海の神様、畑の神様、家の神様とありとあらゆる神様に囲まれて生活しています。八百万の神々といわれ、八百の神がいると言われています。

聖書の中でも、モーセが十戒を授かった後、イスラエルの民がすぐにこの偶像礼拝の罪に陥ったことが記されております。モーセと一緒にエジプトを脱出したはいいけど、民は約束の地を目指す荒野の旅に耐え切れなくなってきて、モーセと神様に対して不平不満をぶつけました。こんなはずではなかった、もっと理想の生活を夢見てきたのに、毎日毎日、テント暮らし、決まりきったマナという食べ物しか与えられない、もっといい家にすみたい、もっとおいしいものを食べたい、といってつぶやきました。そしてある時、モーセがシナイ山に登って姿が見えなくなったとき、彼らの不安が絶頂に達し、自分たちの手で神を造ってしまいました。それが、あの金の雄牛の像でした。人々はこの偶像を囲んで、歌い踊りました。心の不安を支えてくれる目に見えるもの人の心は、たやすく動きます。それがお金であったり、人間であったりする場合もあります。

今朝のコリント前書10:5〜7にこう書いてあります。「しかし、彼らの大部分は神のみ心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。これらの出来事は、私たちを戒める前例として起こったのです。彼等がむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。彼らの中のある者がしたように、偶像礼拝をしてはいけない。『民は座って飲み食いし、立って踊り狂った』と書いてあります。」

自分の思い通りになる神様、そうでないと捨ててしまう態度です。そういう、人間の気ままな思い通りになる神を偶像と言います。でも結局は人間のわがままのなせる業です。人間の自分勝手な信仰の姿を見てみましょう。
「木は薪になるもの。人はその一部をとって体を温め、一部を燃やしてパンを焼き、その木で神を造ってそれにひれ伏し、木像に仕立ててそれを拝むのか。また、木材の半分を燃やして火にし、肉を食べようとしてその半分の上であぶり、食べ飽きて身が温まると、『ああ、温かい、炎が見える』などと言う。残りの木で神を、自分のための偶像を造り、ひれ伏して拝み、祈って言う。『お救いください、あなたは私の神』と。」(イザヤ書44:15〜17、P.1133)

これが偶像礼拝の実態です。つまり自分の言いなりになる神です。崇めたり礼拝したりしますが、自分の願いどおりにならないとすぐに捨てて、燃やしてしまう。まるで自分が神様みたいなものです。パウロは、木とか石でできた偶像は、人間が手で造ったものだからそれは神ではないし、またそういう神は存在しないと言っています。(?コリント8:4)神は天地万物を造られた唯一人の神しかいないからです。偶像礼拝は人間の願望が、木とか石とか人間に反映されたものであり、その背後には悪霊の働きが潜んでいる事を覚える必要があります。

2.偶像礼拝の実態
確かに石や木を材料にして神の形を造っても、それが神ではないことは私たちは知っています。しかし、時にはそういう刻んだ像を恐れたりすることがあります。私は今まで、創価学会の仏壇を処分して下さいと脱会する人から頼まれて、何度もその仏壇を焼却したり、バラバラに壊してごみ収集に出したりしてきました。でも、ご本人はそれができないのです。木で造った単なる四角い箱とは思えないのです。そこに何かしら霊とか仏様とかがいると思い込まされて、怖がっているのです。

パウロもこう言っています。今日のコリント信徒第一の手紙10:19を見てください。「私は何を言おうとしているのか。偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか。いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になって欲しくはありません。主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓に着くことはできません。」とパウロは言っています。つまり、偶像という神は存在しないのです。ただ、存在するのは悪霊が石や木の像を使って、人間を怖がらせ、脅して、真の神様から引き離そうとしていると言うのです。

教会学校に来ていた一人の子がいました。お母さんが新興宗教の信者さんでしたが、子供は教会学校に来ていたのです。ある時、その新興宗教のお祝いがあって、お母さんに連れられて、その宗教の行事に参加しました。そして、最後に教祖様が、参加した子供達に記念のお饅頭を一人づつていねいに配り始めました。みんなそれをありがたくいただいて、食べていました。そしていよいよ、その子の番になりました。でもその子はいただいたお饅頭を食べません。お母さんがそばで、早く食べなさいと言うのですが食べませんでした。そしてその子いわく、「僕は、日曜日に教会学校に行っていて、イエス様のお話を聞いているので、これをお返しします。」と言ったそうです。お母さんはもうあわてて、無理矢理食べさせようとしました。しかし、その時、その教祖様曰く「お母さん、その子の言うとおりだ。君の信仰は立派だよ。」といってほめられたそうです。

霊のことは霊が分かります。私たちにはイエス様の霊が付いているのです。どうしてそれをもって悪霊の食事にあずかっていいでしょうか。悪霊の食事に連なることは悪霊の仲間になることです。偶像礼拝の儀式は悪霊のなせる業なのです。無頓着にまた節度をわきまえないで、そういう行事に安易に参加していいでしょうか。クリスチャンはもっとそういう霊的なことに敏感にならなければいけません。悪霊が私たちを真の神様から引き離そうとして、人間や石や木を立ててそれを拝むようにし、その食卓に加わるように誘って、私たちを惑わしているのです。クリスチャンは本当に真の神を信じているのだろうか、一つ試してみるかと言って、私たちを偶像のところに連れてゆくのではないでしょうか。

3.日本の異教社会の中で
ではこの異教社会、八百万の神々の世界に住んでいる日本人のクリスチャンに取りまして、どのように対処したら良いでしょうか。特にお葬式とか法事に行きますと、お寺の中で会食をすることもあります。町内会では神社の氏子にさせられてしまっています。親戚付き合いや地域社会の中で、仏教や神道の行事に巻き込まれて生活しなければいけません。パウロは、偶像にささげる供え物は悪霊に献げているのだから、彼等と一緒に食事をして悪霊の仲間になって欲しくありませんと訴えています。でも、私も母が亡くなった時には、クリスチャンでありませんでしたので、菩提寺のお寺で葬儀を行い会食もしました。その時はじゃんじゃんとどらを鳴らす宗派でしたので、心が揺さぶられるような気がしました。悪霊が私に、「お前の心の扉を開いて俺を入れてくれ」と言っているような気がしました。この騒々しい読経の間、必死に主の祈りを唱えながら抵抗したのを覚えております。

旧約聖書の中にも、どうしても役目上異教の神を礼拝しなければならない場合の事例が出ております。見てみましょう。列王記下5:18〜19(P.585)「ただし、この事については主が僕を赦して下さいますように。わたしの主君がリモンの神殿に行ってひれ伏すとき、私は介添えをさせられます。そのとき、わたしもリモンの神殿でひれ伏さねばなりません。わたしがリモンの神殿でひれ伏すとき、主がその事についてこの僕を赦してくださいますように。エリシャは彼に、『安心して行きなさい』と言った。」

ナアマン将軍は、預言者エリシャに、病気を癒してもらい神を信じる者となりました。しかし、自分の立場上、王様と一緒に偶像リモン神の儀式に出席せねばならないことを打明けて、預言者に祈ってもらいました。私たちもこの異教社会の中で、いろんな諸宗教の儀式に参列せねばならない時があります。でも、自分から積極的出てゆくことは絶対に避けたいものです。「偶像礼拝を避けなさい」とパウロが言っています。これは単に避けて通りなさいとか、近寄らないようにということだけではなく、できるだけ遠くへ離れて逃げよという意味です。

自信過剰にならないように、へりくだって、真の神を畏れつつ歩むことが大事です。ただどうしても止むを得ない場合には、悪霊の誘いから守ってもらうように、牧師に祈ってもらうとか、教会で祈ってもらうようにしたいものです。私たちは一人一人は、聖霊様の宿る聖なる神殿です。そして、自分の心の中の偶像を捨て、十字架の言葉を第一として、へりくだって目を覚ましつつ歩んで行きたいと願っています。               

                        岡田 久

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