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偶像礼拝の罪 (出エジプト記32:1~14 )

メッセージ

2015年9月6日富里キリスト教会

偶像礼拝の罪」
(出エジプト記32:1~14)

1.偶像礼拝とは何か

「モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、『さあ、我々に先立って進む神々を作って下さい。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです。』というと、アロンは彼らに言った。『あなたたちの妻、息子、娘らがつけている金の耳輪を外し、わたしのところに持って来なさい。』民は全員、つけていた金の耳輪を外し、アロンの所に持って来た。彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳造を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神だ」と言った。」
(出エジプト記32:1~4)

イスラエルの民は、モーセを見失い、代わりに自分たちの目に見える、自分たちのイメージにぴったりする神々を作って欲しいと、アロンに求めたのです。彼らの不信仰と罪はこうです。1、モーセを待つことができなかった。2、神々と言っていますから、唯一の神ではなく諸々のいろんな神様を求めたことです。つまり彼らは、信仰を持ってモーセの帰りを待つことをせず、自分たちの思いどおりになる、自分たちに便利な、自分たちに安心を与える神を要求したのでした。「神々を作ってくれ。」とアロンに要求しています。神を造ってくれという何と言う言葉でしょうか。神様は造れるのですか。自分たちにイメージにぴったりの理想の神様があるのでしょうか。これが偶像礼拝の本質です。自分たちのイメージにぴったりの神々を造りたいということです。自分たちが中心なのです。自分たちの感情、思い、熱情が彼らを掻きたてているのです。

祭司のアロンもアロンです。モーセから留守を任されていたにもかかわらず、民に喜ばれる立派な指導者の役割を演じようとしました。そして民の要求通りに、とんでもない神を造ってしまったのです。それが「金の子牛」でした。彼は民の熱心な要求を利用して、所持していた金を全部集めました。人々にとっては、一番大切なものです。それでも、偶像への思いに代えることはできません。民は惜しむことなく捧げました。「全員」とありますとおり、全員が献げたのです。偶像礼拝は熱心です。そしてアロンはそれを使って、金でできた「若い雄牛の像」を造り上げました。

結局、偶像礼拝というのは、自分が中心なのです。自分に合う神、自分好みの神、自分の理想とイメージにぴったりくる神が欲しいのです。列王記上12:28~33(旧約P.552)を読んでみましょう。ここにも二頭の金の子牛を造ったヤロブアムという、北イスラエルの悪名高い王の偶像礼拝の様子が述べられております。彼も金の子牛を造り、「自分で祭司を選び」、「自ら祭壇に上り」、「自分で作った子牛」、「自分で造った高台」、「自分で祭壇に上って、自分で香をたいた」のです。自分、自分、自分とあります。これが偶像礼拝の根っこであり、神を認めない罪の本質なのです。自分中心、高慢、貪欲、飽くなき欲求です。

さらにイザヤ書に、人間の思い通りにある神がどんな結末になるかが記されています。(イザヤ44:15~17を読む。P.1133)同じ一本の木で、パンを焼いたり、肉をあぶって食べたりして、使い残した残りの木で神様を造って、「神様わたしをお救い下さい、あなたはわたしの神」と言うというのです。これでは偶像の神様はかわいそうです。たまったものではありません。それもこれも人間が自分の思いで、自分の理想とイメージにぴったりの神を造ることから来るのです。偶像礼拝はまさに、神に対する大いなる反逆であり罪そのものなのです。神を自分の欲望に従わせようとする罪です。

今日の週報の牧師室に書きましたが、慧人君の報告の中に「自分を捨てることが神に仕えることである。」という言葉がありました。自分の理想、自分のイメージ、自分のポリシーである自分の偶像を捨てることです。これが自分を捨てることではないでしょうか。あえて申しますならば、目に見えない神様はわたしたちの交わりの中に、あえて形を取られます。それはお互いに自我に死んで、主にあってへりくだり、謙遜の限りを尽くして仕え合う教会です。これこそ真の神の教会であり、そこに目に見えない真の神様が御臨在するのではないでしょうか。

2.神の怒りをなだめるモーセ

シナイ山のふもとから聞こえてくる宴会の楽しげな声や、歌や踊りを御覧になられた神様はこう言われました。「主は更に、モーセに言われた。『わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上っている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。』モーセは主をなだめて言った。『主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。どうしてエジプト人に、「あの神は、悪意を持って彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した」と言わせて良いでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民に降す禍を思い直して下さい。』」(出エジプト記32:9~12)

今にも山から降って行って、民を滅ぼそうとしている主に対して、モーセは必死に食い下がり、主をなだめました。三つの理由で説得しました。一つはあの民はご神御自身の民だということです。その自分の民をどうして怒りに任せて、自分の手で滅ぼされるのかと問いただしました。そして二点目は、神様が自分の民に災いを下して滅ぼしてしまったら、神様御自身があの異邦の民から馬鹿にされますよと言ったのです。最初から滅ぼすためにわざわざエジプトから導き出して来たのか、神のやること事態が矛盾しているのではないかと、反対者に非難されますと言いました。そして三番目は、あのアブラハム、イサク、ヤコブに約束された祝福はどうなるのですかと問いました。この三つの点を取り上げて、モーセは必死に神様に思い留まるように、怒りの矛先を収めるようにと説得し、怒りをなだめたのでした。

その結果、主は御自身の民に下そうとした災いを思い留まったのでした。14節に、「主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。」とあります。まさしくモーセは、神と人間の間に立って、人間の罪のとりなしをして下さったイエス・キリストの予型としての姿を明確に示しています。32:32ではこう言っています。「今、もしもあなたが彼らの罪をお許しくださるのであれば、どうかこの私をあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」と。罪を犯して神に背き、神の怒りを受けるはずの民の側に立ち、自分の命さえ顧みず必死にとりなしの願いをささげて下さったのです。この神の怒りをなだめる働きが、やがてイエス・キリストの十字架として完全に成就することを指し示しています。

3.イエス・キリストの十字架の贖い

このモーセの命がけの説得にもかかわらず、イスラエルの民はこの後も実に、次々と神に逆らい続けます。数え上げればきりがありません。出エジプトは、民のつぶやきの記録と言っても過言ではないほどに、人々は次々と主に逆らい続けます。その結果、約束の地に生きて足を踏み入れることのできたのは、カレブとヨシュアの二名しかいませんでした。後は途中で息絶えて死んでしまいました。もちろん地上のカナンには入れませんでしたが、天の約束の地には入ることができました。あのモーセでさえ、かたくなでわがままな民の罪の故に、ついに堪忍袋の緒が切れて怒りを爆発させてしまいます。その結果、モーセも地上での約束の地を踏むことができませんでした。(メリバの水事件)モーセも所詮、人間だったのです。命がけで神の怒りをなだめることをしましたが、彼も人間でしたので肉の弱さを持っていました。神への不従順の罪を犯してしまいました。それほどまでに、人々の罪は大きくてしつこいのです。繰り返し、繰り返し、神を怒らせては赦され、神に背いては罪赦されて来ました。また神様も民のかたくなな罪に怒りを爆発させそうになっても、そのつど思い留まって赦し続けたのです。人間の罪過ちを赦すための、真の宥めの供え物が表れるまでそれは続きました。

そしてとうとう、最期に、神様御自身が宥めの供え物として、御自分の独り息子であり、神御自身でもある御子イエス・キリストをこの世に遣わされたのです。そして、御子イエス・キリストの十字架の宥めの供え物としての苦しみを通して、人間の罪が完全に贖われたのです。モーセにはできなかった、完全なる宥めの業です。しかも人間の側から用意されたのではなく、神御自身が備えて下さった完全なる神の子羊としての贖い供え物です。モーセの良心、モーセの信仰ではなく、神様の真実(信仰)によって献げられたのです。それがあのカルバリの十字架のイエス・キリストなのです。彼以外に、完全な神の宥めの供え物は他にありますか。神様御自身から差し出して下さった宥めの供え物なのです。

モーセのとりなしは、旅の途中に何度も何度もありました。どんなにか苦労したことでしょう。民が不平不満をぶつけ、神に対して罪を犯す度にモーセが間に入ってとりなして来ました。でもこのモーセのとりなしと神の子羊であるイエス・キリストのとりなしとでは、雲泥の差があります。それは、イエス・キリストは神から差し出された完全な最終的な宥めの供え物だということです。モーセにはできなかった神の真実と確かさがあります。キリストは罪を贖うためにこの世に来られた神そのものなのです。愛と赦しの神の本音と本質を表しています。

イエス・キリストの贖いの業は、一回限りではありますが、永遠に有効なものです。神がわたしたちの罪のために、肉体を取り、血を流して十字架の上でとりなして下さったのです。キリストの苦しみは完全な贖いの供え物です。キリストの血潮は、すべての罪人の罪をことごとく洗い流して下さいます。人間の過去、現在、未来に渡って犯したあらゆる罪を赦し、わたしたちを完全に聖めてくださいます。なぜなら、イエス・キリストは神そのものだからです。誰がこのことに「そうではない」と異議を唱えることができるでしょうか。

完全な罪もしみもない宥めの供え物による罪の赦しと贖いの業は、永遠に消えることはありません。神の恵みの業は、人間のあらゆる罪の業をのみ込むほどに大きく力のあるものです。「罪の増しく加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」(ローマ5:20)とありますように、神の愛と恵みは尽きることなく罪をものみ込むほどに豊かで、永遠に私たちのものなのです。この神の賜物は、イエス・キリストにおける神の愛と赦しによる、永遠の真の命なのです。そのことを覚えながら、感謝と喜びをもって、この後の主の晩餐にあずかって行きましょう。 

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