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信仰者ヨセフと共にある神 (マタイ)1:18~25

メッセージ
2020/12/13
富里キリスト教会礼拝説教
「信仰者ヨセフと共にある神」
(マタイ福音書1:18〜25)

①イエスの誕生は聖霊によって
先週は長い長い系図を辿りながら、旧約聖書を振り返りイエス・キリストは神の救いの計画の成就であることを改めて確かめ、旧約聖書と新約聖書を少し繋いでみる。そういったことをいたしました。さて、その長い前置きが終わり、やっと今日からがその新約聖書の本格的なはじまりといってよいでしょう。なぜならイエス・キリストがお生まれになる。まさにそこから新たに神の啓示と歴史が始まっていくからです。

マタイ1:18
「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」

イエス・キリストの誕生、いわゆる処女降誕といわれる物語は福音書の中ではマタイによる福音書とルカによる福音書の2カ所に書かれておりますが、全く同じ内容でなくそれぞれに特色があります。ルカは妻であるマリヤにフォーカスを当てていますが、今日の箇所であるマタイのほうは夫であるヨセフにフォーカスを当てています。これは男性中心のユダヤ社会を意識したのではないかとか、預言の成就としてのダビデの子という面を強調するためにダビデの子孫であるヨセフにフォーカスを当てたとか色々予測できますが、よく言われるのは、イエスをマリヤの不貞の子とするユダヤ人たちのそしりに答えるためのものであるということです。これは、裏を返すと、当時ヨセフ、マリヤ、イエス様はそのように言われていたということでしょう。
しかし、マタイはそのような憶測やうわさを明確に否定し、その出来事は神のみわざであることを高らかに宣言するのです。未婚のマリヤが身ごもったのは不貞ではなく、聖霊によってみごもったのだ。これがマタイが伝えたかったポイントの一つです。そして、それはマリヤにフォーカスをあてたルカ福音書においても同じように明確に語られており、この二つの処女降誕の物語における最も顕著な共通したメッセージであります。更に言えばイエス・キリストは人間の子ではない。聖霊が人を通して生まれた神の御子である。神が人の形を通して私たちの世に降りてきてくださったのだ。これを神学用語で受肉といいますが、この真理は聖書全体から明確に語られている事柄なのです。
イエス様は神様の超自然的働き、奇跡によってお生れになられたのです。使徒信条には「処女マリヤより生まれ・・・」とありますがこの告白は、イエスの受肉と誕生に関する聖書の証言と、歴史の中で生きてきた私たち教会の信仰を的確に言い表しています。つまり、処女降誕という事柄はイエス・キリストの神性を表すとても大切な事柄なのです。聖霊によって生まれた子であるということを否定しては決してならないのです。聖なる神があえて、本来汚れた人を通してお生れになったという本当に美しく感動的な出来事なのです。
そしてイエス・キリストの人生は命という人間の限界を超えた領域における神の奇跡に始まり、奇跡に終わります。始まりは、先ほどからお話ししている受肉であります。そして、最後は復活です。処女の胎に命が宿るという奇跡に始まり、人間が超えることができない死への勝利である復活という栄光をもってイエス様は天に昇られました。この人間が超えることのできない二つの奇跡をとおして、イエス・キリストは真実に神であることを聖書は明確に証明しているのです。
そのように、今の私たちは聖書を通して、この処女降誕という奇跡が神のみわざだとわかることができます。しかし、まさにこのマリヤとヨセフが生きていた時代にそのことを誰が証明することができたでしょうか。言ってもだれにも信じてもらえなかったことでしょう。マリヤからすると、この喜びの知らせは人生を揺るがす大ピンチだったことでしょう。大げさではなく命に関わる問題でした。しかし、それでもマリヤは「私は主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように。」と御心を求め全てを主に委ねます。本当にマリヤの信仰には感動を覚えます。さて、ではヨセフはどうでしょうか。

②ヨセフの正しさ
マタイ1:19
「夫ヨセフは正しい人であったので、マリヤのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」

聖霊によってみごもった。マリヤがどこまでヨセフに伝えたのかはわかりません。しかし、どう言われたとしても信頼していた許嫁が妊娠したという事実は彼にとっては何よりも大きなショックがあったことでしょう。18節で明らかになったという言葉がありますがこれは非常に強い驚きを表すギリシャ語です。判明したという意味にも使われます。晴天の霹靂。これはもはや事件だ。そういった心境だったかもしれません。マリヤにも大きなチャレンジでしたがヨセフにとってもこれ以上ないチャレンジでした。
一体どうすれば良いのだろうか・・・。彼の最終的な選択は離縁というものでした。これをマタイは正しい人ゆえの決断だと表現します。ここにおける正しさとはパリサイ人のような正しさではありません。聖書が認める正しさです。ヨセフは心においても行いにおいても正しいものでした。なぜなら、彼の中心にあるものは愛だったからです。聖書のいう正しさには必ず愛が伴うものなのです。
結婚前の婚約者の妊娠という出来事に対して、ヨセフには二つの選択が可能でした。一つは律法に従った処置です。石打ちによる死刑です。

申命記22:23−24

「ある男と婚約している処女の娘がいて、別の男が町で彼女と出会い、床を共にしたならば、その二人を町の門に引き出し、石で打ち殺さなければならない。その娘は町の中で助けを求めず、男は隣人の妻を辱めたからである。」

ヨセフがこちらを選択しても別におかしくはありませんでした。不貞は完全に相手に非があるもの。律法的にはこの選択は正しいものとも言えました。しかし、彼はそうせず、もう一方を選択しました。それは、寛大なやり方で、当時の離婚法によって公にしないで離婚状を書いて去らせるという愛と憐れみにみちたものでした。表沙汰にはせず、ひそかに離縁しようとしたのです。ヨセフにはきっと怒りや悲しみ、様々な葛藤があったことと思います。しかしそれ以上に彼はマリヤを愛していたのです。それゆえに、彼女の命と尊厳を守り、ひそかに別れようとしたのでしょう。
この決断をあえて聖書は、正しい人ゆえにそうしたのだと言います。不貞を犯した者とは生きてはいけない。それゆえ、縁を切る。これはユダヤ人としての一つの正しさでしょう。しかし、それと同時にマリヤを晒し者にはせず、ひそかにことを進めるという愛がそこには伴っていました。この愛と配慮に満ちた選択をヨセフはしたのです。彼は自分の正しさを保ちつつもマリアへの愛を最優先したのです。神はこのような心優しき、正しくも愛の満ちた青年をイエス様の肉の上での父親として選んだのでした。

③預言の成就
しかし、ヨセフはその愛の選択をしようとしたと同時にそこにはきっと大きな葛藤もあったことと思います。最愛の人に裏切られたという思いが彼を絶望のどん底へと引っ張っていったことでしょう。しかし、そのような時にこそ、神の介入があるのです。

マタイ1:20
「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリヤを迎え入れなさい。マリヤの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリヤは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである』」

天使が夢に現れ、彼にこのように告げたのでした。この出来事はマリヤにもなされたことでした。マリヤにとっては未婚の妊娠という恐るべき難局から彼女を救助するために、ヨセフにとってはマリヤが彼に対して不貞であったと考えることから彼を救うためにこの告知は二人ともに必要なものでした。「なんで私が?」そのように問いかけたくなるどん底にいた二人がみたものは神の救いの光だったのです。
その天使の第一声はヨセフ、マリヤともに「恐れるな」という言葉でした。この言葉は旧約聖書の中で神様がイスラエルの民に何度となく、かけ続けられた言葉でした。この思いもかけない出来事は人による罪のものではない。マリヤの子は不貞によるものではなく聖霊によって宿ったのだ。これは神の救いの計画なのだ。安心しなさい。あなたはその神の計画によってその子の肉の上での父親となる祝福を受けるのだ。そのように天使は言います。
そして天使はその子をイエスと名付けよといいます。イエスとはヘブライ語でヨシュア、主は救いという意味です。名は本質を表します。この聖霊によって宿った子が救いをもたらすのです。この思いがけないショッキングな出来事はお前たち夫婦を滅ぼすためではなく人類全体を救うためのものなのだ。ヨセフよ、お前はこの神の計画を成就するために恐れずにマリヤを妻としなさい。天使はそのようにいいます。大丈夫だと言います。なぜならそれはイスラエルの民がずっとずっと待ち望んでいたメシアの到来という預言の成就だからでした。

マタイ1:22−23
「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』この名は『神は我々と共におられる』という意味である。」

イザヤ7:14に記されているこのメシア預言はイエスによって完全に成就されるのだ。これが、マタイがもう一つの言いたかった大きなポイントです。しかしそれはローマの圧政からの救いではありません。イエスー「主は救い」は罪からの救いのために来られたのです。悪の根源からの解放です。
そして、その男の子の名はインマヌエルとも呼ばれる。「神我らとともにおられる。」これも旧約聖書でずっと神がイスラエルの民に語り続けてきた言葉です。恐れるな、私があなたと共にいる。そのように主はずっと語り続けておられます。この約束が目に見える形で表れたのがインマヌエルなる主イエス・キリストなのです。神は言葉だけでなく、この世に見える形で介入なされたのです。
私はお前とずっと一緒にいるよという神様が私たちと交わした約束そのものがイエス様なのです。そしてイエス様は最後も「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と約束され、天に昇られました。そして、その約束は聖霊となって、今も私たちと見えないながらも共にいてくださっているのです。

④信仰者ヨセフとしての一生
マタイ1:24−25
「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリヤと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」

ヨセフはこの天使の言葉を信じ、起きると言われた通りのことをシンプルにそのまま行いました。聖書の中でヨセフ自身の言葉というものは基本的に出てきません。しかし、この行動から彼がいかに神を恐れる、忠実な信仰者であったことかが窺えられます。ヨセフの信仰と従順によって神様のご計画は成し遂げられました。全ては神様のご支配の中にあることですが、神様のご計画とは人間の協力と服従によって成されるものなのです。
未婚でありながら妊娠をした、一見不貞の者とも見える者を妻とし、子が生まれるまでは関係も持たなかった。信じていなければとてもじゃないけどできないことだと思います。そして彼は生まれた子をイエスと名付けました。普通、子供は自分の思いをこめてつけたくなるものです。しかし、彼はそうしなかった。ここにヨセフの信仰告白を見ます。この子は神の御子、私たちが待ち望んでいた預言の成就なのだ。救いそのものなのだ。我が子でありながらも我が子ではないのだ。そこには、人間特有のこだわった自我は見えず、ただただ主への信頼のみがみえます。
先ほど24節に書かれているヨセフの行動は信仰者そのものであることを表しているといいました。しかし、この行動は彼の今後の人生に大きな影響を与えたことでしょう。神の目には素晴らしい従順な信仰者としての行動ですが、他方でこのヨセフの行動は人にはとても理解できなかったものだったのではないでしょうか。
ルカ福音書で、イエスさまが成長し、知恵ある恵み深い言葉を語るのを民が驚き、「この人はヨセフの子ではないか。」と言った場面がありますが、ここにはヨセフへの侮りや嘲りがみえます。大工で無学だったという意味だけではないでしょう。イエス様はマリヤの不貞によって生まれた子だと思われていた。そうだとすれば、ヨセフは不貞の罪を犯した女を妻とした、変わり者だと思われていたというわけです。陰でバカにされていたかもしれません。
そうなることはわかっていたことでしょう。覚悟はしていたことだと思います。しかし、それでもあえて天使に言われた通りに、神様を信頼し、愛するマリヤを妻としたこの行動によって彼は聖書の約束の歴史の担い手となったのです。ヨセフはだれにも見えない神の祝福を受け取ったのです。
ヨセフの人生、生き方はこの処女降誕の場面を除くとほとんど聖書には出てきません。しかし、聖書における彼のインパクトは多大なものがあります。嘲られた者はもはや、救い主の肉における父として、時に理想的な夫として、何より尊敬すべき信仰者として毎年、クリスマスの時期には必ずクローズアップされます。このような素晴らしい信仰者を親として救い主イエス・キリストは、私たちのために肉体を持ってお生れになられたのです。
救いの計画は神によって成されます。しかし、主は人を用いてそのご計画を成されるのです。それは、ヨセフを始め聖書に出てくる人物だけではありません。主に召された私たち一人一人も主によって用いられ、そして神の救いがなされていくのです。ヨセフのように人の評価をとるのではなく、神の計画の一端を担う者として、本当の意味での正しい人、愛と憐れみをもつ信仰者として生きてまいりましょう。

武井誠司

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