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信仰は聞くことに始まる (ローマ10:14~21)

メッセージ

2014年2月23日富里キリスト教会

「信仰は聞くことに始まる」
(ローマ10:14~21)

1.神からの派遣、福音宣教、聞く心、
主を信じ、主を呼び求める

一人の魂が救われるためには、順序と言いますか、救いのプロセスがあります。まず神様から宣教者が派遣され、救いの福音を宣べ伝え、その御言葉を聞く耳があり、聞くことによって心で主を信じ、口で主の御名を呼び求めるようになり、人々が救われるのです。ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、誰でも救われるという新しい時代に入りました。その聖書の個所をもう一度読んでみましょう。

「『主の御名を呼び求めるものは誰でも救われる』のです。ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。『良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか』と書いてあるとおりです。」(10:13~15) 

神様が宣教者を通して、御言葉を語り、その信仰の言葉が、聞く人の耳から心に入り、信仰を起こさせ、信ずる者の祈りの言葉となって神のもとに帰って行くのです。神の真理の言葉が、宣教者の宣教の言葉によって、信じる者の耳から心に入って信仰の言葉になります。そして、この信仰の言葉が信仰者の祈りの言葉となって主のもとに再び戻って行きます。

いわば、神から始まって、神に帰るのです。パウロはこのローマ書11:36でこう言っています。「全てのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。」救いは神から始まって、神に至る道なのです。そして、その神の救いの業を媒介するものが、神の遣わされる福音宣教者の足であり、宣教者の語る御言葉であります。その素晴らしい救いの知らせを、預言者イザヤは預言しました。「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王になられたとシオンに向かって呼ばわる。」(イザヤ52:7)と。

2.信仰はキリストの言葉を聞くことに始まる

このようにして神の福音は、全世界に宣べ伝えられました。時代を超え、国を超えて、海を越えて。すべての人々の耳に届けられているのです。しかし、現実には、この神から出た福音宣教の働きが、目に見えるほどに進展していないことも現実です。こんなにも神の福音は、全世界に音を立てて流れているのに、どうして日本人の心に届かないのだろうか。パウロは何と言っているでしょうか。16節から読んでみます。「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、『主よ、誰が私たちから聞いたことを信じましたか』と言っています。実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:16~17) 

ここでパウロははっきりと「すべての人が福音にしたがったのではない。」と言っています。そして、「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」と言っています。信仰は、聞くことに始まるのです。英語の聖書ではもっと単純に、faith cometh by hearing, and hearing by the word of God. となっています。つまり、信仰は聞くことに始まるというのです。じゃあ日本人は、全然聞いていないのかということになります。また日本人のクリスチャンは、全然聞いていなかったのかということになります。

私は残念ながら、そうだというしかないと思います。日本人は耳があっても聞いていないのです。目があってもみていなかったのです。そして、どこの教会でも、バプテスマを受けた人はたくさんいますが、誰も御言葉を聞いていませんから、幽霊会員、他行会員の大量生産の場に教会がなっているのです。何故でしょうか。解らないからです。ピンとこないからです。誰も教えてくれないからです。そして、奉仕という活動に追われてしまっているうちに、すっかり心が御言葉で養われず乾いてしまって、信仰の確信が無くなって来ます。そして教会から離れて行くのです。それが教会のお決まりのコースになっているという、笑うに笑えない日本の教会の現状です。私たちの教会も、何とかこの教会の出口を固めよう、入ってすぐに出て行かないようにという思いで、教会学校やスモールグループを建て上げてきました。

18節から読んでみましょう。「それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。『その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ』のです。それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、『わたしは、わたしの民でないもののことで、あなたがたにねたみを起こさせ、愚かな民のことであなたがたを怒らせよう』と言っています。」(ローマ10:18~19)

こんなに御言葉が語られているのに、イスラエルの民は聞かなかったのだろうか、そして解らなかったのだろうかと、パウロ自身も問うています。いや、そうではない。キリストの言葉は全世界に、怒涛の如くに語られ流れているのであって、彼らイスラエルの民に聞こえないはずはなかったと言っています。そして解らないはずはないと言っています。でも彼らは、聞いているのです。解っているのです。でも、聞こえていなかった。解らなかった。見えてこなかったのです。何故でしょうか。

10:2「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証しますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。」と言っています。聞いているのに聞けなかったことの原因は、熱心であるにもかかわらず、正しい知識から来るものではなく、見当はずれの熱心さから来ているというのです。神の義ではなく、自分の義を立てようとしている熱心さだというのです。解っているけれども、不従順になって反抗しているのです。(10:21)なぜなら、御言葉を聞いていないからです。御言葉を聞くものは、宣教者の言葉や説教者の言葉に耳を傾けます。従順にそれに従います。

もう少し解りやすい例をあげますと、聖書の中にマルタとマリアの二人の姉妹の話があります。姉のマリアは一生懸命、それこそ熱心に働いてイエス様をもてなしました。ところが妹のマリヤは、働かないで、主の足もとに座って御言葉を聞くことに熱中していました。姉のマルタは、働かない妹マリアを叱ってくれるようにと、イエス様に愚痴をこぼしました。するとイエス様は、怒っているマルタをなだめながら、「マルタよ、マルタよ、妹のマリアは良い方を選んだのだから、あなたもわたしのお世話に熱心にならずに、わたしの言葉を聞くことに熱心になりなさい。」とたしなめました。(ルカ10:42)

自分の正しさ、自分の理想、自分の願望を訴えるのではなく、すべてを遮断して、いっさいを断ち切って、静まってキリストの御言葉に聞くという信仰です。「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(詩編46:10口語訳)という御言葉の通りです。静かにして、イエス様の足もとにひざまずいて御言葉に聞き入る信仰です。これが信仰の始まりなのです。イエス様は、この忙しいマリアにもこうして御言葉を語って下さいました。忙しければ忙しいほど、静まって聞くことが大事です。

教会は、キリストの言葉に聞き続ける群れです。牧の羊の群れです。御言葉の草をいつも求めて、羊飼いの差し示すところに行きます。このキリストの言葉を聞くということが、教会の生命線であり、常に最優先にしなければならないことです。礼拝でも、教会学校でも、スモールグループでも、役員会でも、各会でも、もちろん祈祷会でもです。そのために、牧師もリーダーも、メンバーに食べさせる御言葉の準備に時間を費やし、全精力を注ぎます。

これは何もかたくななユダヤ人のことを、パウロが責めているのではなりません。私たちの事を言っているのです。信仰は聞いて、聞いて、聞きまくることです。キリストの言葉、聖書全体の言葉を死ぬまで、聞き続けることです。のんべんだらりと教会に来てはいけません。また奉仕のためだけで教会に来てもいけません。聞くために来るのです。御言葉に対する飢え渇きを持って、大いなる問を持ちながら、奉仕するべきです。

実に信仰は聞くことにより、聞くことはキリストの言葉から来ます。このすばらしい信仰の言葉を皆さんにも十分に味わってもらいたいのです。この御言葉以外に私たちを救い、命と喜びを与えるものは他にはありません。そして、御言葉を聞いて、信じて主に祈った者は、今度は神から遣わされる宣教者になって行きます。キリストの言葉を聞くことと、語ることは同じことです。私たちも、このキリストの御言葉を携えて、ここから北総の地に出て行って福音を宣べ伝える者となってゆきたいと願っています。         (岡田 久)

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