ようこそ、富里キリスト教会の公式ホームページへ

信仰の父アブラハム (ローマ4:1~12)

メッセージ
2021/6/20
富里キリスト教会礼拝説教
「信仰の父アブラハム」
(ローマ書4:1〜12)

①信仰によって生きたアブラハム
先週は、召天者記念をテーマとしたメッセージでしたが、先々週はこの聖書に表されている救いの根幹、福音の核である信仰義認という、とほうもない神様からのアメージンググレイスについて見てまいりました。人は行いの法則、律法を行うことによって義とされることは不可能である。なぜなら完全に正しい人などいないからである。人は信仰の法則である主イエスキリストへの信仰のみによってこそ義とされるのだ。そして信仰によって義とされた者こそがその愛の応答によって律法を確立するようになるのだ。そういったお話をしました。
しかし、この真理に対して多くのユダヤ人が反論や疑問をぶつけてきたことでしょう。律法の行いによって義とはされないということは、彼らの価値観を根底から覆すものだったからです。そして、彼らはさらにユダヤ人にとってのシンボルであり拠り所であるアブラハムを引き合いに出してきたことでしょう。「アブラハムはどうなんだ。アブラハムこそ我々の誇るべき義人じゃないか。」と。
今も昔もユダヤ人の間では、愛する息子さえ、ささげるアブラハムは自分の行いと功績によって義とされたと理解されています。アブラハムは人間のうちで最も誇りうる存在であり、神の友とさえ呼ばれているのです。
しかしパウロは、聖書はそうとは語っていないと、みことばの権威によって行いによる義認の間違いを正していきます。神の福音をパウロは直接啓示されたことによって悟りました。しかし、それと共に彼はその福音はきちんとみことばにのっとったものであると、ここでちゃんと聖書的根拠を示したのでした。この現代、本当に多様な神学が生まれています。それは豊かさを表すものでもありますが、それはきちんとみことばにのっとっているのか。この吟味はとても大切なことです。私たちは人の考えではなくあくまでみことばの権威のみにこそこうべを垂れるのです。
「アブラハムは神を信じた。それが神の義と認められた。」これは創世記15:6の引用です。アブラハムは、神への従順を貫いて生きました。その究極の表れが、息子イサクをささげるということでした。しかし、アブラハムはこれらの行いによって義と認められたのではありません。そのずっと前、彼がカナンへと旅立ち、住み始めた頃、「あなたの子孫はこの天の星の数ほどになる」と約束された神様の言葉を信じたことによって義と認められたのです。
義と認められる、神学用語で義認と呼ばれるものは善行の報酬によって与えられるものではないのです。恵みによって与えられるのです。何かをすることによってではなく、神を信じることによって義と認められるのです。私たちは自分たちの力や修行などで正しさを得るのではなく、ただ神が認めてくださることによって初めて義とされるのです。そしてそこにある信仰によってこそ力が与えられ、人生が変えられていくのです。
アブラハムの人生とは波乱万丈に満ちたものでした。父テラとウルを出立しハランに住みますが、主の使命にしたがってカナンに移り、さらに南に移動し、そこで飢饉に遭遇し、急遽豊穣なエジプトの地に移住。その後、再びカナンに戻り、そこでロトと決別。その後、彼は主との契約をかわし、祝福を受けて約束の子イサクが与えられはしたものの、のちに息子イサクを犠牲としてささげるというとんでもない試練にでくわすなどアブラハムの生涯はまるでジェットコースターのような内容です。
彼の人生とは大きな祝福を受けながらも試練の連続でした。しかし、彼はいついかなるときも神への従順を貫き通しました。まさに律法遵守。アブラハムこそが達成できたように見えるかもしれません。しかし、彼は何によってそこまでできるようになったのでしょうか。強烈な意志の強さでしょうか。そうではありません。それは、信仰です。信仰によって義と認められた。そのスタートがあったからこそ彼は進み続けることができたのです。そのクライマックス、ゴールがイサクを捧げたあのモリヤの山での出来事でしょう。
私たちはアブラハムの人生のゴール、結果ではなく、まず何によってスタートしたのか。そこに注目したいと願います。彼はどこまでも従順であり続けました。これは何を意味するのか。ずっと神様を信じ続けたということです。全てを捨てて人生も晩年に差し掛かりながらも、故郷を飛び出す。諦めていたのに与えられた念願の息子をいけにえとしてささげる。こんなことは信じていないととてもじゃないけどできません。ヘブライ11:8でもアブラハムは信仰によってなしていったと書かれています。

「信仰によってアブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出ていくように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。」

そして、神様はそのアブラハムの信仰を喜ばれました。神はその行為そのものではなく、神への信頼によっておこされたことを喜ばれるのです。それがすでに神に義と認められ、神との関係が回復された者としてふさわしい生き方だからです。本当の意味でのアブラハムの人生は神を信じたことによってから始まったのです。私たちも神様を信じていくことによってこそ本当の意味での人生が始まっていくのです。

②罪赦されることが義認
アブラハムは信仰によって義と認められました。義と認められたということはその人には罪がないとされたということを意味します。しかし、アブラハムの行動は完璧だったのでしょうか。決してそうではありませんでした。彼は信仰によって義と認められながらも、自分の保身のために妻を妹と偽って王様に差し出すようなこともしてしまいます。彼の中に罪はあった。アブラハムですら行いによって義とはされないのです。
ではなぜ、罪がないとされたのでしょうか。それは罪が赦されたのだということです。罪はあるけどなしとしてくださったのです。信仰によって義と認められた者は罪がないわけではなく、ただその罪が赦されただけなのです。義認というものは本当に神の憐れみと慰めに満ちたものです。義認は一回限り起こされるものだと言われています。一度神様に義と認められたら、その後もずっと認め続けてくださるのです。行いではなく信仰によるものだからです。罪を犯したからといって義認がキャンセルされることはないのです。信仰義認の恵みにあずかる人生とはある意味、罪を赦され続けていく人生だともいえるのです。
しかし、そこには信仰が必要です。そのような人生を体現した代表的な人物が聖書のなかにはいます。それがダビデです。ダビデという人物はイスラエル歴代の王の中でも最も有名で最も人気のある人物だといってよいでしょう。他方で、聖書の中でダビデほど罪を犯した人物はいないとも言えます。彼は、王でありながらも人の妻であるバテシバを欲し、不倫を行い、妊娠させてしまいます。そしてその事実を隠すために夫を騙した上に、間接的に殺してしまうのです。これだけ聞いていたらとんでもない王様です。むさぼり、姦淫、盗み、偽証、殺人。もう罪のオンパレードですね。ダビデはこの時、十戒の掟を一気に破り続けてしまったのです。
しかし、それでも神はダビデを愛し、その罪を赦されました。それはダビデが自分の罪を認め、心から悔い改め、神のみ前に懺悔し、憐れみを求めたからでした。ダビデはその時の悔い改めの思いを詩篇51編の中でこのように表現しています。
「神よ、わたしを憐れんでください。御慈しみをもって。深い御憐れみをもって背きの罪をぬぐってください。私の咎をことごとく洗い、罪から清めてください。」

「あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。」

「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。」

素直に罪を認め、悔い改めを主のみ前に告白し、再びあなたの元に帰れるようにしてくださいと憐れみを乞う。まさしくこの砕かれたダビデの姿に主への信仰をみます。義と認められて生きる者も、時に罪を犯してしまうことがあります。しかし信仰によって義と認められた者はその信仰ゆえに神のみ前において自らの罪を心から悔い改めます。その信仰者の姿を主はご覧になり、その憐れみゆえに罪をお赦しになるのです。これが信仰によって義と認められたものの幸いなのです。義認の本質は罪を犯さなくなるかどうかではなく罪が神の憐れみによって赦され続けていくということなのです。これは、私たちにとっての十字架の贖いによる罪の赦しを意味します。
これは、一見どこか情けないようにも見えるかもしれません。いつまでたっても自分で克服できず赦され続けなくちゃならんのか、と。しかし、これが実は自分の誇り、プライドを粉々に砕いていくのです。それほど自分はみじめな者なのだと。誇るならば主を誇れ。こうなったら主を誇ることしかできません。しかし、そのような者こそが神のみ前において謙遜な者だといえるのです。
私たちから罪が減ることはあっても、なくなることはありません。しかし、主イエス、十字架の完全な愛のわざを信じた時、その罪は愛によって覆われるのです。聖書は、愛は多くの罪を覆うのだと明確に語っています。罪はなくなりません。やったことが帳消しになるわけでもありません。むしろ犯した罪を忘れることはあってはならないことでしょう。しかし、私たちはその罪がありながらもイエス様の十字架の愛によって覆われ、罪赦されて生き続けるのです。これこそが信仰によって義と認められた者の幸いなのです。

「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は幸いである。」

③アブラハムを父とする生き方
しかしユダヤ人たちは、ユダヤ人であること、その証明としてある律法の遵守こそが義とされると考えていました。自分たちは神が契約したあの立派な義人アブラハムの正真正銘血の繋がった子孫なのだ。そのアブラハムの祝福にあずかる、その条件としての割礼、そして律法を守ること。これが選民イスラエルとしてのしるしと誇りでした。それらを行うことによってこそ正しい者とされると思っていたのです。
それほど当時のユダヤ人にとって割礼とは大きな事柄だったようです。やらなかったらアブラハムの子孫ではない、救いから漏れると思われていたのです。
しかし、そんな彼らにパウロははっきりと言います。

ローマ4:11
「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして割礼の印を受けたのです。こうして彼は、割礼のないままに信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められました。」

まず、アブラハムは信仰によって義とされたことが、一番最初の出来事でした。そのあと、割礼をしたのです。つまり割礼は義認の条件ではないということです。アブラハムの割礼は信仰によって義と認められた者のしるしだったのです。これは、私たちでいうところのバプテスマと同じことです。私たちバプテストのバプテスマ理解は、バプテスマを受けたら救われるといった救いの条件となるものではありません。救われたのだから、そのしるしとしてバプテスマを受けるという理解です。私たちの救いはただ主イエスへの信仰のみ、主イエスの恵みのみによって起こされるのです。
そして、すでに罪がありながらも信仰によって罪なしと赦された者として生きるのです。その模範こそが私たちの信仰の父、アブラハムなのです。罪を犯しながらも、試練に遭いながらも神を信じ続けて、義と認められ続けた。つまり罪を赦され続けながら生きてきた。その事実が彼の人生を神への従順へと導いていったのです。
アブラハムは立派な人物です。罪よりも誇るべきところの方が圧倒的に多いかもしれません。しかし、私たちが見るべきところは彼の立派な行いに溢れた人生ではなく、信仰によって罪赦されつづけてきた人生です。

その愛と憐れみという恵みを受け続けたことによって彼は神への揺るぎない信頼からくる全き従順な者へと変えられていったのです。その究極の表れが彼にとっての文字通り全てであったイサクをささげるということでした。信仰によって義と認めれ、罪赦されながら、信じ続けた彼の信仰は神に全てを明け渡すほどの信仰へと変えられていたのです。このアブラハムの信仰を模範として私たちは生きていくのです。
そのときこそアブラハムは私たちの霊的な父となり、その父親の人生の足跡を追っていくように私たちは信仰者として歩んでいくのです。そこにこそ永遠の命に生きるキリスト者の祝福と幸いがあるのです。私たちもアブラハムの祝福を受け継ぐ者なのです。「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」まず最初にこのように神はアブラハムと約束をされたのですから。私たちもこのアブラハムのように生きてまいりましょう。義人アブラハムではなく、信仰者アブラハムを模範的な父として、私たちも主イエスキリストの十字架の恵みをいただき、罪赦されながら、その小さな信仰を少しずつ大きくしていただきながら喜びと感謝をもって生きてまいりましょう。

武井誠司

powered by Quick Homepage Maker 4.50
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional