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信仰による義 (ガラテヤ2:11~21)

メッセージ
2019年5月5日富里キリスト教会
「信仰による義」
(ガラテヤ2:11~21)
1. 忍び込んできた律法主義

先週は、パウロの回心の出来事をお話しました。そしてパウロは回心してから
17年後に、エルサレムに上り、先輩の使徒たちと会って、宣教会議を開きました。そして自分は、異邦人の救いのために立てられた使徒としての承認をエルサレム教会からいただいて、異邦人伝道へと出かけて行きました。そして現在のトルコの中央にあるガラテヤ地方にもキリスト教会を建てることができました。ところがパウロがいなくなってから、ユダヤ教的な習慣を強制する一派がガラテヤ教会に入り込んできました。そしていつの間にか、クリスチャンになるためにはユダヤ人のように割礼を受けなければならないとか、律法の戒めを守らなければならいという違った福音を教え始めたのです。

何しろ本部のあるエルサレム教会から来た人々でしたので、指導者がいない教会にとって、わらにもすがる思いで先輩の教えになびいていってしまったのではないでしょうか。そういうガラテヤ教会の人たちを、パウロは3:1で「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち。」と言っています。そして、そういう上目線で来て、地方の小さな教会を自分の支配下におこうとする人々の本当の狙いを訴えて、一人一人が、福音の真理に立つようにと書かれたのがこの手紙です。(ガラテヤ書2:11~14までを読む。)

何故、母教会や先輩の信徒は、地方の小さな教会を支配しようとするのでしょうか。パウロはこう言っています。「肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架の故に迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。・・・割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。」(ガラテヤ6:12~13、15)

つまり律法を強要する人々は、自分を誇りたい、優位に立ちたい、相手を支配したい、十字架の迫害よりは皆から尊敬されたいがために、割礼を受けなければ救われない、豚肉を食べてはいけない、ユダヤ教の暦を守りなさいとか、いろんな注文を付けて来たのです。皆さん断れますか?もしここでパウロまでが、エルサレムのヤコブの元から来た人々の要求に負けてしまっていたらどうなるでしょうか。異邦人のクリスチャンもユダヤ人のように、割礼を受けなければクリスチャンとは言えないということになってしまっていたかもしれません。わたしたち日本人もアメリカ人もアジア人も、バプテスマ以外に皆割礼を受けさせられ、ユダヤ教徒やイスラム教徒のようにハラールフードを食べたり、豚肉アルコールは厳禁という生活になってしまっていたのではないでしょうか。

そして何よりも問題は、異邦人と接触を持たないということです。教会が何か、ユダヤ人と一部割礼を受けた外国人との秘密結社のような教会になってしまいます。ユダヤ主義は、外国人や異邦人との接触を拒みます。自分たちが汚れるからです。愛餐会の席も別々です。そして、パウロがペテロを批判したのは、ペテロもほかのユダヤ人もそしてバルナバさえも、この律法的なユダヤ人に同調して、ユダヤ人のふりをして異邦人との接触を避け始めたということです。そういうあいまいな生き方、福音にしっかりと立っていない中途半端な信仰をパウロは、激しく批判しました。口語訳聖書では、ペテロを公衆の面前で堂々となじったとあります。(2:11を読む)

After Paul left the Galatian congregation, Jewish people sent by James came into the Galatian congregation and urged them to follow Jewish customs. Peter and Barnabas began to draw back and separate himself from Gentiles because they were afraid of circumcision group.
Paul accused them for their hypocrisy. We may be afraid for those who came from higher authority when we have no pastor. If we permitted the Jewish customs and circumcision, the Gospel was restricted to Jewish community and would not have spread worldwide. Paul fought to Jewish customs standing the truth of the Gospels. Paul insisted that is a different Gospels.

2. 信仰によって義とされて生きる

そして信仰とは何か、もう一度信仰の大切さと本質について説いたのが15節からです。「わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」(2:15~16)

ローマ書の3:20によりますと、この「律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」との後に、こう付け加えられています。「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前に義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」となっています。律法の意味と目的は、わたしたちが律法を守ったから救いに値するということではなく、律法の目的はわたしたちの罪の現実を目の前に突き付けるところにあったのです。わたしたちの罪を示して、十字架の前に立ち帰らせることです。これが律法の意味と目的です。

律法の戒めを実行することのできる人は一人もいないということです。イエス様も言っています。「しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」(ヨハネ9:41)と。自分は律法を守ることができる、律法を実行していると言い張ること自体が大きな罪なのです。パウロは今まで、律法に従って、律法を実行するために生きてきました。まるで律法が歩いているような生活をしてきたのです。クリスチャンは律法を否定している、けしからんと信じ、ステパノを死刑にしてもなんとも思いませんでした。そして更に、他のクリスチャンを追って、ダマスコまで追いかけて来たのです。

ところがあのダマスコ途上で、光に打たれて地面に打ち捨てられてしまいました。パウロは律法に精進し、律法に生きてきたその最中に、神に打たれたのです。神の光に打たれたということは、すでにそこで彼は死を体験したも同然なのです。律法に生きてきて、律法に殺されたのです。そのことを彼は19節で言っています。「わたしは神に生きるために、律法に対しては律法に死んだのです。わたしはキリスト共に十字架につけられています。」と。

律法に対して死ぬということは、自分の中には神の恵みに値するものは何も持っていない、罪深い人間でしかないということを思い知らされることです。自分の努力や功績や結果によって神に受け入れられようとする、思い上がった空しい望みを放棄することです。自分自身に死ぬことです。人間の行為や実績を頼りにしている限り、わたしたちは神を愛し、神に対して生きているのではなく、自分自身を愛しているのであり、自分に栄光を帰そうとしている極めて自己中心的な人間なのです。宗教はそうなりやすい危険性を持っています。神を愛していると言いながら、自分を愛しているのです。神に対して生きていると言いながら、自分のために生きているのです。十字架のつまずきよりは、人に良く思われたい、自分を誇りたいのです。

ですから人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる、すなわち罪人としての自分を認め、主の十字架の贖いにすがるということです。これが信仰による義です。行いによる義ではありません。自分を良く見せる必要もありません。あるがままの自分、罪だらけの自分、失敗だらけの自分、不十分な自分でいいのです。神の大きな愛の中にあって、自分の非を認め、罪を認め、観念することができるのです。これが明け渡すということであり、信じるということなのです。

そこにはもはや自分というものはありません。キリストだけがわが内にありて生きているのです。見せかけの表面的な信仰生活とはおさらばです。わたしたちの心の内側が大事なのです。心に信じて義とされているならば、異邦人であろうが外国人であろうが一緒に食事をしても何も後ろめたいことはないはずです。見せかけの肉の割礼ではなく、わたしたちの心の割礼が必要なのです。心の皮を切り開いて、心の中をすべて主に明け渡すことです。これが信仰であり、この信仰によって「義」、すなわち罪のないものと認められるのです。

Paul said, “ For through the law I died to the law so that I might live for God. I have been crucified with Christ and I no longer live, but Christ lives in me.” (2:19-20) To die for the law means that I have nothing
in me that deserves the grace of God and I am only a sinful man. To die for the law is to abandon the hope of being accepted into the God by our efforts and achievements and to die ourselves. We may live for ourselves as to depend on our actions and achievements and may love for ourselves. So we should recognize our sins and depend upon the redemption of the cross. This is the righteousness through faith.

3.キリストわが内にあり

さて私たちは自分の心の中を主に明け渡して、内側から清めていただくことが大事です。そういう明け渡された心には、必ず主が来てくださいます。たとえ汚く、汚れていても、罪を持ったままで、そこにこそ主が宿ってくださるのです。そして自分に死んで心を明け渡す時、主がわたしたちの心の中心に来てくださり、わたしたちの生き方や人生の主人となってくださいます。主に心を明け渡すだけでいいのです。主に向きを変えるだけでいいのです。イエス様と呼ぶだけでいいのです。その瞬間にキリストが、あなたの主になってくださいます。うわべだけのパーフォマンスは必要ありません。

恐れることも不安がる必要もありません。なぜなら、主はわたしたちを裁く方ではありません。試験で100点満点を取らなければ認めないという方でもないのです。欠点や障害や欠陥があっても関係ありません。主の目にはどんな人でも尊いのです。人と競争する必要もありません。比較する必要もありません。失敗しても罪を犯しても、そのままで認めて下さり、愛しておられるお方なのです。だから恵みなのです。金メダルを取れなくても、受験に失敗しても、結果を残せなくてもいいのです。そんなことでわたしたちの評価は決まりません。結果とか実績と言った律法の世界にすでに死んだものです。縁のない人生なのです。

今月から令和になりました。天皇の代替わりになりましたが、この天皇家に象徴されているのが律法の世界です。日本中がこの律法の世界の中おかれています。つまり、男子直系が後を継ぐという日本古来の習慣です。これらを律法の世界といっていいでしょう。旧約の律法の規定に記されています。その蔭で、雅子様は適応障害になりました。皇室に嫁いだはいいが、なかなか子供ができないと苦しみました。そしてやっと念願の子供ができてほっとしたら、今度は男子ではないので、天皇家を継ぐことはできないということにならり、また悩んでしまいました。

こういう日本に根づいている習慣や制度と言ったものが、律法の世界なのです。その「ねばならない」という律法が、一般家庭にまで浸透しています。社会全体がそうなのです。それで多くの人が悩み、精神を病んでいます。家を継がなければならない、医者の家系を絶やしてはいけない、何としてでも医学部に入らなければならないと要求されます。しかしイエス・キリストが十字架に架かられて、律法の終わりとなってくださり、そういう家系や血肉による子孫の繁栄と言った世界は終焉を迎えたのです。

聖霊による新しい神の子供の誕生の世界が始まっているのです。わたしたち一人一人は既に、自分というものに律法を通して死んだ者なのです。血縁とか子孫とか結果とか、そういうものに縛られている生き方から解放された自由の子供なのです。肉のわたしは死んで、霊のキリストがわたしの心の中に生きている者なのです。もはや自分の意思でああする、こうするという生き方ではなく、キリストの御心のままに、自由の内に生きる者へと造り替えられたものなのです。これが真に自由な人間の生き方なのです。この自由が与えられているからこそ、喜んで人に仕え、人を愛することができるのです。「こうあらねばならない」の世界ではなく、「こうしたい」の世界なのです。

「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしはキリスト共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(2:19~20)

“I have been crucified with Christ and I no longer live, but Christ lives in me”(2:20) as we died with Christ on the cross I abandoned myself or selfishness , then who lives in me? Paul said Jesus lives in me. We should make a decision in every step in our live, taking Jesus and letting go of selfishness. Even if we failed and committed sins, as we repent our sins as soon as possible, God loves and forgives our sins and makes us whole, because God loves us whatever we are.
To believe Jesus Christ and to look up his face and to call His Name is to be righteousness through Faith.

皆さんの中には、今だれが宿っておられますか?自分ですか?キリストですか?時には自分が出てきたり、時にはキリストが出てくる時があるかもしれません。まだまだ中途半端なペテロのような見せかけの信仰者であるかもしれません。もしかしたらまだ福音の真理に立ってまっすぐに歩いていないかもしれません。パウロからは面と向かって、厳しくなじられるような者かもしれません。でも悔い改めて、いま一度主の十字架の前に立つならば、主の恵みによってすべてのことが赦され、もう一度福音の真理に立ち直る力を与えて下さるお方です。

今日もう一度、主の十字架の恵みの前に立ちましょう。そしてわたしたちの内にある深い罪を悟らせてくださるように祈りましょう。またその罪にもかかわらず、どこまでも罪人を愛し、恵みをもって罪も失敗も赦していてくださるお方を受け入れましょう。そしてこれからの生涯を、自分を誇るのではなく、自分を良く見せるのではなく、また自分自身の力により頼むのではなく、主に委ねて生きる者としてくださるよう祈りましょう。(岡田 久)

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