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信仰による癒し (マタイ8:1~17)

メッセージ
2021/1/24
富里キリスト教会礼拝説教
「信仰による癒し」
(マタイ福音書8:1〜17)

①重い皮膚病の者の癒し
先週は、イエス様の説教、いわゆる山上の説教と言われる箇所からみことばの恵みをいただきました。山上の説教は5章から7章までと大変長く語られていき、今日の箇所である8章から場面が新たに展開していきます。マタイ福音書では8、9章にかけてはイエス・キリストの奇跡、神の子メシアの神的権威が描がかれており、イエス様はその神的権威を病気と死と悪霊と嵐に対して示されました。今日の箇所はその前半である三つの癒しの奇跡。重い皮膚病の者の癒し、百人隊長のしもべの癒し、ペテロの姑の癒しについて記されております。今日は一つずつ主の癒しのわざを追ってまいりましょう。まずは、重い皮膚病の者の癒しです。

8:1
「イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。すると一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、『主よ、御心ならば、わたしをきよくすることがおできになります。』と言った。」

重い皮膚病。以前はハンセン病の蔑称であるらい病と書かれていましたが、差別的表現でもあるため現在新共同訳では重い皮膚病と訳しています。しかし、この病はハンセン病に当てはまるものも一部含まれているがもっと広い範囲の汚れをも意味しているとも言われています。それゆえ、新改訳では言語そのままの表記であるツァラァトと記載されています。
病状としてはカビの繁殖を示すものと思われ、祭司が汚れているかきよいか最終判断して宣言をします。汚れていると宣言された人、衣服、家は隔離、一定期間後に再点検して、異常がなければ、きよめの儀式を行い、元の生活に戻ることができる。そういった規定がレビ記13章にかかれております。
当時、この重い皮膚病にかかったものは非常に汚れた者とされ、忌み嫌われていました。移るからあっち行けといった感じでしょうか。そういったなかで彼らは生ける屍として社会から完全に追放され、汚れたものとして町の外で住み、差別され続けたのです。そして彼らは「汚れている。汚れている。」と叫ばなければなりませんでした。自分自身を汚れていると自己否定しながら生きていかなければならなかったのです。そして周囲からは罪ある者と見られていたのです。
どうでしょうか、皆さん。もし自分がこのような状況であったら。辛すぎますよね。どこにも味方はいません。孤独の極み。絶望的です。しかし、そのような中で彼は希望の光を見出し、勇気を出してイエス・キリストの御前にでて、ひれ伏したのです。これは、町の外にいなくてはならないという律法を犯した命がけの行動でした。ここに彼の必死で切実で何より純粋な信仰を見ます。この方ならば必ずや。そう言った思いがあったからこその行動でしょう。ひれ伏したというこの言葉は「拝んで」とも訳せます。通常神、または超自然的存在に対する尊崇の念や礼拝を表した言葉でした。彼のこの行動はイエス様を神と認めた礼拝行為だったのです。
そして彼の信仰はとてもへりくだった謙遜なものでした。癒してください、癒せるなら信じます。そういった御利益信仰ではありません。彼は癒される前からすでに主イエスを礼拝しています。そして、御心ならばきよめられると言うのです。あくまで「あなたが望むのなら」と主に全てを委ねます。自分の意志よりも御心を第一としたのです。中々できることではありません。世間から汚れたと差別されていたこの病人からはその世間の評価とはまるで真逆のような美しい信仰を見ることができます。
そして、そのような信仰者を主は決して捨て置きはしません。主は憐れみをもって彼を癒します。「よろしい」という言葉は直訳すると私は望む、願うという意味になります。主の御心は傷つき、痛み、苦しむ者が癒されることにあります。何より注目すべきはイエス様がその人に触れたという点です。ここに主イエスの愛と慈しみが表れています。この病に触れたものはその者も汚れるとされていました。しかし、主は汚れることを恐れず大胆に触れたのです。
あなたは、汚れてなどいない。生まれて初めて一人の人間として彼は認められたのです。体の癒しもさることながら、このイエス様の愛の行動に彼は何より心が癒されたことでしょう。そして、実際にイエス様は汚れません。むしろその汚れをきよめ、癒されるのです。イエスの権威の下にある者は汚れに負けることなく、周囲を癒し、きよめるのです。私たちクリスチャンの地の塩、世の光としての働きは、この汚れたものを躊躇なく触れるイエス様の姿から倣うことが多くあるように思います。

②百人隊長のしもべの癒し
二つ目の癒しは百人隊長のしもべの癒しです。

8:5
「さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて懇願し、『主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます。』と言った。」

百人隊長とはローマ軍隊の中軸の者で、サマリヤ人や異邦人を多く含む部隊の隊長のことです。聖書に出てくる百人隊長はみな尊敬すべき人物ですが、異邦人であり支配者側でもあった百人隊長はユダヤ人からは非常に嫌われていたことでしょう。しかし、この男は素晴らしい人格と信仰の持ち主でした。このしもべという言葉は少年とも訳せます。きっと百人隊長はこのしもべを息子のように愛していたのでしょう。当時のローマ法によるなら、生殺与奪の権利をもっていた主人が奴隷に対してこのような愛を持っていたことは非常に珍しいと言えます。このことからみても、この隊長の人となりを窺うことができます。
そして、百人隊長はイエス様に「主よ」と呼びかけ、助けを求めました。自分が仕える皇帝ではなくイエス様を「主」と宣言したのです。ここに百人隊長の信仰が見えます。イエス様はこの百人隊長の言葉に応じ、その場に行って癒そうと言われます。
しかし、その主の言葉に対して百人隊長は「これほどの信仰を見たことがない」と驚かせるほどの信仰を見せます。まず、百人隊長は、自分はイエス様を家に迎え入れる者ではないと言います。当時、異邦人の住まいは汚れていると言う認識がありました。百人隊長はイエス様が汚れたと周囲に言われないようにと気遣ったのでしょう。そして、さらに彼はイエス様のメシアとしての権威を認めていました。イエス様の言葉を神の言葉の権威を持つと理解していたのです。軍人は上官の命令に従わなくてはならない。ましてやイエス様の権威は、はるかにその上です。イエスさまが命令すれば自分の僕は治ると彼は信じていたのです。神の言葉の力に対して全幅の信頼を寄せていたのです。
この信仰をイエス様は感心したと記されていますが、この感心したという言葉は本来的には驚くという意味を持ちます。福音書の中でイエス様が驚きを表されるのは2回だけありました。そのうちの一回はこの百人隊長の信仰に対してです。そして、もう一回はユダヤ人の不信仰に対してです。この百人隊長に対する驚きはご自分の民の不信仰についての驚き、悲しみと非常に対照的です。選民イスラエルこそ持つはずだった信仰を今や百人隊長のような異邦人が変わって持つようになったのです。そして主は、救いは民族や、聖書知識、律法の遵守といったものによって起こされるのではない。真実な信仰の持ち主こそが救われるのだ。そのように言われるのです。
そして、その素晴らしい百人隊長の信仰を見たイエス様は、彼に「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」と言葉をかけました。するとその瞬間、そのしもべは癒されました。なんとイエス様のおことばどおり、百人隊長が信じていたことが現実となったのです。
イエス様の神の権威の力は無限大です。死をも超える力です。しかし、それはその奇跡の力を信じ切った百人隊長の信仰ゆえに現れました。この事実には様々なことが思わされます。私の友人に今、夫婦二人で全くのゼロの状態から教会開拓を始めている牧師がいます。その友人は神学校を卒業する時、先生から神様がいなければできないようなビジョンを持ちなさいといわれ、このビジョンが与えられたと言っていました。今、そのビジョンは少しずつ主によって見える形へとなっています。
人の限界で決めてしまえばそこまでしか見えません。しかし、主を信じ、主に委ねて一歩進む時、神はその幻を目の前で現実に見せてくださるのです。こんなこと、無理でしょ。そう呟くのではなく、信じて一歩進む。そうやって初めて見える世界があるのです。
確かに誰もがこの百人隊長のように素晴らしい信仰を持てているわけではありません。元来、自分に自信がなく臆病な私などは自分の小さな信仰を本当に痛感します。しかし、だからこそ逆にこの百人隊長の姿に背中を押される思いもするのです。私のような小さな信仰もきっとこの百人隊長の信仰のように主が引き上げてくださる。みなさんも、どうか私と一緒にこの百人隊長の姿に背中を押されつつ、主に信頼して一歩ずつ前に進んでいこうではありませんか。

③ペテロの姑の癒し
最後の癒しはペテロの姑の癒しです。百人隊長の出来事が終わると、今度は急にペテロの実家と場面は展開します。そこでペテロの姑は熱を出し、苦しんでいました。当時、カファルナウム地方はヨルダン川とガリラヤ湖に接する沼地のマラリヤ蚊のためにマラリヤにかかるものが多かったと言われています。もし、これがマラリヤだとしたら大変なおおごとです。命の危険すらあったことでしょう。
イエス様は、姑が重い皮膚病の者や百人隊長のように信仰を表さなくとも姑の手を取り、そのあわれみのゆえ癒されました。これは、主の御心が苦しむものが病から癒され、解放されることにあったことを表しているのでしょう。しかし、私にはそれと共に、この場面は主につながる者の家族にも祝福があるということが表されているようにも思うのです。そう思うとこの光景は非常にノンクリスチャンを家族に抱えられている方にとっては、非常に励ましと慰めを受けることとなるでしょう。
もちろん家族だからと言って自動的に救われるわけではありません。しかし、その中に自分がいるということ。その存在自体がイエス様とその家族をつないでいるのです。そしてその繋がりがいずれ、救いの道へと至っていくのです。姑はペテロをとおして、イエス様を知り、癒し、救われたのです。
使徒16:31
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」

私はこのみことばの約束を信じています。そして、この場面で注目したいところは、今までは癒される前の者の信仰が表されていたのに対し、ここでは癒され、救われた信仰者の応答の姿が表されているという点です。姑は癒されるとすぐに、起き上がってイエス様をもてなしたのです。これは喜びと感謝の具体的な表現です。私たちキリスト者は、救われて、ああ、よかったでは終わらないのです。その救いにあずかった喜びと感謝をイエス様にあますところなく表していく。そういった幸いな人生なのです。義務ではありません。喜びと感謝の応答です。
救われた者としてイエス様をもてなす。では、具体的にこれはどのようなことでしょうか。その応答は、多様であるべきですがこの箇所の文脈では、病む者、差別されている者、世間からつまはじきされている者、弱い者、そう言った人たちを喜び、もてなし、教会に迎え入れると言うことではないでしょうか。イエス様は最も小さい者にしたことは私にしたことなのだとおっしゃっています。
一見、異質に見えるような者こそ排除せず、尊び、共に喜んで主を見上げて生きていく。これこそが本当のアメージンググレイスではないでしょうか。これは現実を見ていくとき、私たちにとって非常にチャレンジングなことかもしれません。しかし、汚れたとされていた者に踏み込み躊躇なく憐れみを持ってその者の心と体に触れる主イエスの姿を見た時、私たちの心は聖霊によって突き動かれることでしょう。地の塩、世の光として私たちが主の恵みを照らしていく時、そこに主の癒しときよめがあるのです。私たちを通して主が癒すのです。
私の神学校の友人に長年、ひきこもり生活をしていた人がいます。彼は、医者に行っても、何かのセミナーを受けても全く癒されなかったが、不思議と教会を通して自分は癒されたと言っていました。そこには教会の方々の大きな愛があったと言っていました。教会を通して主は癒しのみわざをなされるのです。

④汚れた罪を取り除くイエス・キリストの十字架
8:16
「夕方になると、人々は悪霊に取り憑かれた者を大勢連れてきた。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。」

今も昔も教会には、苦しみ傷ついた者が癒しを求めてイエス様に会いにきます。主イエスの元に多くの病人や悪霊に取りつかれた人たちが集まってきたことはそのことを象徴しているでしょう。そして、イエス様はその者たちを皆、癒されました。
心や身体が主によって癒されるということは、この現代においても実際に例がいくつもあります。それゆえ私たちは御心を第一としつつも、主にその癒しを祈りを持って願うことがゆるされています。
しかし、もっと根本的な、本質的な癒しというものが私たちには必要です。それは全ての人間にとって必要なものと言ってよいでしょう。それがイエス・キリストの十字架の贖いです。私たちの罪の汚れが主イエスの流される血潮によってきよめられること。これが人類に必要な根本的な癒しです。
今日の箇所の最後の「彼は私たちの患いを負い、私たちの病を担った」という言葉はイザヤ53:4の引用です。この箇所は苦難のしもべと呼ばれている箇所で、イエス・キリストの十字架の苦難の姿が生々しく預言されています。主は十字架をもって、私たちの患いを負い、病を担われたのです。最終的に私たちの罪の汚れ、病、苦しみが癒されたのはこの十字架という尊い犠牲、贖いのゆえなのです。
体であろうと心であろうと、たとえ一時的に癒されたとしても罪からの根本的な解放がなされていなければ、本当の意味で解決はしていないのです。今日の箇所で出てきたそれぞれの病は霊的な罪の象徴として表されています。病自体が罪ということではありません。この病を癒す主イエスの姿は、究極には主イエス・キリストこそが罪からの救いをもたらす救い主であるのだということを表しているのです。そして、私たちは主がその罪、汚れを背負われたゆえに、癒され、きよめられた者なのです。
私たちはきよいクリスチャンだから悪い影響を受けないためにノンクリスチャンとは交わらない。このような姿勢は汚れを躊躇せず手を握った主イエスの姿とはまるで逆でしょう。そうではなく、むしろ私たちは主に癒された者として、今なお、罪にもがき、苦しまれている人たちや、実際に病いを抱え、苦しんでいる人たち、差別され、心痛め、苦しんでいる人たちに一歩近づき、手を取り共に歩み、主イエスによる根本的な癒しがなされるように祈り、キリストの愛を注いでいくことを主は望まれているのではないでしょうか。かつては、私たちも同じ者だったのですから。
主の願いは私たち全ての人類が癒され、救われることです。そして、私たちは癒され、救われました。癒された者として、この痛み、破れた世界に光を届けに参りましょう。

武井誠司

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