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信仰といやし

メッセージ

2009年6月7日富里教会
        「信仰といやし」
                  (マルコによる福音書2:1〜12)
                          
1. はじめに

主の御名を賛美します。
今朝は、中風を癒してもらった人のお話です。中風とは文字通り、「風に中(あた)る」と書きます。東北などの寒い地方に多い病気です。暖かい部屋から、急に冷たい表に出たりしますと、寒い北風にあたります。すると、血管が収縮して切れたりします。最悪の場合は死に至ることもありますが、助かっても長い間、あるいは一生、闘病とリハビリをしなければなりません。自分で歩けなくなったり、顔や言葉に障害が残ったりします。今朝はその中風にかかった人のお話です。

2章1節〜5節まで読んでみましょう。
「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし群集に阻(はば)まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつりおろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた。」

普通でしたら、人がいっぱいで家の中に入れなければ、帰ってしまうところです。でも、彼らは今日という日を逃さずに、必死になって、人目もはばからずに屋根に登り、天上に穴をあけて、その病人をつり下ろしました。パレスチナ地方は日本と違って、めったに雨が降りませんから、屋根は板を張って土をかけたような簡単な造りになっていました。イエス様も、そこの家に集まっていた人たちもビックリしたに違いありません。ちょうどこの礼拝堂の上から、ホコリや土と一緒に担架のようなものに人が載せられて下がってきたわけですから。でも、その時、イエス様は彼らの信仰をご覧になって、こう言われました。「子よ、あなたの罪は赦された」(口語訳)と。

ペテロも大きな奇跡をおこされる時には、その人に信仰があるかどうかをジッと見られます。(使徒言行録3:4)イエス様も中風の人と彼を運んで来た人たちの信仰を見て、「子よ、あなたの罪は赦された」と宣言されたのです。ここに、イエス様は「その人たちの信仰を見て」とあります。それでは、イエス様がご覧になった信仰とは、一体どんな信仰だったのでしょうか。今朝は、そこに焦点を当てて、お話してみたいと思います。

2. 御言葉を聴く信仰

この病人を抱えて来た4人の人たちは、どんな人だったのでしょうか。彼の友達かあるいは家族のものだったかもしれません。イエス様のことを人々が噂しているのを聞いて、何としてでもこの中風の友をイエス様に会わせたい、今日という日を逃したら、もう一生会えないかも知れないと思いました。

ところが家についてみると、玄関まで人でいっぱいです。中に担架を担いで入れるはずがありません。この群集とは誰でしょうか。彼らの行く手を阻みました。これは、世間の人々です。世間の目です。こんな病人を人前にさらして街中を歩くこと自体恥ずかしいことです。私たちもそうです。家族を教会に連れて行ったら、世間の人や親戚は何と言うだろうか。当時、病気をしたということはその人の罪のせいだと言われていましたから、世間にその恥をさらすことになるわけです。それが、人々の妨害でした。

皆さんでしたらどうするでしょうか、入れなかったら、帰ってしまうでしょうか、また出直すでしょうか。ところが彼らはその後、屋根に登り、天上をはいで中風の人を吊り降したのです。人目や世間体を気にせず、何が何でもこの人をイエス様のもとに連れて行こうとしました。主イエスは、この時ペトロの家で御言葉を語っておられました。そこに中風の人を連れてきたわけです。そして、イエスのまん前に吊り降ろしました。主のもとに連れて行って、御言葉を聞かせることです。主の御言葉には罪も病も癒す力があります。

あのローマの百人隊長が、イエス様のもとに来て、中風で寝ている部下のために、御言葉を下さい、そうすれば私の僕は治りますと願いました。するとイエス様はその信仰に感心して、「これほどの信仰をイスラエルの中にでさえ、見たことがない。帰りなさい、あなたが信じたとおりになるように」と言いました。その時僕は癒されました。この百人隊長の御言葉を求める信仰によって、癒しが起こったのです。(マタイ8:5〜13)また、異邦人のカナンの女が、悪霊に苦しめられている娘のために、イエス様に「御言葉のパン屑でもいいですからいただきます」といった時、イエス様は、あなたの信仰は立派だ、見上げたものだといって、娘を癒してくださいました。(マタイ15:21〜28)

このように、イエス様のところに行って、主の語る御言葉を求め、御言葉に聴く信仰、御言葉に従う信仰、このような信仰が奇跡を生み、人々を癒すのです。イエス様は、この御言葉を求める信仰をご覧になられます。

3. 祈りと愛の交わりの信仰

次に、イエス様がご覧になった信仰とは何だったでしょうか。二番目にイエス様は彼らのとりなしの祈りと、愛の交わりの信仰をご覧になられました。皆さんが救われた時のことを考えてみて下さい。誰も自分から志願して、希望して教会に行った人はないと思います。私たちもかつては、霊的な意味ではまさに中風のような人間でした。自分一人では何もできませんでした。ただ、黙って担架に乗って救いを求めているような存在だったと思います。

そういう私たちのために、誰かが祈っていてくれました。誰かが涙を流していてくれました。誰かが命を投げ出して下さったのです。今日、こうしてバプテストの教会が日本にあるのは、大上先生はじめアメリカから遣わされた多くの宣教師の方々の労苦によるものです。また、高校生時代、私が礼拝を休みますと、日曜日の午後には婦人会の小林さんと言う近所の方が、下宿までお菓子を届けてくれました。「また、来週ね」と言っていつも帰られた、あの笑顔が忘れられません。また、全く見も知らない三沢基地のアメリカ人のバプテスト教会の婦人会から、4年間、毎月10ドルの奨学金を送っていただきました。家が貧しかったものですからそれで、本を買ったりすることができました。また、教会に反発して1年間、登教会拒否をしていた時にも、毎月下宿まで週報を送っていただきました。今まで、何人の人たちの支援と励ましに、サポートされてきたか解かりません。

そういう愛のサポートととりなしの祈り、その彼らの信仰をイエス様は見たのではないでしょうか。5人のスモール・グループです。一人の人を、4人の人が四隅を持って支えています。楽しみも悲しみも苦しみも分かち合える仲間の信仰です。仲間がいたから、街中でも恥ずかしがらずに病人を載せて来る事ができました。仲間がいたから、入り口がいっぱいで入れなくても、励ましあって屋根に登ることができました。仲間がいたから、屋根をはいで、恥も外聞もなく霊的に弱っている友をイエス様の前に降ろすことができたのです。その愛の業ととりなしの祈りをもって、救いを求めている友を、みんなで力を合わせてイエス様のもとに連れてきたのです。この彼らの信仰を、イエス様はご覧になられました。

4. 一人の救いのため伝道する信仰

そして、三番目に、やはりなんといっても一人の魂のために、共に協力して伝道する信仰です。一人の人のために4人の健常者が、4人のクリスチャンが力を合わせて救いへ導きました。イエス様のところに連れて行きたいという、一途な思いです。私たちも今、教会学校で、4,5人のグループで学びをしたり、交わりをしたり、祈ったりしています。まだ信仰を持っておられない方も入っておられます。それでいいのです。皆で、そのグループで一人の魂の救いのために祈ったり、励ましたりする、グループの交わりを通して伝道する信仰です。

私も、富里に来る前に、東浦和の自宅でTBCのスモール・グループと言う家庭集会をしておりました。そこに、同じ団地の富里教会にも来たことのある杉原さんと言うおばあちゃんが、神様の導きによって来られました。私たちがこちらに来てからも、リーダーが代わって、集会はサイゼリヤや杉原さんのお宅で月2回もたれていたそうです。先日、その杉浦さんがバプテスマを受けたいと言うことがありました。私としては、富里教会かあるいは東京バプテスト教会でと思いましたが、どちらも通い切れないということで、近くのアライアンス教会の礼拝に出席して、受ける準備をしたいとのことでした。感謝です。このようにして、一人の人が救われるために、4人の人が関わりました。そして、皆でその人をイエス様のもとへと、連れて行ったのです。彼らの一人の魂に対する愛の熱い思いを、イエス様はご覧になられました。

5. 罪の赦しと病気の癒し

イエス様は、彼らのこの3つのすばらしい信仰を見て、「あなたの罪は赦された」と宣言されたのです。御言葉のもとに行く信仰、とりなしの祈りと愛の励ましのある信仰、そして一人の人に対する救霊の熱い思いをもった信仰です。イエス様は、今までガリラヤ中をめぐりめぐって伝道してまいりました。そして多くの癒しの業をなさいました。でもここに来て初めて、本当の信仰に出会ったのです。そして「子よ、あなたの罪は赦された」と宣言されました。

ところがそこに、律法学者といわれる人々が数人いました。彼らは、いい席でイエスの話をしっかり聞いていながら、心の中でイエスを疑っていました。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、一体誰が、罪を赦すことができるだろうか。」(2:7)と心の中で考えました。彼らは、イエス様の御言葉に対する信仰よりも、イエス様の癒しを見に来ていたのです。奇跡を見に来ていたのです。するとイエス様が、彼らの心を見抜かれて、「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」(2:9)と尋ねられました。

皆さんはどちらか易しいと思いますか? 
人間の目から見るならば、ただ口で「罪が赦された」と宣言することの方が、簡単なような気がします。罪の赦しは口で言うだけです。でも、癒しは、実際に奇跡が起こらなければなりません。もし治らなかったら、その権威が疑われます。でも、神様の目から見ますならば、罪を赦すことの方が難しいのです。いや罪の赦しの宣言は、神しかできないことです。人間にはできません。イエス様は神の子であり、罪を赦す権威を与えられているのです。そして、主はこのことのために、即ち、罪を赦すためにこの世に来て下さいました。

キリストは神の子でしたが、自ら肉体を取ってこの世に来られ、神の国の福音を宣べ伝えて下さいました。そして、十字架にかかられ、私たちの罪を贖い、死んで、黄泉の世界まで下られ、そこでも福音を宣べ伝えられたのです。私たちがもうだめだと思った、その所でもイエス様は待っていて下さるのです。私たちの絶望、苦しみ、病の只中に来て下さるお方なのです。

今朝のこの不思議な場面を思い浮かべてみて下さい。天井から土ぼこりや板切れと一緒に男が吊り降ろされてきます。さすがのイエス様もその時だけは説教を止めて天井を見上げて手を上げられたかもしれません。そういうふうにイエス様が、降ろされてくる男を受け止めようとして、手を上げている姿を描いた絵があります。

私はこの中風の人の場面を見ますと、自分の罪の故に地獄に落ちてゆくしかない人間を、その地獄の底で、イエス様ががっしりと受け止めているように見えてきてしょうがないのです。イエス・キリストは罪に沈み、何をしても救われない悲しい存在に過ぎない人間を、全身全霊を持って、あの十字架の上で涙と叫びをもって罪を贖って下さいました。どんなに罪に汚れていても、地獄の底に突き落とされてもしょうがない私たちを、そのどん底で必死に受け止めて下さっているのが、あの十字架のイエス様の姿ではないでしょうか。その十字架のキリストの姿を、私はこの場面が表わしているような気がしてなりません。

イエス様は、この中風の男の罪を、受け止め、身代わりになって罪を贖い、十字架で死んでくださるために来られました。「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしが来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(2:17)と主は言われました。私たちは今、こうして主の大きな救いに恵みにあずかっています。罪の赦しは、言葉による宣言ですが、そこには、神様の大きな恵みと赦しの愛がこめられているのです。そして、主にある新しい人生を歩むことができるようにしてくださいました。

6. 新しい人生の出発

イエス様は中風の人に向ってこう言われました。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」(11節)と。するとその人は、すぐに起き上がって、床を担いで、歩いてみんなの見ている前を出て行ってしまったのです。「起きなさい」というのは、元来は目を覚ましなさいと言う意味です。古い寝たきりの死んだも同然の生活から、復活の力によって、目を覚まして起き上がり、神様を見上げる生活に切り替えなさい、という意味です。いつまでも、過去のことにこだわったり、縛られたりしていてはいけないと言うことです。

そして、古い寝床のような生活に別れを告げなさい。筋肉や神経や言葉が麻痺したような昔の生活と別れを告げて、そういう古い自分を丸めて肩に担いで、どっかに捨てて来なさいということです。そして、本来の自分が帰るべき場所に帰りなさい。それがあなたの家です。霊の家族が待っている本当の故郷、万人の故郷である天の我が家です。天に国籍を持つ、霊の兄弟姉妹のいるあの楽しい天の国を目指して帰りなさい、ということです。それは教会です。御言葉と、とりなしの祈りと、愛のある家族のもとへと帰りなさいということです。

大切なのは罪の赦しの御言葉です。「子よ、あなたの罪は赦された」。ただ、主に罪赦されたものだけが、永遠に生きるのです。そしてこの罪を許してくださるのは、あの十字架のイエス様をおいて他にはございません。罪に沈む私たちですが、それでも十字架の主は、その地獄のどん底で私たちをがっしりと受け止めようと待ち構えておられます。今朝もこの主の御前に出て、主の流された贖いの血潮を、信仰をもって感謝のうちに、受けたいと思います。   (岡田久)

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