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何を聞くかに注意しなさい (マルコ4:21~25)

メッセージ

2015年1月18日(日)富里キリスト教会

「何を聞くかに注意しなさい」
(マルコ4:21~25)

1.ともし火をどこに置くか

前半のたとえ話を読んでみましょう。「また、イエスは言われた。『ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。』」(マルコ4:21~23)

ともし火と言いますのは、御言葉の光です。ヨハネによる福音書では、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(ヨハネ1:9)とありますように、イエス・キリスト御自身の光と言ってもいいかも知れません。バプテスト連盟の結成時の合言葉は、「キリストの光を全日本へ」という言葉でした。今でも連盟事務所に行くと、この言が掲げられて壁に掲げられています。もっと端的に申しますならば、これはみ言葉の光を掲げて伝道するということです。イエス・キリストの御言葉を、日本中に隅々までくまなく宣べ伝えるということです。これがバプテスト連盟の最初の設立の宣言でもあり、祈りでもあったのです。そして今でもその御言葉を掲げております。

ですから、キリストの福音の灯りは、升の下や寝台の下に置くものではありません。あくまでも燭台の上に、即ち教会の上に、そして私たち信徒一人一人の上に掲げるものです。そして私たち一人一人がキリストの灯りとして、日本中の人々の心に、この御言葉を届けるのです。生活の全領域を通して、周囲の人々にキリストを証して行くものです。

では一体、この升の下とか寝台の下に置くということはどういうことでしょうか。升というのはご存じの通り、物の量や重さを計るものです。つまり尺度を意味します。つまり自分の尺度の下に御言葉を置いてはけないということです。自分の尺度、即ち自分の考え、自分の思想、自分のポリシー、そう言ったもので聖書の教えを、キリストの光をさえぎってしまわないようにという警告です。
いかがですか。皆さんの中に自分の思想信条を第一にして聖書を読んでいる人はいないでしょうか。キリスト御自身の光を、自分の感えや思想や主義主張で覆い隠してしまってはいないでしょうか。

ですから、イエス様は「良く聞きなさい。そして何を聞いているのかに注意しなさい」(4:3、24)とおっしゃいました。自分の思想、考え、理想、願いを優先させる生き方ではなく、キリストをどんな時にも表面に高く掲げることです。わたしは平和主義者だという前に、私はキリスト者です。ということです。一般の人には、平和主義の方が受けがいいかも知れませんが、自分の思想や生き方を第一にするのではなく、たとえ恥ずかしくても、軽蔑されても、仲間が離れて行っても、キリストを第一し、これを自分という燭台の上に掲げるということです。

また寝台の下に置くということは、自分の安心できるもの、生活の安定というこの世の物を第一にして、この世の物にキリストの言葉を従わせているという生き方です。この世で一番安心して休める所、それは最高級のベッドです。安眠を与え平安を与えてくれます。真の安心をこの世の日常生活の方においているクリスチャンは、灯りをベッドの下においているということになるのではないでしょうか。

自分を一番休ませてくれるのは、ベッドといったこの世の衣食住でもなく、お金でもなく家でもなく、キリストの御言葉だということを忘れてしまっている人です。ですから灯りはベッドの下ではなく、ベッドの上に置かなければなりません。しかも、ちゃんと安定した燭台の上に立てておく必要があります。そしてこの灯りをいつも見続けるところに、私たちの人生の最高の安心があるのです。どんな災害や苦しみや困難の中にあっても、夜もぐっすりと安心を与えて休ませて下さいます。

2.何を聞いているかに注意しなさい

そこでイエス様は、「聞く耳のある者は聞きなさい。・・何を聞いているかに注意しなさい。」(4:23~24)と言われました。一言に「聞く」とは言っても、「何を聞いているのかに注意すること」が大事です。今日もこうして皆さん聞いていて下さっています。でも、同じ説教を聞いていても、同じたとえ話を聞いていても、聞く人のきき方ひとつで、受け止め方も違ってくるでしょう。

英語の聖書では、「consider carefully what you hear=聞いたことを注意深く考えなさい。」(NIV)となっています。また別の英語の聖書では「be sure put into practice what you hear=聞いたことは必ず実行しなさい。」(LB)と訳しています。つまり、ただ聞きっ放しではなく、またうわの空で聞いているのでもなく、あるいは疑いながら聞いているのでもなく、聞いたことを自分のこととして真剣に考え、悩みながらも思い巡らしつつ、御言葉の権威に従う決意をもって聴きなさいということではないでしょうか。

榎本先生は、「御言葉を聞く」と「御言葉に聞く」とは雲泥の差があると言っています。「御言葉を聞く」というのは、自分があって自分中心に御言葉を理解し解釈するということです。先ほどの升の下の灯りを置くとか、ベッドの下の灯りを置くということと同じかもしれません。一方「御言葉に聞く」ということは、御言葉に自分を支配させる、御言葉が「主」で自分は「従」だということです。御言葉を支配するのではなく、自分が御言葉に支配されるということではないかというのです。「を」と「に」の助詞の違いですが、そこには大きな差があります。

「何を聞いているのか、聞き方に注意しなさい。」と主は言っています。ある人はこのことを、「できるだけ多くを学び、かつ十分に理解するように聞くことだ」と言いました。そのためにも、「自分は心貧しいものであるから、真剣に心を静め、へりくだった心、幼子のような素直な心で御言葉を受け止め、それに『従います』という信仰をもって聞くようにしている」とおっしゃっていました。

3.自分の量る秤

ですから、なるべく自分の視点とか自分の思想、自分のポリシーとかといった自分の升をなくすことです。自分の基準、自分の尺度で読み込まないということです。むしろ反対に、自分の升、自分の基準を下において、その上にキリストの灯りをともすのです。キリストの升、即ちキリストの尺度を上に置くことです。イエス・キリストを常に第一として、この方に人生の基準を置くことです。これが次の言葉ではないかと思います。「また、彼らに言われた。『何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っている者までも取り上げられる。』」(4:24~25)

何を持っているのでしょうか。何を持っている人はだんだん与えられ、何を持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるのでしょうか。一つは「御言葉を聞く力」ではないかと思います。ある人は御言葉を聞いて、10のものを受けるとします、またある人は5受けるとします。そしてある人は1受けるとします。神様は、全員に否時様に差別なく均等に御言葉を与えてはいます。しかし、聞く者の方がその聞く力によって、ある人は10、ある人が5、ある人は1という自分の聞く力に応じて受け取るのです。

ある人は、「持っている」というのは、聖書の御言葉だと言っていました。聖書を読むこと、そして聖書の知識と聖書から来る知恵、それを持っている人はますます豊かに与えられてゆくというのです。この種まきのたとえからして、この自分の量る秤で与えられた聖書の御言葉の真理と知識を、持っている人はますますそれを追い求め、それを学び、そのことに習熟して行こうとするでしょう。天国への欲求は尽きることがありません。

またある人は、このもっているものというのは、神様から与えられたタラントだという人もいます。似たような有名な別のたとえ話があります。神様から5タラントの賜物をいただいた人は、更にそれを用いて商売をしてあと5タラント儲けて10タラントにしました。神様から2タラントの賜物をいただいた人は、それで商売をして4タラントにしました。しかし、1タラントしかいただかなかった人は、失敗を恐れて、それを地面に隠して1タラントのままにしておきました。すると最後に、神様が出てきてその与えたものの精算をし始めました。その時、1タラント預けた者に対して、それを用いなかったことを叱りました。そして、その大事にしまっていた1タラントを取り上げて、10タラントもっている人に上げました。そして最後にこう言いました。「誰でも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」と(マタイ25:14~30)。この最後の言葉が、マルコの4:25の言葉と同じことを言っています。

自分の力や自分の能力や自分の財産を頼りとして第一とし、神の御言葉を第二とする時に、それは自分の力を大きく見積もって、神様の力を過少評価していることになります。そういう人は、神の御言葉を信用していませんし、神により頼むこともないでしょう。そういう人は天国も神の力も御言葉も信じていませんから、何もできないと思ってしまいます。そして自分の目で判断して、神様から与えられた1タラントを用いませんでした。しまっておきました。そして、その人はその1タラントまで取り上げられて、10タラントの人に与えられたのです。

たとえ一粒の小さな種でも、それをしっかりと貧しいへりくだった心で受け止め、これを信頼し、手放すことなく持ち続けることによって、豊かに実をつけ更にこの命の種を人々の心に届けることができるのではないかと思います。ですから、聞く耳のある者は聞きなさい。そして何を聞いているのかを真剣に考え、それを実行に移すならば、さらに多くのものを与えられるのではないかと思います。

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