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他人の利益を追い求める (Ⅰコリント10:23~33)

メッセージ

2013年10月13日富里キリスト教会

「他人の利益を追い求める」
(Ⅰコリント10:23~33)

1.悪霊の仲間になってはいけない

パウロは、このⅠコリント書の中で、8章~10章の3章の長きにわたって偶像礼拝について取り上げて語っております。ユダヤ人世界とは違って、コリント教会は偶像礼拝の世界の真っただ中にありました。異教の神々との生活習慣上の違いと関わりの中で、クリスチャンはどう生活し、主を証して行ったらいいだろうかということについて詳しく教えております。日本の私たちもコリントと同じように、異教世界、偶像の社会に囲まれて生活しておりますので、ご一緒にじっくりとみてみたいと思います。

パウロはここで、こう言っています。「わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。」(10:14)また「いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になって欲しくありません。主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか。わたしたちは、主より強い者でしょうか。」(10:20~22)と。

つまり自分はクリスチャンで、もう神様に守られているから大丈夫だとおもって、安易にお寺の行事や仏事(お盆、葬儀、仏事、豆まきなど)に参列してはいけない。また、自分からすすんで神事(秋の豊年祭り、お神輿担ぎ、元朝参りなど)に参加することも気をつけなさいと注意しています。特にそこで出される会食や宴会の席に連なることは避けなさいと言っています。食卓を囲むことによって、これらの偶像を利用して人々を縛って操っている悪霊の仲間になることですよと警告注意しています。クリスチャンは、自分から積極的に異教の神々、偶像の祭りごとに参加することのないようにという警告です。

なぜなら、私たちは主の晩餐式を通して、目に見えないイエス様と父なる神様、聖霊様と交わりをしているからです。そんな自分が、今度は平気で、自分からすすんでそのような偶像の神々の食卓に着いていいでしょうか。何故かと言いますと、もともと、偶像という神があるわけでもないのです。この世には、神は唯一で、この聖書の神しか存在していません。他の神々は、神ではなく、ただ単なる木や鉄などの彫り物に過ぎません。不動明王も、観音様もその他、いろんな神様も存在しないのです。

じゃあなぜあんなに多くの人々が礼拝に行くのかと言いますと、パウロはこう言っています。「あなたがたの献げものは、偶像に供えているのではなく、目に見えない悪霊に献げているのだということです。そして、そのような宴席にあずかるということは、悪霊の仲間になっているのであるというのです。主の杯を受けた者、主の食卓にあずかっている者は、両方に着くことはできません。それは真の神様に対して妬みを起こさせることになります。」と警告しています。

つまり、あの成田山新勝寺仏様も靖国神社の神様も、もともと存在しない。この世には、いわゆる神も仏もいないというのです。存在するのは目に見えない唯一の主なる神だけです。ただ、この真の神に反対する悪霊が、像を造って像を利用して人々を怖がらせて、時にはお金儲けをさせ、自分の支配に服従するようにしているだけだというのです。

ですから、真の神を知り、その方に属する者となっている私たちは、だまされてそのような神ならぬものを神として拝んだり、礼拝したり、会食したりして悪霊と交わってはいけないというのです。これはクリスチャンとして肝に銘じなければなりません。わたしたちはそこまで強くないのです。

2.お寺の葬儀や神社での結婚式の宴席に
招待されたら

ユダヤ人は、そういう中で、はっきりと偶像礼拝者や汚れた人々、汚れた食べ物に触れて、自分たちも汚れることがないようにと壁を造り、自分たちと異邦人とを分けました。しかし、異邦人のクリスチャンや私たち日本人のクリスチャンはそういう世界で生きています。もしユダヤ人のような信仰を持とうとしたら、家族の中にも社会の中にも入れなくなります。どこか理想的なキリスト教国、バチカンにでも出て行かなければなりません。しかし、それは本当の信仰生活ではありません。この異教世界にあって、聖書に基づき、クリスチャンとしてどう生きて行くかが求められています。そのことについて述べたのが、10:23節以下の個所です。

「『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『すべてのことが赦されている。』しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。『地とそこに満ちているものは、主のもの』だからです。あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。しかし、もしだれかがあなたがたに、『これは偶像に供えられた肉です』と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません。わたしがこの場合、「良心」と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです。どうしてわたしの自由が、他人の良心によって左右されることがありましょう。」(10:23~29)

どうしても付き合いでお寺での通夜振る舞いの会食や、神社での町内会の慰労会があったりするでしょう。その時にどうするかが書かれてあります。
信仰を持っていない人から招待された場合には、目の前に出されたものは何でも食べなさいと言うのです。たとえ一度は仏様に献げられたお酒でも、また神社の神様に捧げられてお神酒でも、いちいちこれは食べられない、飲めないといちいち詮索する必要はないというのです。イスラム教徒やユダヤ教徒には、特別の食事、すなわち豚肉などは入っていませんというお墨付きが必要ですが、キリスト教とはそんな規定はありません。「地に満ちているものは主のもの」だからです。豚であろうが、ウナギであろうが食べることはできます。(これは律法では禁じられている。)

ただここで、パウロは、たとえあなたが自由な信仰を持ち聖書の知識にたけていて、何を食べても信仰に差し支えないと信じています。でも、その宴会の席に律法的なユダヤ教的な信仰を持ったクリスチャンがいて、「これは、偶像の神様に献げられた肉ですから、食べない方がいいですよ。」と親切心で注意してくれる人がいたとします。その時には、注意してくれた人のためにあなたは食べない方がいいですよと、パウロは言っています。

そういう時には、そう言ってくれた人のために、「アッ、そうですか。失礼しました。これは偶像に献げられた肉ですか。それじゃあ食べるのを止めましょう。」と言って、注意してくれた人の良心を傷つけないようにしてあげなさいと言うのです。もし、注意した人が、バプテスマを受けたばかりで信仰がまだ幼い人だったらどうするでしょうか。その人は信仰の強い人のまねをして、平気で偶像に供えた肉を食べてもいいと考えてしまいます。そして、信仰がまだ幼いために、そのことによって今度は逆に自分をさばいて、卑下して信仰を失ってしまわないとも限りません。

ローマ14:15でもパウロはこう述べています。「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。ですから、あなたがたにとって良いことがそしりの種にならないようにしなさい。神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」と言っています。自分では自由だと思っていても、そのような弱い人のために気を配ってあげなさい。そのような人が、つまずかないように配慮しなさいとパウロは言っています。相手のことをまず考えなさいと言っています。これが、自分の利益ではなく、他人の利益を追い求めなさいということの意味です。相手の益を図り、相手を建て上げ、成長して行くように見守るということでしょうか。

3.すべては神の栄光のために

でも伝道者パウロの立ち位置は、常に一定でした。彼は、一貫して、「自分の利益ではなく他人の利益を求めました。」(10:24)また「何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしました。」(10:31)「人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしました。」(10:33)「自分自身は自由なものでしたが、できるだけ多くの人を救いに導くために、すべての人の奴隷になりました。」(9:19)「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」(9:23)

どこまでも相手のために、まだ救われていない魂をキリストのもとへと導くために、伝道者としてパウロは自分を捨て、奴隷のようになって相手に仕えて行きました。しかし、相手の奴隷になって、ミイラ取りがミイラになってしまうような依存的な関係ではありません。それはあくまでも自分の立場、即ちわたしはキリストにあって自由な人間だ、その自由を自分のために用いるのではなく、相手のために用いることによって、一人でも多くの人をキリストのもとへ導きたい、そういう願いがあったのです。

これがパウロの生き方でした。最後にそのような生き方は、イエス様から来ているというのです。11:1に「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこの私に倣う者となりなさい。」と言っています。私たちがイエス様に倣う時、相手の益を追い求め、相手を喜ばすことに全力を注ぐことができるようになるのではないでしょうか。イエス様は自分を捨ててへりくだって、この弱い私たちに仕えてくださいました。

そのような人がたくさんいる教会は、喜びがあります。私たちの教会もそうです。皆さん方も、自分を喜ばそうとはせず、何とか相手を喜ばそうと一生懸命になっていて下さることを感謝します。たとえ相手が喜ばなくても、気がつかなくても、どんな時でも相手のプラスを図ってあげることができたらと願っております。わたし自身も、相手の益を常に追い求めることによって、イエス様の生き方に倣う者でありたいと願っております。そのことを通して、神の栄光を現す富里キリスト教会になって行くことを願っております。(岡田 久)

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