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今は眠りから覚めるべき時 (ローマ13:8~14)

メッセージ

2014年10月12日富里キリスト教会

「今は眠りから覚めるべき時」
(ローマ13:8~14)

1.今は眠りから覚めるべき時

「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、私たちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身につけましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」(ローマ13:11~14)

パウロは別な言葉で、今はどういう時かを説明しています。それは12節の「夜は更け、日は近づいた。」という言葉です。この社会は、そして地球は、これから未来に向かって科学技術が進んで、より良い世界となって行くのではないかという希望はありますが、聖書はそうは言っていません。

「夜はますます更ける」と言っています。つまり昔よりも世の中は悪くなる、暗くなり冷たくなって行くというのです。確かにそうです。夜のうちで一番寒いのは明け方です。また一番暗いのは、夜が明け始める前です。「夜が更ける」ということは、どんどん世の中が暗くなり冷たくなって行くということです。異常気象による災害が起こるでしょう。地震、噴火、大津波がやって来るでしょう。寒波や巨大台風、飢饉や放射能汚染の時代です。人々の愛が冷えて来ます。

マルコ13:7~8、24~27(P88)に、この世の終わりに何が起こるのかということが述べられております。今まさに、現代はこのような状況に入って来ています。しかし、そのような終わりの時代の中にあって、あなたがたは決してあわてたり、信仰を失ったりすることなく、目を覚まして、この聖書の御言葉を信じて待っていなさいと、パウロは勧めております。

そして世の中が暗くなればなるほど、いよいよ主の再臨が近づいてきて救いを完成するときがいっそう近くなるのです。それが「夜は更け、日は近づいた。」という言葉です。暗くなればなるほど、夜明けが近いということです。そして現在は、この夜が更けて世界も社会もますます暗くなって来つつある時代です。だから、その分、夜が明ける日も近い、主の再臨する時もいよいよ迫っているというのです。ローマ書のこの後半の部分は、そういう終わりの時代に生きている私たちが、どのようにして生きて行くのかということを教えています。

そういう時代に生きている私たちは、「目を覚まして祈っていなさい。決して眠ってしまうことがないようにしなさい。」とパウロは励ましています。「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。」とパウロは言っています。それは、キリストの再臨が遅くなり、すでに2014年も経っていますので、中にはバプテスマを受けても、信仰を失ったり、教会を離れたりして霊的に眠ってしまっている人がいたからです。パウロの時代も今日の教会も同じです。

2.闇の行いを脱ぎ捨てる

そのような人がどういう生活をしていたかと言いますと、13節にありますが、「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエスをまといなさい。」と言っています。つまりクリスチャンでありながら、酒宴と酩酊の生活をしている人です。毎晩アルコール漬けの生活です。お酒が切れない。アルコール依存症のような生活をクリスチャンがしているのです。そして「淫乱と好色」です。特に近年はインターネットの普及によって、誰でもどこでもいかがわしい映像や画像を見ることができます。PCのインターネットの普及によって、サタンがほくそえんでいるような気がします。「これで、世界は俺の手に入った。どんな人間でもこれを使って罪に落とすことができる。」と。今までは、ごくごく限られた場所で限られた人にしか見ることができなかった淫らな映像が、瞬時にして覗くことができるからです。

また「争いとねたみ」という人間の感情もあります。ある人に言わせると、「教会ほど、人間の争いとねたみが出て来る場所はない。」と言っていました。そういう人間の罪や悪といったことが、実は教会の中でも起こって来ますし、私たちの心を支配しています。教会の中で、勝った、負けた、追い出した、追い出されたという人間の一番醜い争いとねたみの場面が出て来ることがあります。

では、どうしたらいいのでしょうか。どうしたら「目を覚ますこと」ができるのでしょうか。どうしたら「闇の行いを捨てて、光の武具を着ること」ができるのでしょうか。どうしたら「昼歩くように、毎日毎日品位をもって歩くこと」ができるのでしょうか。「酒におぼれる生活を止めること」ができるのでしょうか。「淫乱な生活」から抜け出ることができるのでしょうか。「ねたみ」を無くすことができるのでしょうか。

3.キリストを着る

それは、14節にありますが、「主イエス・キリストを身にまといなさい」という御言葉です。これは「イエス・キリストを着る」ということです。例えば、「バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(ガラテヤ3:27)「互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて真の知識に達するのです。」(コロサイ3:9~10)

バプテスマを受けた私たちは皆、イエス・キリストを既に着ているのです。この来ている上着を生涯絶対に脱いではいけないし、脱ぎ捨ててもいけないのです。確かに最初は、どんな服も体に合いませんがだんだんなじんできます。これをしっかりと身に着けるのが信仰生活です。そして、これを脱ぐということは、キリストを脱ぎ捨てることです。それは、祈らなくなる、聖書を読むのを止めることを意味しています。そして、教会の礼拝に行かなくなる。これがキリストを脱いでしまうことです。教会に来なくなっても、家でもう一度聖書を開いて読んだり祈ったりすると、また教会に来たくなります。

更に、信仰生活と言いますのは、キリストを着ているだけではなく、古い肉の自分を日々に脱ぎ捨てることです。これは罪を犯したら、直ちにその罪を悔い改めることです。そして、日々に新たにされてゆくことです。そしてついには真の知識に達することが大事だというのです。真の知識と言いますのは、聖書から来ます。このローマ書の12:2にありますように、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が良いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになることです。」

前の口語訳聖書では、「あなたがたはこの世と妥協してはならない。」となっています。世と妥協するなということです。御言葉に立ちなさいということです。もっと簡単に言いますと、真の知識を身に着けるということです。フィリピの手紙でもパウロはこう言っています。「わたしはこう祈ります。知る力と見抜く力を身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことが見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となるように。」(フィリピ1:9~10)と。

つまり、キリストを着るということは、古い肉の自分に気が付いたら、それを悔い改めて告白の祈りをすることです。そして、正しい方を選び取ることです。そのためにも正しい判断と知識が必要だとパウロは言っています。端的に言いますと、キリストを着るということは、キリストに関する知識をたくさん知るということです。これがキリストを身にまとうということです。いかがですか、皆さんキリストを身に着けていますか?

と言いますのは、キリストはどういう方であるかを知らないで、自分の思い、自分の感情で勝手に信仰を判断して、間違った判断や分別をしてしまうことが多いからです。知っているつもりが、実は全然知っていないということから来る信仰の誤解です。分別がないという無分別の罪は、姦淫や殺意と同じくらい大きな罪です。ですから、聖書読みながら、聖霊様の助けをいただいて毎日、毎日、真剣に聖書を読むことです。キリストに関する知識を身に着けることです。これがキリストを身に着けるということです。先週も同じことを話しました。「御国が来ますように。」と祈りなさいと。自分の心の内をキリストの知識と思いで、いっぱいにしてもらうということです。自分の思いとキリストの思いを区別して、キリストの思いを選び取ることです。

教会に来ていても礼拝をしていても、真剣にこの御言葉に取り組まない限り、それは眠れるクリスチャンです。もういい加減、眼を覚ましなさいとパウロは言っています。特にベテランの信徒になればなるほど、以前よりも救いが近づいているわけですから、ますます御言葉を研究したり、調べたりする必要があります。そして、御言葉に常に教えられて、聖い生活を目指し、暗闇の悪の行いを脱ぎ捨てて、昼つつましく歩くように品位を保って歩きなさいとパウロは言っています。

4.隣人を自分のように愛しなさい

そして順序が逆になりますが、最後に愛の教えを説いています。「互いに愛し合うことのほか、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛するものは、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、その他どんな掟があっても『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするのです。」
            (ローマ8~10)

このような時代ですから、あわてたり、反体制や反権力の運動をしたりするのではなく、神が立てた権威者を畏れ、それに服しなさい。そしてきちんと税金も払うべきものは払いなさい、人から後ろ指を指されるような生活をしてはいけませんということを前に学びました。そして、何よりもこのような時代にあって「隣人を自分のように愛しなさい。」という積極的に愛の戒めの実践するようにと勧めています。

私たちクリスチャンは、人に借金をしてはいけませんが、イエス様だけには大きな借金をしています。それは、わたしの罪を贖って下さったということです。このキリストの十字架の罪の贖いの故に、キリストの私に対する愛の故に隣人を愛するのです。一生払い続けなければなりません。それは無条件の愛です。見返りを求めない愛です。与える愛です。それはイエス様が私をそのようにして愛して下さったからです。これが「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」という戒めです。

そのためには知識が必要です。聖書では何と言っていますか。最近教えられた愛の実践ですが、イエス様はこう言っています「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」(ルカ6:31)これが「隣人を自分のように愛すること」ではないでしょうか。自分が人にしてもらいたいと思うことを行うことです。相手が迷惑しているのに、これが私の愛ですと言って愛の押し付けをしたりすることはないでしょうか。

つまり、相手の立場に立って考えるということです。この視点の変化が、「自分を愛するように他の人を愛しなさい」ということではないでしょうか。自分の感情ではなく、相手の気持ちを第一にするということです。それが「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」というイエス様の愛の戒めではないかと気が付くようになりました。これも聖書を読んでいて教えられることです。最後に、もう一度13:12~14までを読んで終わりにしたいと思います。                           

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