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人間を取る漁師 (ルカ5:1~11)

メッセージ
2019年1月20日富里キリスト教会
「人間をとる漁師」
(ルカ5:1~11)
1.御言葉に従う

今朝もそのようなお話です。イエス様が、漁師たちに「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」といいました。そうしましたら、ペテロとヤコブ、ヨハネたちは、自分たちの生活の糧である船を陸に引き上げて、「すべてを捨ててイエスに従ったのです。」(5:10~11)信仰の決断です。自分たちの生活の糧を捨てて、一切を捨ててイエスに従ったのです。同じルカの18:29にはこう書いてあります。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」とイエス様が言っています。確かにその通りです。神様のために自分にとって大切なものを捨てた者は、生きているうちにその何倍もの祝福を受けます。そして後の世では永遠の命を受けます。

家も兄弟も両親も子供も捨てるのです。そうすれば、逆にそれらのものを手に入れることができます。それらにこだわって、固執している人生は、結局はそれも失ってしまいます。ああ、自分はイエス様を捨てて、家族をとってしまったという人は、一生悔いが残るでしょう。捨ててみて初めて得るものがあるのです。わたしも公務員の安定した収入を捨てました。でも牧師になってからも、県職員並みの生活が守られてきました。そして自分が神をまず第一にして従う時に、捨てたと思った家族のことも神様は祈りに答えて祝福してくださいます。

信仰の恵みは本当に、自分のものをすべて捨ててみないとわからない祝福です。そして神様の御言葉は決して嘘はない、真実だということを体験してゆきます。ただそこまでかけをしていいものかどうか、迷っていることはあると思います。この漁師たちはいったい何の理由で、すべてを捨ててイエスに従ったのでしょうか。誰も「わたしに従ってきなさい」と言われて、「はい」と言って仕事を辞めて従う人はいないと思います。何かがあったのです。それが今日の物語です。

5:4~9までを読んでみましょう。
「話し終わった時、シモンに、『沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。』と言われた。シモンは、『先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの船にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの船を魚でいっぱいにしたので、船は沈みそうになった。これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです』と言った。」

イエス様がペテロに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」と言ったとき、ペテロは反論しました。「昨夜、夜通し漁をしましたが、一匹も取れませんでした。素人のあなたが何を言っているのですか。今は昼です。昼間に魚が獲れるはずはないでしょう。」と。でもペテロは先生の面子をつぶしたくないと思ったのか、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」と言いました。英語では、But because you say so, I will let down the nets となっています。But because という言葉です。「しかし、あなたがそう言うなら」という不承不承の態度です。絶対獲れないよと頭の中では思っています。

それでもペテロはイエスの言葉に従いました。不承不承であっても、主の言葉に従う時に、奇跡が起こります。全くないと思っていたことが起こるのです。川の流れがせき止められたり、死海の海の水が二つに裂けたりすることが起こるのです。それは主の御言葉に従ったからです。先週も言いました。ザレパテの寡婦が最後のパンを預言者に与えた時に、奇跡が起こったのです。ナアマン将軍が、しかし預言者がそういうならと言って、あの汚いヨルダン川に入って体を洗ったら、ライ病が消えたのです。ペテロたちもヤコブもヨハネも同じ経験をしました。自分の経験知識を捨てて、自分の考えを捨てて、自分のポリシーや主義主張を捨てて、ただ主の御言葉に無条件で従う時に、奇跡が起こるのです。(牧師の給与カット)それが信仰です。

Jesus said to Simon “Put out into deep water and let down the nets for a catch.” And Simon answered “Master, we have worked hard all night and haven’t caught anything. But because you say so, I will let down the nets.” (Luke 5:4-5) Jesus asked Simon to put out into deep water to catch the fish. But he refused to catch fish at first, they have worked all night but no fish. It is impossible for them to catch fish in the daytime. But Simon submitted the order of Jesus, he said “but because you say so”. Even if we did not understand the word of Jesus, but we followed the word of Jesus. There is a miracle we cannot expect. So let us follow and submit the word of Jesus. On last Sunday
I preached you the widow of Zarepath gave the last bread to the prophet Elijah, then the oil and flour will not run out. And the general Naaman sunk his body seven times in the Jordan river. Then his leprosy was healed. Even if we may have a doubt, we submitted the word of the God, there will be happened a miracle. Simon got a large amount of fish as he followed the word of Jesus.

2.ペテロの罪の告白と献身

それだけではありません。ペテロが一切を捨ててイエスに従う決心をしたのは、もう一つあります。それが大事なことです。ペテロはこの大漁の奇跡を目の当たりした時、何と言いましたか?8節「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。』と言った」とあります。自分は罪深い者だと告白しました。これは他の福音書にはない言葉です。つまり、ペテロが一切を捨てて主に従う決心をした最大の理由は自分の罪に気が付いたからなのです。自分の罪深さが、今やっとわかったのです。

この大漁の奇跡が起こるまで、ペテロはどんな態度を取っていたでしょうか。前の4:38~39を見てください。「イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。イエスが枕元に立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。」とあります。ペテロのしゅうとめさん、奥さんのお母さんです。高熱で苦しんでいました。でもペテロがイエス様を呼んだのではありません。町の人々です。ペテロは知らん顔をしていました。そしてお母さんがいやされたにも関わらず、何のお礼も言っていません。

また群衆がイエス様のところに押し寄せて来ていたにもかかわらず、彼ら漁師たちは船から上がって網の手入れをしていました。あんなに人々がみ言葉を聞こうとして押し寄せてきているにもかかわらず、しかもペテロは、お母さんを助けてもらっていたにもかかわらず知らん顔です。無関心です。説教中も居眠りしていたのかもしれません。イエス様の御言葉と御業に何の関心も示さなかったのです。無関心、これが神に対する最大の罪です。ところが自分が生業としている漁業の中で、信じられない奇跡が起こったのです。そして始めてイエス様の力と権威が分かったのです。

人間は自分の知っている所で、自分の専門分野のところで奇跡を体験すると初めて、その人の権威を認めるのではないでしょうか。つまり奇跡は皆さんの身近なところで起こるのです。自分の得意としている場所で、サッカー選手はサッカーの試合で、野球選手は野球の試合で、医者は病院の中で、主の御言葉に従ったときに奇跡が起こるのです。そして初めてそこでその人は、自分の無力さ限界、罪というものを認めて主の前にひれ伏すのではないでしょうか。自分が打ち砕かれる経験をするのです。

皆さんの立っている場所で、主は必ず出会ってくださいます。しかしその時には、自分の限界、自分の失敗、自分の過ち、罪を示されることによって主が出会ってくださるのです。この自分の罪の経験と罪の告白によって、初めて人は人をとる漁師、すなわち伝道者へと変えられてゆきます。そして自分の限界と自分の罪を示された時に、初めて人はすべてを捨てることができるのではないでしょうか。ここですでにペテロは打ち砕かれて、自我というものに死んだのです。罪深い自分を初めて認めたのでした。

ペテロは、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」(5:8)と言いました。自分の罪を知り、主よ離れてくださいと、自分にへりくだるとき、イエス様は、そういうわたしたちでも、「人をとる漁師になる」と言ってくださるのです。わたしは罪人です、主の前に立てませんと自分と神との間をとればとるほど、その隔たりを超えて主はわたしたちを弟子として召してくださるのです。神と自分の隔たり、距離というものを感じれば感じるほど、そういう遠くに立つしかできないものを、主は目を留めてくださり、そば近くに来て召してくださるのです。

これがキリストの弟子としての召命です。そして主は、このペテロに対して、「恐れることはない。あなたはこれから人間をとる漁師になる。」と言いました。「なるでしょう」とか「なるかもしれない」ではなく、「なる」と言いました。人間をとる漁師、すなわち伝道者です。福音宣教者です。キリストの証人です。弟子として不十分な、何の資格もない者であればあるほど、主はそういう人をすなどる者としてくださるのです。小さな者、弱い者、罪深い者を召してくださるお方です。

イエス様は、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」こういって罪を悔い改めてくる人を主は求めているのです。それ以外で来る人は、後で離れて行きますし、イエス様もそう人を冷たく突き放されます(富める青年の話)。何か自分にとってプラスになる神様、そういう偶像を求めてきている人です。いくら熱心に求めて来ても、自分の罪を認め主の前に告白して悔い改めないならば、そういう人は弟子としての資格に欠けている人です。

つまり何が大事かと言いますと、人間の罪の告白です。実に多くの人々が罪の告白ではなく、良い人間になろう、楽しい平安な生活をしたい、社会貢献をしてよいことをしたい、自分をもっと向上させてゆきたいと思って信仰に入る方が多いのです。クリスチャンという言葉と理想の生活を並べてそこにあこがれるということで、弟子になろうとする人が多いのです。自分の罪深さがよく分かっていません。ですから、クリスチャンになってからもなんも変わらない生活をしています。むしろ罪の苦い根が残っていて前よりも悪くなる人もいます。

After seeing the large number of fish, Simon Peter fell down at Jesus’s knees and said “Go away from me Lord, I am sinful man!” why did he say so? “ I am a sinful man.” Because he did not interest in Jesus and at all, for when his mother-in-law was healed by Jesus, he did not answer and give thanks to Jesus at all. He did not interest in Jesus. But when Simon saw the miracle with a large number of fish,
When his eyes saw the miracle then his eyes were opened and understood what he was. It is I that was a sinful man. But Jesus Christ came to this world to save us from sins and redeem our sins. Where sin increased, grace increased all the more. (romans 5:20) Jesus is looking for a sinful man and called him as a fisherman who take a man.
A fisherman who take a man is a evangelist and missionary and pastor and witness of the Lord. You also called as a fisherman to take a man.
Even if we are sinner and imperfect person and weak person, Jesus called us as a fisherman to take a man. They throwed away the boat that is the food of their lives and left everything and followed Jesus Christ. Let us follow Jesus as we are and as we have sins and weakness.

この後ペテロは、イエスに弟子として従ってゆきますが、自分という罪、自我が何度も彼の中から顔を出します。今度は逆にイエスさまよりも自分の方を上において、イエス様の十字架への道を妨害しようとしました。「十字架に架かって死ぬなどと言ってはいけません。」と言って、イエス様の袖を引きました。その時、イエスに「サタンよ引き下がれ」と言われました。また自分は、弟子のリーダーとして絶対に主を裏切らないと言いながら、三回もイエス様と関係がないと否定しました。裏切り者です。弱い人間です。失格者です。

人間の罪はなかなか消えません。でもキリストの弟子は、いろんな失敗や罪を犯しながらでも、イエス様の御言葉に従ってついて行く者です。主の晩餐式を毎月受けるように、毎回も毎回も、何度も何度も、薄皮をはぐようにして罪の皮が取り除かれてゆきます。キリストの弟子には程遠いようなものですが、それでもその隔たりを超えて、イエス様の方から近づいて来てくださり、わたしたちを人をとる漁師にしてくださるとおっしゃっとられるのです。「あなたは人間をとる漁師になる。」と断言されておられます。牧師だけではありません。皆さん一人一人が、人間をとる漁師として召されているのです。

そのとき、彼はいや待って下さい、家には妻もしゅうとめもいますのでとは言いませんでした。ペテロもヨハネもヤコブもアンデレも船を捨てて、イエスに従ったのです。生活どうするの?家族はどうするの?ペテロの親兄弟もいるんじゃないですか?船はどうするの?そういうことは考えませんでした。すぐにその場で船も漁をする道具も一切を捨てたのです。

それが弟子としての信仰生活です。そのためのイエス様の十字架です。永遠の贖いです。すぐに躓き、裏切ってしまうようなわたしたちですが、そういうわたしたちであっても、主がわたしたちを「今日から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と言って召してくださっているのです。ペテロのような弱く躓きやすいわたしたちですが、全てを捨てて従って行きたいと願っています。(岡田 久)

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