ようこそ、富里キリスト教会の公式ホームページへ

人間の罪(原罪) (創世記3:1~19)

メッセージ
2017年7月23日富里キリスト教会

「人間の罪(原罪)」
(創世記3:1~19)

1.罪の侵入

蛇は人間の弱い部分を狙いました。それはエバのほうです。アダムは神様から直接に「園の中の善悪を知る知識の木からは、決して食べてはいけない。食べると死んでしまう。」(2:17)という命令を受けていました。しかし、エバはその場にいませんでしたから、彼女は夫のアダムから間接的に、その御言葉を聞いていました。いわば又聞きです。ちょっとあやふやな所もあります。そういうあやふやな神の御言葉を蛇は狙いました。

「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか?」(3:1)するとエバは答えました。蛇は実に上手ですね。まさに誘惑の天才です。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか?」と尋ねました。神様は、最初、「園のすべての木から取って食べなさい。」(2:16)と言ったのです。エデンの園は自由の楽園です。二本の木以外は、どんな木からでも自由に取って食べることができるのです。

ただし神様は、「善悪を知る木」の一本だけを指定して食べてはいけないと命じました。後は食べ放題なのです。しかも蛇が、「食べてはいけないと言われたのですか」と言うことによって、人間の心の中に一挙に不自由な、制限されているような感覚が起こって来ました。人間の心理をうまく突いています。「信仰生活も大変ですね~。」とか「クリスチャンも大変ですね~。あれもこれのできないんですか~?。」「不自由ですね~。」と言った言葉です。一見同情しているようですが、わたし達が不自由な生き方をしているのではないだろうかという、疑念を思い出させようとしています。

その蛇の誘惑の言葉に対して、エバははっきりとこういうべきでした。「決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」と主なる神様は言われました。あるいは「サタンよ、引き下がれ!」と。ところがうる覚えであり、又聞きですからはっきりと断言できませんでした。イエス様は、荒野でサタンの誘惑に会った時に、「聖書にはこう書いてある。」と言ってはっきりと、そしてきっぱりとサタンの誘惑を切り捨てました。ところがエバは、夫のアダムからこの命令を聞いています。またその場にアダムがいれば状況が違ったかもしれませんが、アダムがいない留守の時を見計らって蛇が誘惑したのです。

そこで、エバはこう答えました。「わたしたちは園の中央の果実を食べて良いのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」(3:3)と。「園の中央に生えている果実だけは食べてはいけない」と、ある程度正しく答えました。ところがこれに別の言葉を付け加えています。それは「触れてもいけない」という言葉です。この別な禁止の言葉を一つ付け加えることによって、ますます自分たちの生活の不自由さが増して来ました。もっと自由になりたいという気持ちが湧いてきます。こんな不自由な生活から自由になりたいと思います。

その気持ちを一番色濃く表しているのが、「死んではいけないから」というエバの言葉です。英語でもYou will surely die と主は言っていますが、エバYou will dieと言い変えています。Surely(=必ず)という言葉を省いているのです。日本語でもそうです。「死んではいけないから」という言葉の主語は誰ですか?私が主語になっています。つまり自分がいつの間にか、この命令の主人になってしまっているのです。

「わたしが死んではいけないから、神様はそうおっしゃって下さった。」とエバは考えました。神様が禁じたのは、わたしが死んではいけないからであって、わたしのために禁じたのだと言い変えています。自分が中心なのです。既にこの時エバの心の中には、自分の人生は自分で決めるという自分中心の考え方が、入って来ていました。いくら神様が決めても、自分の人生も自分の命も自分が決めるのだという強い意志です。神の御言葉に従わないのです。神の御命令に背を向けてしまっているのです。これが人間の罪の始まりです。この「自分」「自分中心」というのが、罪の始まりと言っても過言ではありません。

もうここまでくれば、蛇の思うつぼです。「決して死ぬことはない。」と、蛇が公然と神の御言葉と相反することを言っても、エバの心は歯止めが効かなくなっています。しかも蛇は、公然と「神のようになることを神は恐れているのだよ」と、神に背くように唆しています。「自我」に目覚めたエバは、自分の人生は自分で決める。もう神の支配の中にいたくはない、もっと別な世界へと出て行きたいという強い願望にかられて、いっきに善悪の実を取って食べてしまいました。

2.自我の目が開かれた人間

するとどうなったでしょうか。「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」(3:6~7)

善悪を知る前は、二人とも裸であっても、恥ずかしいとは思いませんでした。それは神様の視点から見ていたからです。たとえ男女に肉体的な違いがあっても、それを恥だとは思いませんでした。なぜなら、それは神が造ってくれた体だからです。だけど、今度は自分という視点ができましたので、自分と他人という区別と比較が生じたのです。そして自分に無い物を他の人が持っていると、それを恥と思うようになりました。自分の欠点だと考えたのです。ですから、あわてて、腰をいちじくの葉で隠しました。これが善悪を知ったと言うことです。

神様の目から見た善悪ではなく、自分の目から見た善悪です。自分が優れていれば、相手を卑下し、自分が劣っていればその欠点を隠そうとします。そして、何かまがい物でそれを覆い隠すのです。隣の芝生はよく見えるということわざがありますとおり、相手との比較の世界です。お隣の奥さんが、シャネルのバッグを持っていたら、こちらも負けないでエルメスのバッグを買ってもらう、お隣がハイブリットカーを買ったら、こっちは電気自動車を買うという、果てしなき競争の世界です。嫉妬と妬みの世界が始まりました。これが人間の目が開けると言うことです。神の視点では、違いがあっても恥ずかしいとも劣っているとも、負けているという気持ちも起きませんでした。しかし、自分という視点で善悪を考えるようになると、果てしなき比較と競争の悪のスパイラルが始まってしまったのです。

何か別のもので、自分の欠点をカバーできればいいと思いますが、それができないと、相手への攻撃へと変わって行ったのではないでしょうか。このようなことはどこの世界でも頻繁に起こっていることです。アダムの息子のカインとアベルも同じように、兄の弟に対する嫉妬と憎しみによって、人類最初の殺人まで行ってしまいました。まさに自分中心という視点で考え、自分の視点で善悪の判断をし始めたことに端を発した人間の罪の結果ではないでしょうか。

3.罪人を呼び続ける愛の神

罪を犯してしまい、裸を恥と考えるようになった人間のとった最初の行動は、神の目から姿を隠すと言うことでした。神から呼ばれても隠れてしまっているのです。自分の犯した罪が明るみに出るのを恐れているのです。9節に「主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』」とありますように、神の目から姿を隠して隠れているわたしたちを、神は常に呼び求めておられるのです。神様は罪を犯したわたしたちを裁くお方ではありません。神様はどこまでもわたしたちに自由意思を与えて下さって、人間のほうから神の前に一歩進み出て来ることを待っておられます。神の天地創造は、神の意志のままに動くロボットの人間を造ったのではないのです。あくまでも人間が自分に与えられた自分の自由意志で、神の愛の呼びかけの前に一歩進み出て来るのを待っておられるのです。

この原罪について記した、いわば呪われたような創世記3章ですが、この中でも神は、なおわたしたちを呼び続けておられるのです。そして蛇の子孫である罪の頭を、女の子孫であるキリストが、やがて踏みにじる時が来ることを預言しております。15節の後半に「彼(キリスト)はお前(罪と悪魔)の頭を砕き、お前(蛇)は、彼(キリスト)のかかとを砕く(キリストを十字架につけてしまうこと)。」と言うことが預言されています。

そしてさらに来週もう一度学びますが、罪を犯してしまった人間の腰を覆っているいちじくの葉っぱの代わりに、神様は動物の犠牲によって血を流して作った皮の衣を作って着せて下さっています。これは罪の裸のままでいる人間にたして、その罪を覆い隠してくれるキリストの贖いの衣を着せてくれることを意味しています。

このようにしてたとえ、罪を犯してしまっても、愛の神は決して耐えることなくわたしたちを呼び続けて下さっています。そしてイエス・キリストの十字架によって、神は天地創造と人間を最終的に完成させようとされているのです。独り子イエス・キリストの十字架の愛を通して、わたしたちに最後の安息をと祝福を与えようとされておられるのです。イエス・キリストの十字架に示された神の大きな愛を通して、わたしたちをもう一度、あの楽園へと招いて下さっているのです。

それは、人間が自分の意志で、神に向かって一歩進み出て来ることによってです。自分の罪を悔い改めて、神の前に立つことを願っておられるのです。それが天地創造の最終目的だったのです。この神の愛はエデンを追われた人間に向かって、今もなお、力強く注がれております。後はわたしたちが、この神様の「アダムよ、どこにいるのか。」呼びかけに対して答えるのを待っておられるのです。      

powered by Quick Homepage Maker 4.50
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional