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人間の本分 (コヘレト11:9~12:8)

メッセージ
2020年11月15日富里キリスト教会
「人間の本分」
(コヘレト11:9~12:8)

1.パンを水に流しなさい

先週は、「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見出すだろう。」(11:1)という御言葉を子供たちに語らせていただきましたが、本当に聖書の言葉はこの世の常識とは違うことが書かれているような気がします。大人でも子供でも、「え、どうして?!」と思うような言葉がたくさん載っています。「なんでそんな無駄なんことをするのだろうか?」「本当だろうか?」と首をかしげてしまいたくなることがあります。わたしもまだ解らない言葉があります。たとえば、3節の「南風に倒されても北風に倒されても、木はその倒れたところに横たわる。」これはどういう意味があるのでしょうか?なぞなぞみたいな言葉が聖書にはあちこちあります。

先ほどの1節の言葉も、どういうことだろう、どういうことだろうと、何十年も思いめぐらしながら過ごしているうちに、「あっ、そうだ、自分のことではないか。」と思い当たるようになりました。それは先週もお話しましたが、学生時代に、知らない教会の女性会から、毎月10ドル(当時のレイトで3600円)の送金を現金書留でしていただきました。お蔭様でそれで本を買ったり、ブレザーを一着買うことができました。そして4年間、何のお礼もしないまま過ごして、卒業してからそこの教会にお礼を兼ねて尋ねて行きました。

その時は自分が献身をするなど全く考えてもいませんでしたし、普通の大学生でした。神学生に奨学金を送るということはあり得るとしても、一般の学生に生活支援で教会からの奨学金があるでしょうか。宣教師の方か誰かが推薦して下さったのでしょうか?どなたが中心になって送って下さったのでしょうか?不思議な感謝な経験でした。そして後になって、自分が牧師になろうとして献身してみてから、このコヘレト11:1のみ言葉は、こう言うことなのかということが分かってきたのです。もし自分が牧師にならなければ、教会の女性会が奨学金を出しても、ある意味では無駄な献金になったかもしれません。

それでも、たとえこの学生が献身してもしなくても、献金をして生活をサポートしてゆく。無駄かもしれない、水の上にパンを投げるようなことかもしれないが、主を信じて、物惜しみせずに捧げ下さったのです。そうすれば、やがて「月日がたってから、あなたはそれを見出すであろう。」という言葉の通りに、やがてわたしが献身してバプテスト連盟の牧師になりました。そして伝道者として、日本中のあちこちに種まきをするという結果になったのです。

そして、その御言葉による信仰によって養われ生かされた学生として、やはりそれに応えて行く人生を送りたいものだと思っております。それが、そのあとの「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、分からないのだから。」(11:6)という御言葉だと思います。わたしは11:1のたとえで言うならば、自分はパンをいただいた水のようなものではないかと思っています。池の水かもしれません。ですから、受けた者として、今度は自分も福音の種を蒔き続けてゆきたいと思っています。たとえ水の上にパンを投げるような働きしかできなくても、伝道とはそういうものではないでしょうか。

しかも、朝にみ言葉の種を蒔くだけではなく、つまり若い時だけではなく、今こうして引退してゆこうとする人生の夜に差し掛かっていても、手を休めることなく、最後まで蒔き続けなさいということではないでしょうか。それが、見知らぬ教会の女性会に対する恩返しの人生ではないでしょうか。この11:1のみ言葉は、その時には分からないかもしれませんが、こうして年月が経って、教会生活をしてゆく中で、このみ言葉を実際に体験して理解してゆくことができるのです。今日の11:9からの若者に対する勧めの言葉も、この年になって初めて理解できるような気がします。そしてまた後半の老人に対する勧めの言葉も、今まさに自分のこととして受け止めることができるようになりました。

2.青春の光と影

「若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心に適う道を、目に映るところに従って行け。知っておくがよい、神はそれらすべてについて、お前を裁きの座に連れて行かれると。心から悩みを去り、肉体から苦しみを除け。若さも青春も空しい。青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』という年齢にならないうちに。太陽が闇に変わらないうちに、月や星の光がうせないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。」(11:9~12:2)

ここに青春の光と影について記されています。人は誰でも、青春のあの頃に戻りたい、希望と若さにあふれた人生、一番生き生きとしていたあの時代に戻りたいと思うかもしれません。しかし、果たしてそういう希望に輝く青春時代だったでしょうか。わたしの頃はちょうど、あの70年の安保闘争の時代でしたので、戦いの時代でした。自己否定をして革命に身を投じるという若者が後を絶ちませんでした。

わたしも学生YMCAに入っていましたので、70年代の学生運動にのめり込んでいったのです。「こんな時代にクリスチャンは、日曜日にただ礼拝しているだけでいいのか!みんなで礼拝しないで街に出てデモに参加しようではないか。」と扇動したりした時もありました。そうしましたら、大学教授の年配の婦人の方が、「岡田さん、わたしたちは戦時中、礼拝を守ったことで牢屋に入れられました。礼拝を止めるわけにはいきません。」と言われ、思わず振り上げたこぶしを降ろさざるを得なくなったのを覚えております。そういう命がけで、戦争中に礼拝を守った方々もおられました。

そういう社会と教会の動乱期に青春時代を過ごしたわたしでしたが、わたしにとって幸いだったのは、どんなことがあっても教会からは離れなかったことです。岩手県の山奥の小さな山村に、仲間と一緒にクリスマスのプレゼントを買い込んで、リュックに詰め込んで、汽車とバスを乗り継いて伝道に行ったこともありました。最後はバスがないので、徒歩でその部落まで行かなければなりませんでした。前日、学生さんたちがクリスマスに来るというので、子供たちがバス停まで何キロも歩いて迎えに行ってくれたという話を聞きました。でも一日遅れでついたものですから、子供たちがガッカリして帰って来たという話を後で聞きました。一軒の農家に二、三日泊まり込んで、部落中に一軒一軒尋ねてクリスマスの案内をして回るのです。そして子供クリスマス会を、いろりの煙で涙を流しながらやったのを覚えています。

でもその時には、そういう伝道の働きは、楽しいというよりは、むしろ苦行という気持ちでした。青春の光と影というよりは影の方が多かったような青春時代でした。若者の常で、若さに任せて自分を喜ばせ、楽しく過ごしたこともありましたが、その反面、それは神様の御心に反したこともありました。聖書では「若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心に適う道を、目に映るところに従って行け。」とあります。自由に自分の思いのまま、青春を謳歌して過ごすことを勧めています。しかし、たとえ若くても、自分がしたことについては、神様は最期には裁きの座に着かせると言っています。

ただ大事なことは、若いうちに、自分を創造されたお方、主なる神を覚えて歩みなさいと勧めています。それは若者の本分と言いますか、一番大切なことであるというのです。若いころのことを思い出すと、本当に恥ずかしい限りですが、わたしにとってはやはり、どんなことがあっても教会から離れなかったことです。日曜日の礼拝だけはどんなことがあっても守りましたので、激しい学生同士の衝突があってけが人が出た時も守られました。他の学生には悪いのですが、わたしは逮捕されることもありませんでした。そうこうしているうちに父が48歳の時にガンで亡くなったのです。残された母と弟3人を養うために、学生運動から身を引いて、就職の道を選ばざるを得なくなりました。

そして本当に、運よく県職員に採用されました。逮捕されていたら就職もおそらく無理だったでしょう。本当に神様の守りと導き以外考えられません。そういう動乱の時代でも神を忘れるな、造り主を覚えて生きなさい。イエス様を忘れないように、教会から離れないようにしなさい。コヘレトは、青春の日々にこそ、造り主なる神を覚えなさいと言っています。それは年をとってから、もう何の楽しみも喜びもないという、後悔の日々を送らなくてもいいようになるためですと勧めています。青春の光は瞬く間に、闇に変わる、人生の盛んな時は一瞬にすぎない、人はすぐに年をとって衰え、やがてその霊は神に帰り、肉体は塵に戻るのです。それは、あっという間の一息のような短い人生だからです。

3.塵は大地に帰り、霊は神に帰る

12:3から、やがて迎える老年期のわたしたちの姿が述べられています。いやもうすでにその年代にわたしたちは達しているのではないでしょうか。若さはいつまでも続きません。肉体的衰えは、誰に対しても必ずやって来ます。その現実をあなたがたは覚えなさいと、聖書は教えています。いくら財産を蓄えても、どんな権力や地位を手に入れても、人間には老化という厳しい現実が待っているのです。その老化という現実を踏まえて生きなさい。人間の限界、人生の空しさ、人間の死を十分に考慮したうえで、自分の生き方を定めなさい、これがコヘレトの戒めです。そして限界を知ったうえで、無駄な事でもいいから時がよくても悪くても、水にパンを浮かべるような働きを忠実に行いなさいと勧めています。

「その日には、家を守る男も震え、力ある男も身を屈める。粉ひく女の数は減って行き、失われ、窓から眺める女の目はかすむ。通りでは門が閉ざされ、粉ひく音はやむ。鳥の声に起き上がっても、歌の節は低くなる。人は高いところを恐れ、道にはおののきがある。アーモンドの花は咲き、いなごは重荷を負い、アビヨナは実をつける。人は永遠の家へ去り、泣き手は町を巡る。白金の糸は断たれ、黄金の鉢は砕ける。泉のほとりに壷は割れ、井戸車は砕けて落ちる。塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。何と空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい、と。」(12:3~8)

その日にはというのは、人は誰でも人生の黄昏、高齢期を迎えるその時が来るというのです。その時には、男たちも手が震え、腰をかがめ、女性たちも家事をする姿が見えなくなり、通りを歩く人々の賑わいもなくなるというのです。窓から通りを歩く人々の姿を、日長見て過ごすようになるというのです。去年亡くなった義理の父も、晩年は毎日家の前のベンチに座って、通りを行く人を見ている姿がよく見られたと、近所の人が言っていました。

そして高いところに昇るのが怖くなります。落ちてもあまり感覚がないまま、倒れてしまうような気がします。「人は高いところを恐れ、道にはおののきがある。」とあります。町を歩くのも、車の往来があって、危ないです。夜運転できない、免許証の返納が始まります。時々運転していますと、昔の道路のつもりで、堂々と道路を横切る年配の方を見ます。道路は渡れるという昔の記憶が残っているのですね。誰でもやがてそういう時が来ます。

アーモンドは白い花が咲きますから、頭の髪の毛も白くなる、勢いのあったいなごも重荷を負うように、腰が曲がってくるというのです。アビヨナというのは、強精剤のような効果がある植物ですので、そういうサプリメントを飲んで元気をつけるようになるということでしょうか。そして町には葬儀が多くなってきて、葬儀の時に遺族のために泣くことを商売としている泣き女が、町に多くなるというのです。白金の糸が切れたり、鉢が砕けたり、壷が割れたり、井戸の滑車が砕かれて井戸の中に落ちてしまうということが起こります。死が訪れるということです。

このようにして人間も器である身体が壊れるようにして、息絶えて生涯を閉じる人がでてきます。もともと土から造られた人間は、このようにして朽ちて地面に帰って行き、器である肉体の内側にある霊は、死ぬと同時に、与えて下さった神のもとに帰って行くのです。これが人間の最後であり、どんなに若くても元気があっても、やがては皆このような運命をたどって行くのだと伝道者コヘレトは言っています。

ここで一体伝道者は何を訴えようとしているのでしょうか。それは若い時も老齢の時も、あっという間に過ぎ去るということです。そして人間の一生は、光陰矢の如しですから、あなたがたの短い人生をしっかり見極めなさい、自分の人生の最後を見定めたうえで生活しなさいと教えています。いつまでもこの世のことで思い煩い、あくせくして命を無駄に使い、人生を空しく生きてはならないということを教えようとしているのではないでしょうか。

所詮、人は「裸で母の体を出て、裸でそこに帰るしかないのだ。」(ヨブ2:21)ということです。このようにコヘレト以外にも、息を与えて生んで下さるのも神、息を引き取らせて塵に帰すのも神だとヨブは言っています。詩編の記者も、わたしたちの「人生はため息のように消え失せます。人生の年月は70年ほどのものです。健やかな人が80年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。・・・ですから主よ、生涯の日を正しく数えることができるように教えてください。」(詩編90:9~12)と詩編の記者は祈っています。

ですから若者の本分は、そして老人の本分も、まずは神を知ること、自分を造り生んで下さった創造主なる神を心に留めることです。そしてやがて帰るべきところを見定めなさいと言っています。「霊は与え主である神に帰る」と言っていますから、そのお方をもっと深く知り、その方を畏れ、そのお方のみ言葉を味わい、その方の御言葉に生きることではないでしょうか。それは今です。死んでから行くのではなく、今わたしたちはこの伝道者の言葉から、自分たちの空しい人生を悟り、やがて帰るべきお方を知り、その方を心に留めることです。これが人間の本分です。そして神さは、初めから人間をそのようの造られたのです。

神を知り、神を覚え、神を礼拝する存在として創造されたのです。その方を知ることなしには、人間の人生はどんなに事をしても空しいのです。ある人は言いました、人間は、ジグゾウパズルのようなものである。最後のワンピースが、ひたっとはまらなければ、完成されないのだと。それはわたしたちの心の真ん中にある十字架のワンピースです。この最後のピースがパズルの真ん中に入らなければ、人間は完成されないのだと。それが当てはまるまで、人間は空しさの中に生き、満たされない人生を生きなければならないのだと。

この最後の一枚、これを知ること、これを手に入れること、それこそが人間の本分であり、この地上に生を受けたことの意義なのです。この生ける永遠の主なる神様お一人以外は、一切は空しいのです。その方を心に刻んで、パンを水に浮かべて流すような、一見無駄と思えるような伝道の働きを、喜んでしなさいと勧めているのです。イエス・キリスト以外は、空の空、無の無なのです。伝道者はその最後のワンピースである、イエス・キリストの御名を人々に宣べ伝えているのです。年をとる前に、何の喜びも楽しみもないという日々が来る前に、また今、来ている人でも、今日、今という時にこの造り主なる主を覚え、心の中に受け入れてゆきましょう。(岡田 久)

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