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人を赦せない心 (マタイ18:15~22)

メッセージ

2015年7月5日富里キリスト教会

「人を赦せない心」
(マタイ18:15~22)

1.自分の罪に気づいていますか

まず最初に、そもそも「自分の罪に気づいていますか」ということを自問してみたいと思います。相手の欠点ばかりが目について、気に入らない、イライラすると思っていませんか。先日、坂井姉が、「わたしは初めて『自分の罪』ということを教えられました。」と賛美の時に証しをしてくださいました。マタイ5:23を見て下さい。「だから、あなたがたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」(マタイ5:23)とあります。

つまり同じクリスチャン仲間の誰かが、自分に対して反感を持っているということを思い出して気が付いたなら、礼拝の途中でもいいから、すぐに賛美や祈りや礼拝を止めて、まず先にその人のところに行って仲直りし、和解をしてきてから礼拝を献げなさいというのです。そうでなければ、あなたの献げている礼拝も祈りも賛美も何の意味がないというのです。なぜなら、礼拝は神と人の和解、しかも神様の一方的な赦しの恵みを受けて、神様に賛美の供え物を献げることですから。「わたしたちに罪を犯した者を、わたしたちが赦しますから、神様、わたしの罪をも赦してください。」というのが礼拝です。

どうですか、皆さん、今は礼拝中ですが、誰かに恨みを買われるようなことをした覚えはないですか。自分が誰か他の人に恨みを持っているとか、反感を持っているというのではなく、相手が自分の態度かと言葉につまずくとか、カチンと来ているとか、反感を持たせてしまったということです。もし、そのようなことに気が付いたら、まず先に礼拝が終わってからではなく、礼拝の途中でもいいから、その人のところに先に行って謝って来なさい。そして仲直りして来てから礼拝を献げなさいというのです。もしそうでなければ、兄弟に反感を持たせたままで、兄弟に恨みを持たせたままでは、あなたの礼拝は無駄です、意味がないというのです。

礼拝というのは神様の前にわたしの罪を赦してくださいというのが礼拝の中心です。罪の告白が中心です。今日も主の晩餐式があります。イエス様が私の罪を赦してくださったことを感謝して行うものです。イエス様の赦しの血を飲み、肉を食べる時です。このイエス様のパン(御言葉)とぶどう酒(十字架の贖いの血)が、わたしたちの罪をことごと如く赦してくださったことを思い出す時です。そして自分も悔い改める時です。そういう気持ちで主の晩餐式に与からなければ、あなたがたはイエス様に対して罪を犯すことになります。(ここでⅠコリント11:29~31を全員で声に出して読む。)ですから自分の罪を悔い改めなければなりません。わたしたちの体は主のものであり、キリストの貴重な血によって贖い取られたものです。自分の罪を、自分の非を思い出したら、まずその人のところに行って、「ごめんなさい。わたしが悪かった。赦してください。」と仲直りしてから、礼拝しなさいとイエス様は言っております。

2.人を赦すとは

これは自分が兄弟姉妹に対して罪を犯した場合ですが、次に他の兄弟姉妹が自分に対して罪を犯した場合にどうするのかということについて考えてみたいと思います。自分を傷つけた家族を赦しているか、自分を傷つけた、あるいは裏切った親しい友人を赦しているか、誰か自分を傷つけた他人を赦しているか、そして社会制度を赦しているか、職場の組織を赦しているか、あるいは敵とみなされている国家を赦しているか、そして神御自身を赦しているか、そして自分自身を赦しているか、と赦すべき対象者はさまざまあります。

聖書では主に、兄弟となっていますが、赦しはわたしたちの日常生活の中に、そして人間関係の中に出てまいります。今日の聖書箇所のマタイ18:15から読んでみましょう。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、言って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、他に一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」
(マタイ18:15~16)

もし教会で、誰か兄弟姉妹が、あなたに対して罪を犯したなら、まず一対一で忠告しなさいと言っています。その方が、自分の非について気が付きやすいですし、一対一ですと謝りやすいです。相手に恥をかかせないためにも、秘密の内にお互いに仲直りができます。しかし、それでも相手が自分の非を認めない時には、二、三人の証人を連れて行って、事実関係を確かめながら、相手の謝罪を持つことができます。自分の一方的な思い込みとか、勘違いもありますので、証人を立てることが必要です。

それでも相手が自分を正しいとして、非を認めず謝罪も和解もしない時には、最終的には教会に申し出て、教会全体の中で事柄を明らかにして、教会の判断に委ねるとこです。もし教会が、「兄弟、あなたは明らかに間違っている。謝罪して和解しなさい。」と勧告したにもかかわらず、それに応じて謝罪しない場合には交わりを断ちなさいと教えています。もう兄弟姉妹とみなさずに、関係を断つということです。異邦人や徴税人のように、神に関係ない人だと見なして関わらないということです。

これを見て気が付くことは、人を赦すということは、ちゃんとその人の罪、過ち、非を認めさせるということでもあります。できれば一対一で、そうすれば相手も、自分の非に気が付きやすいしお詫びをしやすいものです。赦すということは決して、日本人がよくいうように「水に流す」とか「気にしない」とか「忘れる」いうことではないのです。いったん受けた傷は、しっかりと心のどこかに傷口を出したまま、手当されずに残っています。ですから、また誰かがその傷に触れますと、感情が逆情して来てパニックになってしまいます。痛みを持ったままなのです。爆弾を抱えたままですので、それを踏んづけてしまうと爆発していわゆる逆切れしてしまいます。

ですからまず、相手の兄弟の罪を明らかにするということが第一歩です。そして忠告です。人を赦すということは、罪を犯した相手の行為を、「水に流す」とか「忘れる」とか「なかったことにする」ということではないのです。そうではなく、その罪を明確にすることです。少し語弊がありますが、それを責めることです。忠告することです。はっきりさせることです。これが赦すための第一歩なのです。そして、そのことで相手は自分の非を認めて仲直りができたら、あなたはその兄弟を罪から解放したことになるのです。これが「兄弟を得た」ということです。自分に対して罪を犯した兄弟を、罪から救い出したということなのです。赦さないままで置くということは、その人を罪に定めることになりますし、自分自身も神に背くものになるからです。

また罪をそのままにして水に流したら、逆にあなたはその兄弟を失ってしまったということになります。何事も無かったようにして、その兄弟を地獄の火の中に送り込んでしまうよりは、嫌われてもいいから非難して注意して叱った方がいいのではないでしょうか。ドイツ語で「赦す」ことをVerzeihenといいます、これは「Ver」は意味を強める接頭語です。そして「zeihen」は、「責める」とか「咎める」という意味があるのです。ですからドイツ語の「赦す」という言葉の本当の意味は、「相手を強く責める、とがめる」ことが赦すという本当の意味だということになります。

3.心から兄弟を赦す

この「赦し」についての主イエスの話を聞いていたペテロがこう言いました。「『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。』」(18:21~22)わたしたちも頑張って三回までは赦すことができるかもしれません。でも四回となったら、もう赦さなくてもいいと思うでしょう。でもイエス様は、七回どころか七を七十倍するまで赦しなさいと言いました。ということは永遠に赦しなさい、どこまでも赦しなさいと言っているのではないでしょうか。たった一人の一回の過ちさえ赦すのに、悩み苦しんでいるわたし達です。それを7×70=490回赦すということは、気が遠くなるような話です。

でも聖書の教えは、「我らに罪を犯す者を、我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ。もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」(マタイ6:12、14~15)「だれかが、あなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたの下着をとろうとする者には、上着をも取らせなさい。」(マタイ5:39~40)徹底的に人の罪、過ちを赦しなさいというのが聖書の教えです。それは罪を水に流すということではなく、罪を罪として明確に事実を明らかにしたうえで、聖書の教えに故に、わたしはあなたを赦しますと宣言することではないでしょうか。

わたしたちクリスチャンが、どうしてここまでして人を赦さなければならないのでしょうか。それは、イエス様がわたしたちの罪をどこまでも赦してくださっているからです。七を七十倍する以上に、無条件で、490回以上も、どこまでも赦してくださっているからなのです。聖書の教えも、キリスト教の中心テーマも、神の愛と罪の赦しです。神様はわたしたちの罪を、御子イエス・キリストを十字架につけるほど愛して赦してくださいました。わたしたちは罪赦されたものです。クリスチャンという言葉は、キリストによって罪赦されたものという意味です。今もなおです。バプテスマを受けてからも何度も罪を犯しては、イエス様の御心を悲しませてきました。それでも主はわたしたちの罪をぬぐい去って下さっているのです。拭っても拭っても取れない、そういうしつこい罪の汚れやしみをイエス様は汗水を流してこすって下さる、これが「罪を拭い取る」ということです。何度も何度もです。それだけ私たちの罪が大きいのです。でもそれだけイエス様が一生懸命汗水流して、腰に手拭いを巻いて一生懸命拭い取っていて下さるのです。

そのイエス様の血による罪の贖いをいただいているわたしたちが、どうして自分に泥をつけた人の罪を赦すことができないでしょうか。クリスチャンとは罪赦されたものという意味です。そしてこの世に罪を赦されたものとして、人々の罪をも愛をもって赦して行くものとして遣わされたものなのです。もしわたしたちが、どうしても自分に対して罪を犯した者を赦せないなら、それは神に排する反逆だとさえ聖書は言っています。いつまでも人を赦さないなら、その人は過去に縛られ、過去の暗闇にいつも引きずられ、現在を生きることができません。いつも過去に縛られているからです。その結果、未来まで閉ざしてしまうのです。

時間がかかってもいいですから、相手を赦すまで、じっくりと静まって聖書を読み、神様と語り合って下さい。旧約聖書のヤコブもモーセも、自分を傷つけた人と和解を果たすまで、40年間もかかりました。ヨブという人は、自分の不幸を嘆いて、長い人生をかけて、神を赦せず神と論争しました。彼は、最終的に神と出会い、神と和解するまで、その生涯の大半をかけたのです。神様の大きな愛と無限の赦しに出会うまで、時間がかかるかもしれませんが、人を赦せないことを神に問いかけることが信仰生活です。必ず主は、大いなる赦しと愛をもって出会って下さいます。赦しによって、傷つけられた人だけでなく加害者も、過去の束縛から解放して自由にしてくれます。そして希望の未来が開かれて来るのです。

「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(マタイ18:35)とおっしゃいました。心から赦すということです。時間がかかるかもしれませんが、愛をもってはっきりと相手の罪を明らかにしつつ、罪を指摘しつつ、主の十字架の愛をもって赦して行くものとなりたいと願っています。  

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