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人を恐れず、神を恐れる信仰者として (マタイ10:26~31)

メッセージ
2021/2/7
富里キリスト教会礼拝説教
「人を恐れず、神を恐れる信仰者として」
(マタイ10:26〜31)

①信教の自由を守る日
本日の礼拝は、多くの日本の教会が共通する一つのテーマを覚えて礼拝をしていることと思います。そのテーマとは「信教の自由」についてです。今週の2月11日は法律上は建国記念の日という名前で祝日となっていますが、私たち日本のキリスト者はこの日をあえて「信教の自由を守る日」と呼んでおります。
元々この日は、1873年、日本の初代天皇(神武天皇)が即位した日「紀元節」として、この日が祝日に定められましたが戦後すぐ、その祝日はGHQによって廃止されることとなりました。天皇を神と教え、日本の国民を戦争へと駆り立てた原動力である"国家神道"を徹底的に排除することを目指したためです。しかしその後、その復活に対して賛否両論がある中、1966年、「建国記念の日」とする法が成立します。
そして、キリスト教界はこの出来事に非常に危機感を覚え、この日を信教の自由を守る日として、各地で集会を開くようになったのです。なぜ、日本の教会がこのようにある意味、過敏とも思われるような反応をするのかといいますと、それは戦前から戦中、天皇制によって信仰が弾圧されてきたといった歴史的な経緯があるからです。そう言った時代に、信仰を表明し、戦ってきた人たちがいました。
内村鑑三というクリスチャンの不敬事件というものはその当時の状況を端的に表しているでしょう。1891年、講堂で挙行され、教育勅語奉読式において、教員と生徒は順番に教育勅語の前に進み出て、明治天皇の親筆の署名に対して最敬礼をすることが求められました。しかし教師だった内村は最敬礼をせずに降壇しました。このことが同僚・生徒などによって非難され社会問題化し、それは不敬事件と呼ばれました。 敬礼と信仰は別問題だ。そのように非難され、最終的に内村は教師を辞することになりました。彼にとってはきっと明治天皇を拝むような行為は自分の信仰に関わる事柄だったのでしょう。しかし、その尊重されるべき個人の信仰のあり方を純粋に守ることが難しい時代が、かつてあった。そういうことです。
他方で、逆にそのような空気に呼応するように、神社参拝や天皇を崇敬すること、戦争賛成することは信仰とは関係ないというようになっていった教会もありました。実はそちらの方が多数派です。日本の教会は、権力や世間の目を恐れ妥協してしまった。そういった歴史があります。私たちはこの事実を真摯に受け止め、反省とともに、2度とそのような時代がこないようにと声を上げていくことが求められています。
なぜなら、信仰を告白する、または告白しないということは私たちの魂に関わる非常に大切な事柄だからです。十戒の第一戒に関わる重要なことです。この信教の自由の日について取り上げることを、教会が政治的なことを取り上げるなと批判する人たちがいますが、そうではありません。これは私たちの信仰に関わる非常に大切な事柄なのです。
2度とかつてのような信教の自由が脅かされるような社会にならないように。また、2度と妥協して、恐れによって信仰を捨てることなく、どんな時でも信仰を告白できるように。この2つを決意表明すること。それが、信教の自由の日を覚えるということです。
では、私たちがその信仰を守っていく。そのための鍵とはなんでしょうか。そのキーワードは「恐れ」です。恐れが信仰を弱らせ、しかし他方、恐れが信仰を揺るがないものともします。何を恐れて何を恐れないのか。大切なのは恐れの対象が何であるかです。ここを抑えることが、どのような時代にあっても信仰者として生きていくということを助け、支えてくれるように思います。とても大切なポイントです。

②人を恐れるな
マタイ10:16
「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。」

今日の聖書箇所は、宣教に派遣される弟子たちに、お前たちは迫害されるが最後まで耐え忍べば救われる。そういった文脈の中でイエス様が語られた言葉です。その迫害に対してどのようにして向き合えば良いのか。イエス様は恐れることと恐れないことによってその苦難を超えるようにと語られました。今日の箇所では、3回の「恐れるな」という言葉と1回の「恐れよ」という言葉がでてきます。何を対象しているか見ていきますとそれは、人々を恐れるな。そして、神を恐れよということでした。そして、ここではそれぞれに対して恐れる理由、恐れない理由が語られています。一つ一つその理由を追っていきましょう。ではまず、人々を恐れてはならない理由について見てまいりましょう。
「覆われているものは、必ず明るみにさらされる」これが、人間を恐れなくてよい一つ目の理由です。どんなに光を遮ろうとしたとしても真理は、必ず明らかにされます。真理は必ず勝利するのです。迫害する者も迫害される者も最後には、必ず神のみ前で全てが明らかにされます。隠していた罪が暴かれ、必ず申し開きをしなくてはならないのです。どれだけ不条理な世の中だったとしても最後には必ず神様の公正な裁きがくだされるのです。
悪は必ず地獄に落ちる。それはそうなのですが、そういうことを主張したいのではありません。慰めがあるということを言いたいのです。神の公正なさばきがあるということは、私たちの信仰に応じて神様は必ず報いてくださるということです。どんなに辛くても、大丈夫だよということです。神様はちゃんと見ておられます。
そして神を信頼して踏みとどまった信仰は必ず、いつか日の目を見ます。皆さんは「東洋の奇跡」と呼ばれている出来事を知っているでしょうか?日本はかつて江戸時代、キリスト教は禁教となり、弾圧され、キリスト教徒は迫害されました。その徹底ぶりはすさまじく、日本のキリスト者は根絶やしにされたと思われていました。しかし、幕末、日本は開国とともに海外から再び、宣教師が送られることとなり、長崎ではカトリックによる大浦天主堂という教会が建てられました。
建立まもない天主堂は「フランス寺」と呼ばれ、美しさと物珍しさから付近の住民たちが多数見物に訪れていました。そんな中で、来日していた神父には「今でも何処かでカトリック教徒が密かに信仰を伝えているのではないか」という僅かな期待があったそうです。
そして1865年のある時、住民十数名が天主堂を訪れました。そのうちの女性がひとり、祈っていた神父に近づき、なんと「私どもは神父様と同じ心であります」と囁き、自分たちがカトリック教徒であることを告白したのです。
彼らは聖母像があること、神父が独身であることから間違いなくカトリックの教会であると確信し、自分たちが迫害に耐えながらキリスト教信仰を代々守り続けてきたいわゆる隠れキリシタンである事実を話し、神父は大変そのことを喜びました。
その後、神父は密かに布教を兼ねて隠れた信者の発見に努めました。すると驚くことに長崎周辺の各地で多くのカトリック教徒が秘密裏に信仰を守り続けていたことがわかり、その数は最終的にはなんと一万人以上にまでなりました。この「信徒発見」のニュースを当時の教皇は大変感激して、これを「東洋の奇蹟」と呼んだといいます。
250年もの間、彼らは信仰を守り、耐え続けてきたのです。暗闇の250年を耐え続けた彼らとともに主はおられました。光は覆われようとも完全には消えず、その希望の光は必ずや明るみにでるのです。福音はこういった多くの迫害と殉教を超えて、今の私たちまで届き、そして今日の教会があるのです。
次に、人を恐れずともよい2つめの理由を見ていきましょう。それは人間は、体を殺すことはできても魂を殺すことはできないということです。体が殺されるのなら、それが全てじゃないか。十分怖いだろ。そう思う人も多くいることでしょう。人はこの世の目に見えるものが全てだと思いがちです。しかし、そうではありません。人は目に見える部分でしか人を縛ることができません。
あるドラマで一人のクリスチャンが特高警察に捕まった時、彼は「いくら私の体を縛ったとしても私の心まで縛ることはできない」という言葉を恐れず放った場面がありました。そのとおりです。人は目に見えない、心、魂を支配することはできません。たとえ体が殺されたとしても、魂は神の御手のうちにあるのです。どんな迫害や苦しみや恐怖も私たちの魂を神様から引き離すことはできないのです。

ローマ8:38〜39
「私は確信しています。死も命も、天使も、支配するものも、現在のものも未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛からわたしたちを引き離すことはできないのです。」

ただ、感謝なことに現代の日本では、信仰を告白するということで命の危険にさらされることは基本的にありません。しかし、この現代においても実はあらゆる恐れというものは存在しています。それは、権力や世間の目、時に家族から出てくることもあります。日本においてクリスチャンは圧倒的マイノリティです。そんな私たちにむけて、同調圧力というものがかかることがあります。クリスチャンはこの世と平和を保ちつつ信仰を守っていくことを基本的には是としています。しかし、それでも時にクリスチャンゆえにどうしても一線を引かなければならない場面もでてきます。そのような時に、周囲から理解されず、浮いてしまうことがあります。そして、ときに見えないプレッシャーのようなものを感じることがあります。日本人はこの同調圧力というものがとても強いと言われています。みんな同じじゃないとどこか不満を覚えてしまうのです。これは実は教会の中でも起こりうることでもあります。
そういったプレッシャーを受け、世間から浮きたくない、自分の信仰を否定されたくない、変な人と思われたくない。そういった恐れをもち、それゆえ、自らの信仰をあまり公にはしないという人も日本人には多いと聞きます。もちろん、いつでもどこでもクリスチャンを主張しろということではありません。TPOも大事です。時と場合ということも配慮する柔軟性も必要でしょう。しかし、自分がどう思われるかということを恐れて黙ってしまうということはとても悲しいことでしょう。イエス様は、あなたの信仰を密かにするのではなく明るみに出しなさいと言います。だってそれはあなたの喜びなのでしょう?そういうことだと思います。
そして、そういった人々を恐れる必要はありません。世間から浮いても、否定されても、たとえ嫌がらせされたとしても、それらのことは私たちの人生に大きく影響を与えることはありません。ましてや私たちの魂に関しては全く関係がありません。確かに辛かったり、悲しいこともあるかもしれません。しかし、恐れるべきは体を殺しても魂は殺せない人間ではなく、魂も体も、全てを生かすことも滅ぼすこともおできになる全知全能なる主なる神様なのです。

③神を恐れて人を恐れるな
イエス様は人を恐れるのではなく、神を恐れよと言われます。人の力には限りがある。しかし、神はあなたの全てを握っている。その神様だけを恐れなさいと言われるのです。これは、単純に神様への恐怖に支配されて、従えということではないでしょう。全てを治めておられる神を恐れることによってこそ不必要な恐れから解放されるのです。
この世のものは恐れで私たちを縛ろうとします。しかし、最も恐るべき神さまは私たちをその恐れで縛ったりはしないのです。むしろ愛によって、その恐れから解放してくださるのです。神への信頼によって恐れは解かれるのです。人を恐れるなという言葉は、私がいるのだからだから大丈夫だ。人を恐れる必要はないのだ。私を信頼しなさいということではないでしょうか。
そして、その恐るべき神様を信頼するためにも私たちは、その主がどのようなお方なのかということを知る必要があるでしょう。

マタイ10:29−31
「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、池に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

雀のような小さな存在にすら、神様は心を配られているのです。私たちの髪の毛一本一本まで数えられているのです。たとえ我が子がどんなに愛しかろうとも髪の毛の数を数えるような親はいないでしょう。それほど神様は私たちのことに気をかけてくださっているのです。そして、主は私たち人間を雀よりもよっぽど価値があるといってくださるのです。わたしの目に高価で尊いといってくださるのです。そんな神様が私たちに用意しておられるものは最善なのです。だから恐れる必要はないと言われるのです。
生きていく中で苦しく、悲しいこともあるでしょう。しかし、その中には必ずあなたに用意された神の恵みがあるはずです。また、人によっては早くして死を迎えるということもあります。しかし、肉体の死とは全ての人間がいずれは必ず迎えるものです。人はこの死を恐れます。しかし、主はその死を超えたその先にある最も素晴らしいものを最後には用意してくださっているのです。そこには痛みも苦しみもなく、今まで辛かった全ての涙を主は拭い去り、永遠の平安を与えてくださるのです。恐れなくて良いのです。

④信仰を告白する者として生きる
魂も体も人間の全てを治めておられる、恐るべき神様こそが私たちを最も愛し、私たちに気をかけてくださり、最善を備えてくださっているのです。私たちはこの神さまのみを恐れ、信頼し、権力、人の目といったものを恐れずに救い主は主イエス・キリストであると信仰を告白していこうではありませんか。
この現代の日本において、私たちが今、信仰を告白できているのは多くの迫害、殉教を超えてきた信仰者、教会によって成り立っています。私たちが今、信仰を告白し、その自由が守られるべきであると社会、国家に宣言することによって次世代の信仰も守られていくのです。信教の自由を守るということは信仰のバトンを繋いでいくということなのです。
私たちの信仰は誰にも奪うことはできません。しかし、だからこそ、この私たちの魂に関わる信仰が守られるように。2度とかつてのような信教の自由が脅かされるような社会にならないように。また、2度と妥協して、恐れによって信仰を捨ててしまわないように。どんな時でも信仰を告白できるようにと決意をしたいと願います。
最後にその決意と共に一つのことに心を留めたいと思います。それは、恐れによって倒れていってしまった者を責めないということです。決して断罪しないようにしたいと願います。人は弱い者です。決して妥協はすまい。そういった決意を持ちつつも、いざとなれば私自身もその弱さに倒れてしまうかもしれない。そういった感覚を持つことはとても大切なように思います。
信仰を公に言い表すということは救いに関わる重要なことです。今日の箇所の後の32、33節においてイエス様は、人々の前で自分はイエスの仲間であると言い表すものは天の父の前で私の仲間であると言い表すが、逆に人々に知らないというものは天の父の前で私も知らないというとはっきり言われました。この言葉は重く受け止めなければなりません。
しかし、主イエスはそう言われながらも恐れによってイエスを3度も知らないといったペテロに対してご自身から手を差し伸べられました。自分の弱さに倒れつつもその自分の弱さを認め、涙し、心から悔い改める者を主は憐れんでもくださるのです。大切なことは倒れても、神のみ前に悔い改め、再びやり直すことなのです。私たちの体も魂も全てをご支配されている主なる神様を恐れつつもその主はだれよりも憐れみ深いお方である。そのように信頼しつつ、その主への信仰を公に告白して、主よ、あなたの恵みによって私の信仰をお守りくださいと祈り求めつつ、主を見上げて生きてまいりましょう。

武井誠司

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