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人の罪から守る神への恐れ (出エジプト1:15~2:10)

メッセージ
2020/08/09
富里キリスト教会礼拝説教
「人の罪から守る神への恐れ」
(出エジプト1:15〜2:10)

①前回とのつながりーさらに増す王の悪
先週は、出エジプト記の冒頭から共に恵みを受けました。ヤコブの家族がカナンの地からエジプトまで来て、そこで神様の祝福を大いに受け、小さな家族が一つの民族イスラエルとまでなりました。アブラハムから続く約束を神さまは誠実をもってなしてくださったのでした。しかし、その祝福をそばで見ていた、ヨセフのことを知らない新しいエジプト王はその祝福のイスラエルを妬み、身近な脅威の存在として恐れ、彼らを奴隷として強制労働させ、その力を弱めようとしました。自分たちの富、権利を奪われないようにするために、エジプト王は容赦無く、当たり前のようにイスラエルの民の全てを奪ったのでした。
ヨセフを知らない王とは、つまりヨセフを通してエジプトに祝福を与えた神の存在を知らない王、神を恐れることを知らない王ということです。神を恐れない為政者の政治は、愛と憐れみが失われ、逆に悪が生まれ、その悪はとどまることを知らずブレーキが全く効かずエスカレートしていきます。しかし、そのような人間の欲望に満ちた浅はかな計画は、神のみわざによってもろくも崩されます。イスラエルの民は、エジプト人が虐待をすればするほど、増え広がっていったのでした。ここまでが先週の話でした。
さて、ではここから話はどのように展開していくでしょうか。王は、諦めたでしょうか。悔い改めたでしょうか。いいえ、とんでもない。エジプト王は意地になり、より頑なになっていきます。そして、彼は、とんでもない残虐な、常軌を逸した方法でイスラエルの民の力を弱めようとします。それは、イスラエルの民の出産の時に生まれた男の子を密かに殺すという方法でした。敵の一族を根絶やしにするために男児を殺すというケースは歴史的にみて、ままある話です。
日本でも戦国の世の時代は、戦に負けた大名の後継になる可能性のある男児は大概皆殺しにされました。女の子は大丈夫なんですね。女児は大きくなったら大体支配した側の家に嫁いでいき、吸収されてしまうからでした。力がモノを言う男性中心の世界です。今の私たちの価値観からすると、違和感を感じるかもしれませんが良くも悪くもそういう時代だった。そういう認識が必要でしょう。
つまり、エジプト王は、イスラエルの子孫をつないでいく男性を消していき、女性はエジプト人と結婚、いわゆる雑婚をさせ、民族ごと吸収しようとしたわけです。エジプト王は、当初のイスラエルの力を弱めるという目的から、もはや民族抹殺という域までエスカレートしていったのでした。神を恐れない者の罪、悪はとどまることを知らず、どこまでも暴走していくのです。

②人の罪を止める神への恐れ
この残虐な命令を受け、責任を担ったのは二人の助産婦シフラとプアでした。この二人の女性にイスラエルの運命はかかっていました。男児だけとはいえ、生まれたばかりの赤子を殺せという命令。どの世界、価値観からみてもこの命令は間違っています。赤子が殺されるということが正当化されることはないでしょう。誰に教えられるわけでなくとも基本的にほとんどの人がそのことは不思議と理解しますし、その命令に抵抗、嫌悪感を覚えるでしょう。それが罪によって著しく損傷されながらも、神のかたちとして造られた私たちに与えられている神の良心なのです。
この罪が溢れた世界において、私たちはこの良心とそれに抵抗してくる悪、罪との板挟みとなり苦しむことがままあります。サタンが人の罪、弱さにつけこんで、恐怖を煽ってくるのです。間違っているとわかっていながらも、逆らったら自分の身が危ないのでは。でも、間違っているとわかっていながらそれに手を染めるのも心に抵抗を覚える。ジレンマが起こり、人はこの板挟みに苦しんでしまいます。そして、その恐怖に負けてしまう。それどころか初めから平気でその悪に手を染めてしまう人すらいます。世の中ってのはこんなもんだ。長いものには巻かれておいてほうがいいんだ。そのように自分に言い聞かせて納得してしまう。悲しいかな、そのような現実があることを認めざるをえません。
しかしこのシフラとプアはそのようにはなりませんでした。なぜでしょうか?それは、この二人の助産婦はこの世の王ではなく、全てを治め、公正で悪を憎む、しかしそれでありながら慈愛と憐れみに満ちた全知全能の神様、まことの王を恐れていたからです。それゆえ彼女たちは良心とこの世の権威への恐怖の板挟みとなりませんでした。神への恐れは、ネガティヴな効果としては罪を抑制し、ポジティブな効果としては正しい良心に従った勇気ある行動を生み出すのです。

箴言16:6
「慈しみとまことは罪を贖う。主を恐れれば悪を避けることができる。」

逆に、神さまを恐れるからこそ他のすべてのものが怖くなくなる。そういった一面があります。神への恐れが周りへの恐れ、不安を消し、罪から守ってくださるのです。そして神様は、その与えられた良心に従い、悪から離れるというみここころにかなった選択をした時、必ずこの世の権威や圧力からも守ってくださります。その神への信頼が私たちをこの世の恐怖から解放してくださるのです。神への恐れは神への信頼とも言えるのではないでしょうか。
このシフラとプアも神様のことを完全に信頼し、悪に手を染めませんでした。そして、結果的にやはり神様は力強い御手で守ってくださいました。助産婦がいく前に彼女たちは丈夫なので先に生んでしまうのだという理由、知恵があたえられたのです。噓も方便かもしれませんが、きっと全てのケースではないにしても実際にこのようなことが起こったのではないでしょうか。そして、彼女たちは守られ、神様から大いに祝福されました。王に問い詰められ、一時的な圧迫は受けたかもしれませんが、最終的には神の守り、祝福がそこにはあったのです。私たちも彼女たちのように主を恐れつつ、その主の守りを信頼し、神が与えられた良心に従っていきたいものです。

③人の罪が神の救いの計画へと
しかしエジプト王は、さらに頑な、意固地になり、とうとう強硬手段、生まれた男の子はみんなナイル川に放り込めという残虐極まりない命令を出します。しかし、このエジプト王の悪の命令からとんでもない奇跡が生まれてきます。なんと、ここから神さまの救いが始まっていくのです。
レビ族の夫婦から一人の男の子が生まれました。その子がのちの出エジプトのリーダー、モーセでした。母親はそのかわいさあまり隠したとあります。しかし、これはただ親の情だけの話ではないように思います。ヘブル11:23にはこの出来事に対して

「信仰によってモーセは生まれてから3ヶ月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。」

と、あります。王の命令を恐れなかった。それは、裏を返せば神を恐れていたということです。先ほども言ったように神を恐れるものは、それ以外のものを恐れなくなります。その子の美しさを見て神を恐れた、つまりその目を見張る美しさになにか神様のご計画を母親は見出したのかもしれません。そうでなければ、このような王に逆らう危険なことはできないのではないでしょうか。まことに人は神を恐れることによって、それ以外の恐れから解放されていくのです。
しかし、神を恐れて、エジプト王を恐れなかったモーセの母親は3ヶ月モーセを隠しましたが、それも限界がやってきました。大ピンチです。そこで彼女は大胆な行動に出ます。それは、モーセをカゴに入れてナイル川の茂みに置くということでした。神への恐れは神への信頼ともいいました。神を恐れるものは絶望しません。彼女は、絶望してモーセを自らの手で殺したり、心中するなど自暴自棄な行動には出ませんでした。いちるの希望を託し、モーセをナイルに放しました。文字どおり手放したのです。きっと神様がこの子を守ってくれる。彼女は神様を信頼して完全に明け渡したのです。
そして神様は、その信頼に必ず応えてくださるお方です。全く信じられない展開へと物語は進んでいきます。そのモーセが置かれたナイル河畔にファラオの娘が来て、モーセを見つけ、憐れみ、助けたのです。悪に満ちた巣窟にも必ず良心を持った人がいるということです。悪人ばかりではありません。罪ある世界に悲しみを覚えることが多いですが、しかし、神のかたちとして造られた人間の温かさ、優しさというものもまた、あるんだ。そういうことも心に留めたいと思います。そして、その心には必ず神様が介入してくださっているのです。
ファラオの悪が、イスラエル人であるモーセをナイル川に流させ、結果、実の娘がそのイスラエル人を我が子として宮殿で育てることとなった。そして、モーセは宮殿で最高の学問を身につけ、成長し、最終的には出エジプトのリーダーとなるわけです。エジプト王からするとこんな皮肉な話はないでしょう。神様がなされたみわざは、だれにも考えられないような計画だったのです。ヨセフがエジプトで宰相になった時のように悪を善に変え、救いへとその力強い御手で導かれたのです。

創世記50:20
「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」

◎結
今日の聖書箇所のキーワードは、皆さん嫌になる程聞いたのでもうお分かりだと思いますが「神への恐れ」です。これは、旧約聖書全体のテーマといっても良いほど私たちが知っておくべき大事な事柄です。箴言で「主を恐れることは知恵の初め」という、とても有名な言葉がありますが、神様への恐れは神様を知ること、つまり信仰の始まりともなっていきます。
神様を恐れる者は罪から離れ、良心に従って生きようとします。しかし、中々そのように生きていけない世の中であることも痛感します。悪の力が私たちを圧迫し、恐れを抱かそうとするからです。しかし、恐れる必要はありませんし、神様のみを恐れる時、それ以外のものは不思議と怖くならなくなっていきます。むしろ解放されていくのです。そこに神様への信頼があるからです。主は必ず私たちを守り、祝福し、救い出してくださります。
そしてその主は、恐れるなということも何度も、特に旧約聖書で語られます。神以外のものを恐れるなという意味です。そして、そこには必ずこの言葉がついてきます。それは「私が共にいる」という言葉です。主が共におられるから私たちはこの世の悪を恐れなくても大丈夫なのです。
そしてそのしるしがまさしく、「神我らと共にいます」インマヌエルなるイエス・キリストの十字架なのです。イエス様が来られたことは私たちを必ず救い出し、ずっと共にいるという約束の成就なのです。全てを治めておられる公正で義なる恐るべき神様が最終的に私たちに示してくださったものは、全き愛だったのです。その恐るべきも愛のお方に信頼して、私たちはこの世の悪、自分自身の罪と向き合い、恐れずに生きていきたいと願います。
有名な賛美歌「主我を愛す」の歌詞には「主は強ければ、我弱くとも恐れはあらじ」とあります。私たちは弱いです。すぐになんでも恐れてしまいます。でも大丈夫です。神様は恐るべき強いお方です。そして、その恐るべきお方は私たちをその恐怖で支配するのではなく、愛によって解き放ってくださったおかたなのです。その究極の姿が十字架のイエス様です。そのお方が共におられるので、私たちが恐れるものは神様以外はなにもありません。主に信頼して歩んでまいりましょう。

武井誠司

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