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人の内には神の霊がある (ヨブ32:1~9、15~22)

メッセージ
2017年10月15日(日)富里キリスト教会

「人の内には神の霊がある」
(ヨブ32:1~9、15~22)

1.エリフの怒りの理由

「さて、エリフは怒った。この人はブズ出身でラム族のバラクエルの子である。ヨブが神よりも自分の方が正しいと主張するので、彼は怒った。また、ヨブの三人の友人が、ヨブに罪のあることを示す適切な反論を見い出せなかったので、彼らに対しても怒った。彼らが皆、年長者だったので、エリフはヨブに話しかけるのを控えていたが、この3人の口から何の反論も出ないのを見たので怒ったのである。」(ヨブ32:2~5)

この年若いヨブの友人エリフは、今まで先輩の友人に遠慮して自分の意見を言うことを差し控えていました。しかし、今まで黙って双方の話を聞いていましたが、エリフの心の中に何か込み上げて来る怒りの感情を抑えることができなくなりました。この中に「怒り」という言葉が3回出て来ています。そしてその怒りの理由が、二つ述べられています。ひとつは「ヨブがどこまでも自分の方が正しい」と主張したことです。もう一つは、そのヨブの「自分が義しい」という主張を、3人の友人が覆すことができなかったからです。

ヨブはどこまでも自分の義しさを主張し、貫き通しました。ちょうど、この32章の前の31章にヨブの最終弁論が載っています。そこを読んでみますと、「決してない」という言葉が、全部で15回出ています。そして、「もしあるというなら」という言葉が8回出ています。例えば9~10節ではこう言っています。「もし隣人の妻に心を奪われたり、門で待ち伏せたりすることは、決してない。もしあるというなら、わたしの妻が他人のために粉を引き、よその男に犯されてもよい。」自分は心においても、そんな姦淫の罪を生涯今まで、一度も犯したことはないと断言しています。

いかがですか、皆さんもここまで自分の正しさを主張出来ますでしょうか。もしヨブが、ここまで自分の義を主張できるとしたら、おそらく彼はまだ若い40代くらいの壮年ではないかと思います。あのイエス様の前に出てきて、永遠の命を求めた、熱心な金持ちの青年のような人物ではなかったでしょうか。ヨブの子供達達もまだ結婚していませんでしたから、彼は壮年で活力があり、実行力もある人ではなかったかと思われます。聖書にも「あなたがたは義に過ぎてはいけない。」という御言葉があります。わたしは金持ちではありませんでしたが、自分の若い時の姿を映しているような気がします。

そして、そういうヨブを論破できなかった三人の友人ですが、どうしてヨブの罪を示すことができなかったでしょうか。それはやはり、この三人の友人エリファズ、ビルダト、ツォファルも、ヨブと同じような信仰をもっていたからです。神は義人には報いを与え、悪人には刑罰を与えるという因果応報の伝統的な教えに立ってヨブを説き伏せようとしました。

しかし、人は誰でも自分自身の罪を告白することなしには、他人の罪を示すことはできません。ヨブの「何故、義しい人が苦しむのか?」という問いを、根本から説明することもできません。それは、この3人の友人も、ヨブと同じように自分たちは罪を犯してはない、お前が罪を犯しているのだと考えていたからではないかと思います。自分の非や自分の失敗や自分の過ちを認めなければ、真に人を悔い改めに導くことはできないのです。

2.聖霊が語る

なぜ友人たちは、ヨブを説き伏せることができなかったのでしょうか。それは、彼らは「聖霊様が語る」という言葉を用いてはいなかったからです。人間の知恵で、人間の知識で、ヨブの知恵に向かって行ったからです。真理の言葉は、聖霊が語る言葉なのです。この年若いエリフは、最年少者でしたが、神の霊によって全ての会話を理解していました。そしてとうとうこの神の霊の思いが、抑えきれなくなって、聖霊によって思わず言葉が口を突いて出てしまったのです。それが6節からの言葉です。

「わたしは若く、あなたたちは年をとっておられる。だからわたしは遠慮し、わたしの意見をあえて言わなかった。日数がものを言い、年数が知恵を授けると思っていた。しかし、人の中には霊があり、悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ。日を重ねれば賢くなるというのではなく、老人になればふさわしい分別ができるのでもない。」(32:6~9)

ヨブは神を認め信じていました。しかし、義人が苦しむという不条理を理解することはできませんでした。それでも彼は、この不条理に答えを与え、自分の苦難の意味を教え、答えを与えて下さる人がいるにちがいないと信じておりました。自分のこの苦しみを弁護して下さる方がおられるにちがいないと信じておりました。

やがて自分の罪を贖い、自分を弁護し、神の前に立たせて下さる方が現われることを、心の底から待ち望んでいました。罪を贖って下さるお方、キリスト(救い主)の存在を心から慕い求めていました。しかし、ヨブに足りないものがありました。それは聖霊の存在です。神を知り、神の御心を悟らせるためには、神の霊である聖霊様の存在とその働きが必要なのです。

わたしたち現代に生きるクリスチャンもそうです。父なる神の愛と御子イエス・キリストの十字架の贖いは知っています。しかし、それだけでは、ヨブのように自分を義として、一生懸命自分の義しい行いによって信仰を追及するクリスチャンになってしまいます。この世の苦しみに疑問を投げかけ、何とか自分の行いや力で、世の不義を取り除こうとするクリスチャンです。

全世界の罪と悪を、自分が一人で必死に担って苦しみ呻くクリスチャンです。まるで世界中の罪と重荷を、自分で必死に背負って悶え苦しむクリスチャンです。神に向かってまくしたてる人です。それは「自分中心」の、「自我」のクリスチャンです。信じてはいますが、「自分中心」の「まだ自分に死んでいない」クリスチャンです。残念ながら、自分の罪に気がついていないクリスチャンです。自分の本当の姿がまだ見えていないクリスチャンです。真に生ける神との出会いを果たしていません。

何が足りないのでしょうか。どこが間違っているのでしょうか。そうです。ヨブがそうであったように、このクリスチャンは、神の霊、即ち聖霊の存在とその力をまだ体験していなかったのです。真の神の真理を悟るところまで言っていなかったのです。真の生ける神御自身と、まだ出会っていないのです。だから苦しむのです。呻くのです。8節に「しかし、人の中には霊があり、悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ。」とエリフが行っているように、神を知ってはいるが悟ってはいなかったのです。ヨブはまだ霊の言葉を、悟ることも語ることもできませんでした。自分の知恵、自分の知識、人間の言葉によって、神にまくし立てていたのです。

今の時代は、聖霊が注がれる時代です。聖霊様が働かれる時代です。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を語り、老人は夢を見る」(使徒言行録2:17)そういう時代なのです。

3.神の霊が教えて下さる

エリフはここから37章まで、6章の長きにわたって大説教をしたのです。これはエリフの聖霊による説教です。この6章の間にすばらしい御言葉が沢山出てまいります。そしてついに、38章で神が突然、ヨブに向かって語りかけます。こうして、3人の友人との論争、そしてエリフの説教を通して、ヨブはようやく霊なる神御自身と出会うことになります。

そしてこう言います。「今まであなたのことを耳にしておりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」(42:5~6)と。彼は初めて、神の前に「自分」という最大の罪を退けるのです。そして彼の人生は今までとは全く違った、新しい人生が始まります。聖霊による新しい、生まれ変わった活が始まります。

わたしはエリフが語ったこの6章にわたる説教の中で、12個の聖霊様が教えて下さるすばらしい賜物を見つけました。(①「神の霊による創造」(33:4)②「神は霊によって夢と幻の中で語る」(33:15~16)③「代償をもって執り成してくれる人の発見」(33:24)④「悔い改めの霊」(33:27~28)⑤「沈黙の霊」(33:31)⑥「全能なる神の無原罪を知らせる霊」(34:12)⑦「神を待ち望む霊」(35:14)⑧「耳を開いて戒めを与える霊」(36:10)⑨「苦悩の中で耳を開いて下さる霊」(35:15)⑩「苦難の意味を教える霊」(36:19)⑪「神の御言葉を聞かせる霊」(37:2,14)⑫「雲の彼方に輝いている光を見せてくださる霊」(37:21~22)です。

このすべてを今日は話すことはできませんが、最後に、わたしがエリフの説教の中で一番感動した御言葉を取り上げさせていただきます。それは36:15~21の御言葉です。「神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し、苦悩の中で耳を開いて下さる。神はあなたにも、苦難の中から出ようとする気持ちを与え、苦難に代えて広い所でくつろがせ、あなたのために食卓を整え、豊かな食べ物を備えて下さるのだ。あなたが罪人の受ける刑に服するなら、裁きの正しさが保たれるだろう。だから注意せよ、富の力に惑わされないように。身代金が十分あるからと言って、道を誤らないように。苦難を経なければ、どんなに叫んでも、力を尽くしても、それは役に立たない。夜をあえぎ求めるな。人々がその場で消え去らねばならない夜を。警戒せよ、悪い行いに顔を向けないように。苦悩によって試されているのは、まさにこのためなのだ。」(ヨブ記36:15~21)

「神様は貧しい人をその貧苦を通して救い出して下さる」とあります。これは少し不思議ではないですか?貧しい人を救い出すのは何ですか?富ではないですか、お金さえあれば、貧しさから抜け出すことができます。でも神様はそう言っていません。お金や、富を通して救われるのではなく、まぎれもないその貧しさそのものによって、それを通して救ってくださるのです。なぜならば、人間は自分がどん底に落ちてみなければ、お金の大切さも、神様の恵みも解らないからです。

死を目の前にして、初めて「神様、お助け下さい!」と叫ぶのではないでしょうか。そこまでいかなければ、わたしたちは真に神を求めないのです。そうでなければ、神ではなく別のものに頼ってしまいます。医者が見放し、薬も効かないという時に最後の手段として、「神様!」と叫ぶのではないでしょうか。そこまでいかなければ、人間は必死に信仰をもって神を呼び求めません。

ですから、36:19で「苦難を経なければ、どんなに叫んでも、力を尽くしても、それは役に立たない。」と言っているのです。苦難を通して初めて真の信仰が養われるのです。苦難を通して初めて、神様の存在とその大きな恵みが分かるのです。「苦しみに会ったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたの掟を学ぶことができました。」(詩編119:71)

エリフは、18節で警告しています。「だから注意せよ。富の力に惑わされるな。道を誤るな。夜をあえぎ求めるな。警戒せよ。悪の道に顔を向けないように。」と警告しているのです。真に自分の罪を認め、悔い改めて、「自分」という最大の罪を排除して、真剣にひれ伏して神の前に立つ、そういう信仰者を神は求めているのです。そのために苦難なのです。苦難の原因を誰かのせいにしたり、神様のせいにしていることはないでしょうか。

神は貧しさを通して、そして苦難を通してその中で、まさに肉の体をもってうめき苦しむ中で、わたしたちの目を開いて下さり悟りを与えて下さるのです。
ですから、「心の定まらない者たちよ、(もっと)悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。」(ヤコブ4:8~10)とヤコブも言っています。また「若い時に軛を負った人は、幸いを得る。軛を負わされたなら、黙して、独り座っているがよい。塵に口をつけよ。望みが見出せるかもしれない。打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ。」(哀歌3:27~30)

もっと嘆きなさい、悲しみなさい、神の懲らしめを十分に味わいなさいと聖書は教えています。ロバート・ゴルディスというヨブ記の研究者は、「神と人間の書」の中でこう述べています。「苦しんだことのない人々という者が、どんなに我慢ならないものかは、人生があらゆる仕方で教えてくれる。挫折と悲哀こそ、人間がその兄弟たちと共感し、交わるためのパスポートである。」と。

なぜなら、神様はもっと深く、耳で聴くだけではなく実際に目で見るところまで、愛をもって御自身をわたしたちに啓示して下さるからです。おそらく人生の苦しみ、悩み、呻きというものを知らなければ、わたしたちは聖書の御言葉も神の愛も恵みも何も理解できずに生涯を終えてしまうかもしれません。そして、苦難の向こうに輝いている黄金の光をすら気づかずに生涯が終わってしまうのではないでしょうか。

エリフは最後に言いました。「今、光は見えないが、それは雲の彼方で輝いている。やがて風が吹き、雲を払うと、北から黄金の光が射し、恐るべき輝きが神を包むだろう。」(37:21~22)と。この苦難の黒雲の向こうに、光輝く黄金の世界があると聖書は言っています。暗い闇の雲が大きくても、それを避けたり、目を背けたりせず、その雲の彼方に輝いている光に目を注いで行きたいものです。そしていつも喜んで、感謝しつつ、絶えず祈りをもって生きて行きたいと願っています。                    (岡田 久)

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