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二人又は三人が心を一つにして祈る (マタイ18・18~20)

メッセージ

2009年11月29日富里教会
   「二人又は三人が心を一つにして祈る」
       (マタイによる福音書18:18〜20)

1. 地上で心を一つにする
今朝はマタイによる福音書の18章18節の御言葉から、祈りについてみてみたいと思います。もう一度読んでみましょう。「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:18〜20)

ここでイエス様が、「はっきり言っておく」と二回くり返して言っておられます。しかもわざわざことわりを入れて、念を押したような言い方をしています。それだけ、この言葉のもつ意味が重いということと、私達にしっかりと受け止めたいと思います。そして、もう一つ注目するのは「地上」という言葉が三回出てきています。地上という言い方は、少しおかしいような気がします。普通は地上とは言わず、「教会で」とか「祈祷会で」と言ってもいいような所ですが、あえて「地上」という言葉を使っております。

つまりイエス様はここで、地上と天上をつなぐものとして祈りと言うものを考えておられるのではないでしょうか。祈りはまさに天と地をつなぐ、大きなパイプの役割を果たしています。そして「地上」と言う言葉の中に、人間の営み、人間の歴史、人間の悲惨さ、ルワンダの民族間の虐殺、環境破壊、核戦争の危機、拉致問題、円高、殺人、詐欺、強盗などの事件、そういう人間のどろどろとした世界のことを言っているような気がしてなりません。そしてその地上の真ん中で、神様に向って声をあげること、これが私たちの祈りではないでしょうか。(おそらく、天国に行ったら、祈りと言う行為はおそらくなくなるでしょう。賛美と感謝の声が満ちあふれる所ではないでしょうか。)そして、その声が実は天上の神様の耳に届いており、天上と地上がこの祈りのパイプによって、しっかりとつながっていることを意味しています。

また、私たちが地上でつなぐということは、相手の罪の鎖をつなぐと言うことを意味しますから、私たちがその人の罪を赦さないなら、天の神様もその人の罪を赦さないということです。そして、私たちがその人の罪の鎖を解いてあげるなら、つまり私たちがこの世でその人の罪を赦すなら、天の神様も赦されるということを意味しています。そういう権威が、この地上の教会に、そして私たちの二、三人の祈りの集まりに与えられていると言うことです。それが、祈ることの恵みであり、大きな祝福なのです。私たちの祈りが、そのまま天の神様の判断に反映されており、そういう大きな権威をいただいているのです。ですから、「イエス様のお名前によって祈ります。」ということの特権を深く受け止めたいものです。

たとえ祈りの声が無力に思えたりするようなことがありましても、ほんとにこの祈りを神様が聞いておられるのだろうかと、疑いたくなるような時がありましても、祈りの声は聞かれており、神様の耳に届いているのです。そしてこのイエスキリストの名によって集まっているところ、すなわち教会には、今申しましたように、天上での権威が与えられていると言うことです。イエスの名によって集まって祈るところに、罪を裁きまた赦す権威があると言うことを覚えたいと思います。これが「地上でつなぐこと、地上で解くこと」という意味です。

2. イエスの名によって集まるところ
そしてさらに「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(18:19〜20)と言いました。地上で心を一つにしてあつまるところ、それはイエス・キリストのお名前によって集まるところです。そしてそれは二人または三人の集まりでいいのです。確かに個人で密室で祈ることも大切です。でも私たちは、ともに集まって祈るためにこの世から召し出されました。教会は祈りの共同体です。一人一人は聖霊様の宿る神の聖なる宮なのです。この罪に満ちた暗い争いの絶えない地上で、共に集まって、一つの心になって祈りあうために私たちは召し出されました。

そして何度も言いますが、その集まりの単位は二、三人でいいのです。確かに浦和教会のように夜の祈祷会に50人も集まって熱心に祈ることもすばらしいことです。それでも、祈るときには、5,6人づつに分かれて祈ります。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」とイエス様は言っています。いつもこの二、三人の祈りから始まって、二、三人の祈りに終ります。たとえ何百人何千人の大きな教会でありましても、祈りの群れの単位はこの二、三人から始まるといっていいのではないでしょうか。富里教会も、この富里に引越しして来た一つ家族の祈りから始まり、今日に至っております。

4.私もそこにいる

私は、若い時、教会の組織や制度に反発を感じていました。そして一人で独立伝道者として、教会のない町で信徒伝道者として、開拓伝道をしようと決心しました。人口2万くらいの東北の小さな町でしたが、教会はありませんでした。一人では何もできません。ともかく誰か、祈る仲間、一緒に聖書を読む仲間を捜す必要がありました。そして、最初は、その仲間を見つけるために、たった一人で市民クリスマス会を公民館を借りて開きました。でも、その結果は惨憺たるものでした。だれ一人来てくれませんでした。それで、悔改めてもう一度教会に戻りました。そして、今度は教会の集会として、牧師先生や教会の方々の祈りの支援をいただき、イエス・キリストの名によってクリスマス集会を開いたのです。その時、初めてその町に一人の祈りの友が与えられました。さらに結婚して妻が与えられ、他にも祈りの仲間が与えられました。そこで、ようやく、二人または三人がイエスの名によって集まる祈りの集会ができるようになったのです。

そして、その仲間たちと毎月家庭集会をして、年に1回、市民のクリスマス会を開催しました。次々に救われる方が与えられました。そして伝道者になる献身をしてその町を離れる時には、90名(子供も含めて)のクリスマス集会をすることができたのです。その根底にあったのは、いつも二人または三人が、イエスの名によって集まり、祈ってきたからです。参加している人はいろいろ問題を抱えながら、みんな膝をつき合わせて、狭い家で子供達を抱えながら、涙を流して祈ることもありました。私にとってはそこが原点です。まさにそこにイエス様がいてくださったのです。私は皆さんにもそのような、天国の先取りのようなすばらしい経験をしていただきたいと思います。小さければ小さいほど、少なければ少ないほど大きな主の恵みが満ちあふれます。涙や悲しみがあればあるほど、神様の恵みは満ちあふれて流れ出るのです。それがクリスチャンの、また信仰生活のかけがえのない喜びであり祝福ではないでしょうか。

世界宣教とは、暗黒の世界に光を掲げて勇ましく行くということではなく、むしろ、富んでいる国にいる私たちのほうが、貧しい人々からキリストにある豊かさをいただくために、出かけて行くことではないでしょうか。あるいはお互いの恵みを分かち合うために、出かけて行くことかもしれません。なぜなら、すでに主が、その国におられて彼等の祈りの中に生きて働いておられるからです。すでに、私たちが向おうとしているところでは、二人または三人の貧しき人々が、本当に心を熱くして一生懸命祈っている場所なのです。すでに先立ちたもう主が、先に現地に行って、私たちが来るのを待っておられるのです。世界伝道とは、この二、三人の祈りの中に、共におられる主のところに出かけて行くことではないでしょうか。それはルワンダでも、タイでも、シンガポールでも、富里でも同じことなのです。今週、全世界のバプテストの仲間達と共に、二人または三人による祈りの大きな祝福と特権を感謝しつつ、祈ってまいりましょう。そして、主の道きのうちに祈りと証と愛の業をもって、人々にイエス様を証して行こうではありませんか。
                                      (岡田 久)

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