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二人の王様 (マタイ2:1~12)

メッセージ
2019年12月22日富里キリスト教会
「二人の王様」
(マタイ2:1~12)
1.ヘロデ王の恐れ

「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。」(マタイ2:1~3)

当時東方の国では、学者は星を調べたりすることによって世の中の変化や出来事を占っていたようです。ユダヤ人の王と言っていますから、彼らは、このユダヤ人の王様が世界を変える大きな働きをする偉大な王であるということを知っていたようです。おそらく、600年も前に、かつてイスラエルの人々が神に背いて、その罰としてバビロンやペルシャに捕囚として連れられて行った時期がありました。その時に、聖書の預言の言葉が東の国にも伝わっていたのではないでしょうか。逆に言いますと、600年も前にすでに捕囚という形で、海外宣教がなされていたと言ってもいいのではないのでしょうか。

やがて生まれるユダヤ人の王は、宇宙を治めるほどの偉大な王であるという事実を調べ、その誕生の時期を研究していたのではないかと思います。そして、彼らの聖書である自然世界から、歴史的な大発見をして、その方を見て礼拝しようとはるばるユダヤまで長い旅をしてきたのではないでしょうか。少し極端な言い方になるかもしれませんが、科学者の目的はここにあるのではないかと思います。つまり究極の真理を発見するということです。この世界を動かし、物質を存在させ、宇宙と時間を支配しておられる真理そのものを発見し、それを確かめて、そこへ行くことです。

しかし彼らは、真理については関心を持っていましたが、悪については無知でした。ユダヤの国の首都ベツレヘムへ行けば、その王様の誕生が分かると思っていました。そして知らないで、一番行ってはいけない人のところへ行ってしまったのです。それは、時のユダヤの王ヘロデ大王でした。もっとも残忍な仕方で民を支配し、自分の地位を守るためには、どんな手を使っても保身に走る人でした。たとえ身内のものでありましても、妻であっても息子であっても、自分の地位を脅かすものには容赦のない処分が下されました。実際、謀反のかどで父である王の手によって殺された息子もいたほどです。ことわざに「ヘロデの息子であるよりは、ヘロデの飼っている豚である方が安全だ」といわれたほどでした。息子もギリシャ語では、フィオスと発音し、豚も同じフィオスと発音します。発音のゴロを合わせたことわざなのでしょう。

ヘロデ大王も仮にも神の民ユダヤの王様です。聖書の預言した偉大な王が生まれると言われた時に、あからさまに反対し恐ろしい行動に出るという軽はずみな行動は避けました。逆に自分もメシアを待っているイスラエルの民の一人だと言わんばかりに、平静を装い、宗教的な指導者たちを集め、メシアの誕生について調べさせました。すると「その誕生の地はユダヤのベルレヘムです。」という答えがすぐに帰ってきました。

それを聞いてヘロデは、学者たちに、星の現れた時期について詳しく尋ねました。しかも秘密裏にです。誰にも知られないように、生まれた時期を確かめ、そして出生地を確かめ、自分のライバルであるその王を亡き者にしようとたくらんだのです。これでヘロデがその知らせを聞いて不安になったことの理由が、お解りになったのではないでしょうか。ライバルを蹴落とすためには何でもするという権力者の悪の力です。

イスラエルの民でありながら、しかも王様でありながら、一番不安を感じ恐怖心に襲われたのはヘロデ大王でした。つまり彼にとっては、救い主ではなくライバルが現れたのです。突然、競争相手が現れ、自分の王として地位が脅かされることに不安を感じました。メシアの到来を恐れたのです。みんながみんなキリストの誕生を待っていて、楽しみにしているかと思うとそうではありませんでした。むしろ肝心の民の代表者が不安を感じ、町の人々も同じように不安を感じたのです。

皆さんはいかがですか?来週イエス・キリストが再臨されるということが分かったらどうされますか?イエス様、早く来てくださいと言える人はいるでしょうか。「エッ、イエス様まだ早いです。まだ準備ができていません。どうしてこんなに早く来られるのですか?今来ちゃ困ります。」という人がいるのではないでしょうか。いつ来られてもいいように信仰を持って祈りつつ、心の準備をしていますか?生活の準備をしていますか?すぐにそのまま天に引き上げられる用意はできているでしょうか。もしかしたら、この世のことにどっぷりと埋没して、再臨を拒んでしまっていることはないでしょうか。

ヘロデの場合はもっと悪い方に走りました。不安と恐怖を感じました。ライバルと思いました。自分こそはユダヤの王であるとのプライドがありました。そして自己防衛と自己保身に走りました。まず嘘をつきました。「わたしも拝みに行くから、産まれた時期をこっそりと教えてくれ。」と殺す子供の年齢のめどを立てていたのです。そして学者たちが帰りにその場所を教えないで帰って行ったことで、だまされたと思い怒りに燃えました。

その後自分の地位を守るために、いや自分自身を守るために、兵士を遣わして、ベツレヘムの村の二歳以下の子供を皆殺しにしたのです。殺人、しかも何の罪もない幼子を全員殺してしまったのです。どんな村の状況だったでしょうか。子供声がして泣き叫ぶ親の声がします。悲しみと怒りと恐怖といった阿鼻叫喚が小さな村を襲いました。言葉では表せないほどの惨劇です。これが人間の持つ恐れ、不安という感情のなせる業なのです。

自分の地位を守るというところに、不安や恐れが出てくるような気がします。そういう人間の持っている、プライド、自己保身、嫉妬、不安、恐れの渦巻く世界に、御子イエス様が幼子となって来てくださったのです。それがクリスマスです。神様がへりくだってくださいましたから、誰でも求めれば与えられるのです。神様は遠くにおられるお方ではなく、わたしたちのすぐそばに悩みと苦しみと闇の只中に来てくださったのです。

2.御子イエスを見上げて

このような人間の恐れ、不安の感情、自己保身、ライバル意識、プライド、嫉妬、怒り、そして殺人と言った世界の只中に、御子は来てくださいました。このヘロデ王の心と感情と行動を見る限り、まさに現代の人間の罪の心、闇の心を見る思いです。御子は、無抵抗のままで、子供として飼い葉桶の中に身を横たえました。そこにはプライドどころか、自分を低めるヘリ下りと、謙虚の心を見ることが出来ます。主のみ心に適ったものだけが、このお方の姿を見て、そこに神の栄光と恵みと真理を見ることが出来たのでした。自分は貧しい者、不完全な者、つまらない者、罪の塊だと思える人に御自身を知らせてくださいました。

ですからクリスマスは、この飼い葉桶の中の御子イエス様を見なさいというメッセージなのです。神様はあなたのために自ら肉を取りへりくだって、あなたのすぐそばに来てくださいました。そしてあなたを愛し、あなたのためにご自分の命さえ差し出してくださったのです。わたしたちの恐れや不安、怒り、プライド、嫉妬や妬み、自己保身、自己中心、そして憎しみ、殺意という感情をその十字架の上で滅ぼしてくださったのです。主のもとに行くならば、そこには安らぎがあります、平安があります、喜びがあります、心の解放があります。そのような心の思いをあの飼い葉桶キリストは示して下さり、与えて下さるのです。また誰でも、たとえ聖書が手元にない人でも、自然現象から宇宙の星からでさえ神様の救いの真理に到達することが出来ることを教えています。

皆さん、不安と恐怖、嫉妬とプライド、自己保身と憎しみ、殺人のヘロデの心と、平和と安らぎ、愛と恵みと喜びの飼い葉桶の御子とどちらを選びますか?ヘロデを選びますか?飼い葉桶の御子を選びますか?もちろん御子イエスの方ですよと、答えられるでしょう。わたしの心の中には、あの残虐なヘロデの鬼のような魂はひとかけらもありませんと。果たしてそうでしょうか。人を赦さないヘロデの心を取るか、人を赦すイエスの心を取るかです。どちらを選択するかです。

信仰は感情ではありません。選択の問題です。感情ではいつまでも赦すことが出来ないでしょう。でもイエス様に顔を向け、赦すことを選択するなら、聖霊様が祈りの言葉を導いてくださいます。聖霊様が働くのです。憎む心を赦す心に変えて、言葉に出してくださるのです。そうすればイエス様の十字架の血潮がわたしたちのかたくなな罪、プライド、嫉妬、憎しみ、恐れといった感情を十字架で洗い流してくださいます。罪の鎖から解放してくださいます。キリストの言葉は、命の言葉ですから、わたしたちの肉の言葉、罪の言葉を赦しの言葉に変えて下さるのです。それが祈りです。

イエス様の御名で祈る時に、感情も変わります。感情がついて行かなくても、イエス様を選択し、イエス様に目を向ける時に、そこには愛と赦し以外の何物も映りません。そして、証をされた兄弟姉妹も、その悔い改めの決心を皆さんの前で証してくださいました。あのダビデの星であるイエス様を見上げることです。人を見るとヘロデの心になってしまいます。比較と競争と嫉妬の世界です。人を見ないで、目を上げて天におられるイエス様を見上げましょう。天におられるイエス様に目を向けることです。

きょう、イエス様がわたしたちの暗い世界、不安と恐れの心の中に来てくださいました。「インマヌエル」、共におられるとおっしゃってくださいました。三人の博士たちも、今度はヘロデの道を通らないで、別の道を通って帰って行きました。夢で告げられたからです。彼らも飼い葉桶のキリストを見つけて、天使の御言葉を聞く者となったのです。クリスチャンとしての新しい人生が始まりました。み言葉に聞く人生です。わたしたちも、日々に御子の御顔を仰ぎ求めつつ、この暗い世界を一歩一歩、御言葉の光の導きに導かれて歩んでゆきたいと願っています。(岡田 久)

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