ようこそ、富里キリスト教会の公式ホームページへ

二人の王 (マタイ2:1~18)

メッセージ

2015年12月24日クリスマスイブ礼拝

「二人の王」
(マタイ2章1~18)

はじめに

クリスマスおめでとうございます。今宵、ユダヤのベツレヘムに私たちの救い主でありますイエス・キリスト様がお生まれになりました。一番最初のクリスマスは、イエス様の母マリヤと父ヨセフ、そしてベツレヘムの野原で羊の群れの番をしておりました数名の羊飼い、そしてはるばる東方の国からやって来た三人の博士たちだけでした。この新共同訳聖書では、「占星術の学者」となっていますが、別の聖書では「三人の博士」となっています。

今晩は、この三人の博士にまつわるキリスト誕生の時の出来事について、マタイによる福音書からご一緒に学んでみたいと思います。キリスト誕生にまつわるお話の中で、この博士たちをめぐるお話は、正直申しまして少し悲しい残酷なエピソードが残されております。

それは三人の博士が、はるばる今のペルシャの地からラクダに乗って何日もかけて、一つの星を目印にしまして長い旅をしてユダヤ(今のイスラエル)までやって参りました。ところが肝心のユダヤの国には、既にヘロデと言う悪名高い王が支配をしておりました。ヘロデ大王は、この三人の博士の話を聞いて、喜ぶどころか不安になってしまったのです。

「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。」(マタイ2:1~3)

ヘロデ王は、自分の恐れや不安の気持ちを隠して、後で自分も拝みに行くから生まれた場所を教えてくれるようにと依頼して、三人の博士おベツレヘムの村へと送り出しました。三人は星の後をついて行って、ついに幼子の生まれた場所を見つけました。そこは、普通の家ではなく馬小屋でした。そして飼い葉桶の中に寝かされていた幼子を礼拝したのです。彼らは持って来た黄金、乳香、没薬といった貴重な宝物を献げて帰って行きました。ただし、夢の中でヘロデには場所を教えるなと言うお告げを受けて、帰りは別な道を通って東の国へ帰って行きました。

これを聞いたヘロデ王は、怒ってその時のベツレヘムの二歳以下の幼子を全員殺してしまったのです。二歳くらいの年齢巾で子供を殺せば、その中にユダヤ人の王となる幼子も含まれていると思ったのでしょう。しかし、マリアとヨセフは、ヘロデの手が回る前に、天使からエジプトへ逃げるように夢で告げられて危うく難を逃れたのでした。

今日では考えられないようなことですが、当時はそれほどに一国の王が大きな権力を握っていました。とりわけ、このヘロデ大王は、嫉妬深く自分の王としての地位を守るためには、自分の親族さえ殺してしまうほどの人物でした。今晩はこの世には、このヘロデ王のように自分の権力を傘にきて赤ん坊でも殺してしまう恐ろしい王と、神様から遣わされて世の罪を赦すために、肉を取ってへりくだって小さくなって来て下さった真の王の二人が存在すると言うことを見て行きたいと思います。

1.この世の王ヘロデ

まず最初に、この世の王であるヘロデと言う人物について考えてみたいと思います。正直申しまして、あのロマンチックなクリスマスの物語の中に、こんな恐ろしい残酷な出来事があったとはいったい誰が想像できるでしょうか。クリスチャンでも、この箇所は飛ばして読みたいほどの箇所です。それはヘロデが自分の王としての地位を守るために、将来自分を出し抜いて王となるであろうと想定される赤ん坊を皆殺しにしてしまったという場面です。

ここにこの世の王、悪魔と罪に支配された人間の現実の姿を見る思いがします。この世の王である人間の感情と行動についてみてみたいと思います。ず最初は、「不安を抱いた」と言うことです。二番目に「聖書を調べさせた」ということです。三番目には、「わたしも拝みに行くという嘘」をついたことです。四番目は博士たちが寄って行かないので、「怒った」と言うことです。五番目は、「二歳以下の男の子を一人残らず殺した」と言うことです。

つまり、この世の王は「不安」「聖書を読んでいない」「嘘を平気でつく」そして「怒る」そして最後は「子どもでも殺す」と言うことです。「不安」「嘘」「怒り」「殺人」と、ヘロデの感情がだんだんと膨れ上がって行っています。本来でしたら、ユダヤの国にメシア(救い主)が生まれると聞いたら、その国の王である者が一番、最初に喜ぶべきではないでしょうか。イスラエルの民が長い間待ち望んでいたメシアの到来なのです。

この世の王はどんなに偉い王であっても、基本的にはその国を支配する神に仕えるものです。王が神になってしまっていてはいけないのです。人間が神になることです。ところがヘロデは自分こそが真の王であると自認し、その地位にしがみつき、敵対する者、王位を脅かす者は誰でも容赦なく処刑してしまっていたのでした。そのような、恐ろしい人間の感情的な間違いの出発点は何かと申しますと「不安」です。どうしてヘロデは、ユダヤの王が生まれたという良い知らせを聞いて不安を感じたのでしょうか。

それは自分が王だからです。自分が王としての権力を欲しいものにしていたからです。自分と同じもう一人の王は必要ないのです。自分が支配者なのです。自分が中心なのです。ところがもう一人の王、しかも自分よりも優れている本当のユダヤの王と聞いたら、誰でも不安を感じるのではないでしょうか。自分と比較してその人が優れていたら、自分の立場が無くなる。自分の地位が危うくなる、プライドが傷つけられる、自分が否定されると思ったのではないでしょうか。だからもう一人の同じ王は、必要ないのです。

わたしたちにヘロデのようなところはないでしょうか。自分と同じような能力のある人が職場に入って来たらどうしますか。自分と同じような色の服を着たもう一人の女性が、教会に来たらどうするでしょうか。「あら、わたしと同じメーカーのオーバーだわ。もしかしたら、同じメーカーでも彼女の方がワンランク上のオーバーかもしれない。」と感じることはないでしょうか。自分が恥をかきますね、自分が低く評価された、自分が否定されたと思ってしまいますね。それが心の不安を生み出すのではないでしょうか。

もう罪の比較の世界、競争の罪の世界に入り込んでしまいました。「わたしのオーバーは、パリの本社から取り寄せたのよ。」と思わず見栄を張って嘘をついてしまうことないでしょうか。この間イオンモールで買ったのに、嘘をついてまで何とか見栄を張り、自分をよく見せようとして、自分の心の不安と動揺を隠そうとします。しかし、その心の奥では何とか、競争相手を蹴落とそうと画策を練っているのです。実に子供じみた大人の見栄の張り合いになってしまいます。女性に限らず、男性の職場でも、会社でも団地でも学校でも人間がいる所では起ってくる感情の軋轢です。

そしてヘロデが博士たちにだまされたと知るや否や、その感情が頂点に達して爆発しました。次に来るのが、相手に対する攻撃です。相手を力づくでも抹殺してしまおうとします。それが殺人へとエスカレートするのは簡単です。自分の王としての地位を守るためにも、恥を注ぐためにも、何としても同じ別な王を殺してしまわなければ安心できないのです。攻撃と殺人これが人間の不安と怖れの行き着く不幸な結末です。聖書にこうあります。「あなたがたは、欲しがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが(神に)願わないからです。」(ヤコブ4:1~3・新改訳)

ヘロデの場合は権力者でしたから、幼子を皆殺しにしても、誰もそれをとがめることはできませんでした。普通の私たちのケースでは、完全に殺人事件として逮捕されます。しかし、そこまでしなければならないほどに本人にとってはせっぱ詰まっていたのです。常軌を逸した狂気の沙汰に走ってしまいました。

ヘロデ大王と言いますと、悪玉、悪魔の化身のようにクリスチャンも考えていますが、いかがでしょうか。わたしたちの中にもこのような感情がないと、言い切れるでしょうか。小さな不安、恐れ、小さな嘘でも、やがてそれは大きくなって相手を無視する、相手をいじめる、嫌がらせをするなどと言う行為に発展してしまうことがあります。ヘロデのような感情を持ったことはないでしょうか。もしかしたら私たちの心の中にも、この世の王であるヘロデがいるかもしれません。自分中心と言う罪です。見栄を張って比較する世界、競争の世界です。

そして実はそのような人間の罪が渦巻く世界へと、キリストは肉体を取って来て下さいました。それがクリスマスの出来事です。あのヘロデの時代に神であるキリストが、天からこの世に下り、自らを空しくされて肉体を取ってお生まれなさったのです。しかも、ベツレヘムの馬小屋の中にです。もう一人の真の王として来て下さったのです。これがクリスマスの出来事です。

2.真の王を求めて

この世の王ではなく、天から来られた真の王は、わたしたちと同じように一人の女性の胎を通してこの世に生まれました。自分を高く見せよう、自分をよく見せようとするのではなく、自らへりくだって、女の胎を通して、ベツレヘムの馬小屋に生まれたのでした。そして飼い葉桶の中に身を横たえました。

このようにして真の王は、自らへりくだられ小さくなられたお方です。しかもその最後は、あの十字架の上に身を置かれ、この世の罪人の一人と同じところまでご自分を低くして下さいました。そして十字架の上で、わたしたちの罪の贖いの供え物としてご自身の命を献げて下さったのです。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリピ2:6~9)

この真の王のもとへと、東方から来た三人の博士たちが導かれたのです。そして彼らを救い主のもとへと導いたのは、東の方で見た大きな一つの星でした。この星を頼りに彼らははるばる旅をしてきたのです。旅の途中いろんな困難があったと思いますが、彼らは協力してこの難関を乗り越えて来ました。

このようにわたしたちをいろんな分野、いろんな民族、人種を一つにして旅をさせて下さるのは、天上に輝く一つの星なのです。この星を見上げて旅する限り、道に迷うことはありません。星がちゃんと目的地まで導いて行って下さいます。お合互いに意見の不一致で喧嘩をすることもありませんでした。競争することも妬むこともうらやましがることもありません。それは、三人とも上を見ていたからです。天に輝く一つの星を見上げていたからです。

先日二人の日本人がノーベル賞を受賞しました。科学の世界も日進月歩、特にノーベル賞を目指して努力研鑽がなされています。競争が激しければ激しいほど、時には他の人の研究をうらやんだり妬んだりすることがあるかもしれません。不正を犯して、デーダの偽造をすることもあるでしょう。それが今日のわたしたちの世界です。でもこの三人の博士は、そういう比較や競争はありませんでした。相手の研究を恨んだり嫉妬したりすることがなかったのです。どうしてでしょうか。それはお互いに天にある一つの星を見上げて旅をしてきたからです。相手を見ないで上を見上げることです。横を見ないで天の星を見上げることです。この星はイエス・キリストを示しています。

聖書のコロサイ3:2にこう言う言葉があります。「上にあるものを心に留め、地上の物に心を引かれないようにしなさい。」(コロサイ3:2)上にある一つの星を見上げる時に、わたしたちはお互いに一致団結して旅をすることができます。どんなに暗い世の中であっても、道に迷ったりつまずいたりすることはありません。しっかりと人生の目的地に着くことができるのです。

科学の目指す最高の唯一の真理を発見することができます。それが御子イエス・キリストです。黄金、乳香、没薬といった科学の成果をキリストに献げるのです。各分野の最高の宝物を幼子キリストに献げることが、科学の目的であります。ノーベル賞の各分野だけではなく、文学も平和も経済も芸術も全て人類の宝物はキリストに献げるためにあるのです。そういっても言い過ぎではないような気がします。私たちの人生の目的は、自分の宝物を一番大事なものをキリストに献げると言うところにあるのではないでしょうか。

でも、わたしたちの目がこの夜空に輝く大きな星から目を離す時、わたしたちはあっという間に、また比較と競争の世界に入ってしまいます。相手を見てしまいます。横を見てしまいます。そして自分をよく見せようと見栄を張って嘘をつきます。それでも勝てない時は、力づくで相手を攻撃したりいじめたり、果ては殺してしまうと言うところまでエスカレートすることはないでしょうか。

ヘロデのように自分の権力を誇り、この世を支配する王と、上から来られ飼い葉桶の中に眠っている小さき王のどちらを選びますか。もちろん、今晩このイブ礼拝に来て下さった皆様方は、暗い中暗闇に輝く小さな光を求めて来て下さいました。そして今私たちは、生まれたばかりのみどりこを見上げて礼拝をしております。二千年前のベツレヘムの馬小屋の礼拝を捧げております。きっとこの礼拝が終わってから、皆様お一人お一人に、天使が「今までとは違う別な道を歩みなさい。」と声をかけて下さると信じます。

それは人を見るのではなく、相手を見てうらやんだり妬んだりする人生ではなく、皆さんを愛して下さる神様の大きな恵みの星を見上げて歩む人生です。新しい人生の始まりです。この闇に輝く神様の恵みの星を見上げて、星の導きに従って歩む者となって行きたいと願っております。  

powered by Quick Homepage Maker 4.50
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional