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二人の母 (ガラテヤ4:21~31)

メッセージ

2013年5月12日富里キリスト教会

「二人の母」
(ガラテヤ4:21~31)

1.肉によって生まれた奴隷の子

創世記の16章を見ますと、アブラハムとサラ夫妻には、神様の約束された子供がなかなかできませんでした。神様が、「あなたの子孫を祝福し、あなたの子孫は空の星のように増え広がります。」と約束されたにもかかわらず、86歳になるまで二人の間には子供が授かりませんでした。それで、妻のサラは、自分の奴隷の一人であるハガルという召使を夫に与えます。そして、ハガルはアブラハムとの間に一子イシマエルをもうけます。その後、創世記21章に至って、アブラハム100歳、サラ90歳にしてようやく神の約束の子イサクが与えららました。ところが妻サラは、息子のイサクがイシマエルにからかわれているのを見て、ハガル親子を群れから追放するように夫アブラハムに訴えます。アブラハムは悩んだ末に、神様から、「イシマエル親子はわたしが面倒を見るから、サラの言うとおりにイシマエル親子を追放しなさい。」という声を聞いて、泣く泣くハガル親子を砂漠に追いやってしまいました。

妻のサラは、夫が神様からの約束を受けているにもかかわらず、だんだん年をとって行く様を見て、果たしてこのままでは私たちの子孫が与えられないのではないかと不安になりました。そして、当時この時代に良く行われておりました自分の女奴隷を夫に献上して、自分の代わりに子孫をもうけて家系を絶やさないという方法をとりました。

私たちも、神様から祝福の約束を受けていながら、なかなかそれが実現しないと、不安になり、神様のなさることは遅すぎる、これでは祝福もいただけないのではないかと思い、待つことを止めてしまうことがあります。人間の考え、人間的な計画をもって、神様の御計画を押しとどめようとしてしまうようなことはないでしょうか。神の約束を待つことは忍耐がいります。人間の心は揺らぎます。サラは、人間として、自分も夫も子供を産むことのできる年齢をとうに越えていましたので、子供を生む可能性が失われることを怖れました。

そして神を抜きにして、神様の祝福の約束を無視して、自分の思いと自分の決断で、合理的な方法で子供をもうけました。パウロは、このハガルとの間に生まれた子を、肉によって生まれた女奴隷の子であると言っています。それは律法による古い生き方、肉による人間の知識や習慣によって子供をもうける方法であり、神の約束によるものではないと言っています。

パウロから言わせると、人生がそれだけならば、それは肉から生まれた女奴隷の生涯ということになります。律法の奴隷になって、人生すべて「ねばならない」という世界の中にある人間の姿です。ですから、律法、律法と聖書に良く出てきますが、これはユダヤ人だけの言葉ではなく、神なしで自分の力で何とか子供をもうけようとする人間の現実の姿ではないかと思います。

2.神の約束によって生まれた自由な子

ガラテヤ書4:22から読んでみましょう。「アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産むほうは、シナイ山による契約を表していて、これがハガルです。このハガルは、アラビヤではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷になっているからです。他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これは私たちの母です。なぜなら、次のように書いてあるからです。『喜べ、子を産まない不妊の女よ、喜びの声をあげて叫べ、産みの苦しみを知らない女よ。一人残された女が夫ある女よりも、多くの子を産むから。』」(ガラテヤ4:22~27)

女奴隷ハガルという名は、アラビヤ語ではシナイ山を指すとパウロは言っています。つまりシナイ山でイスラエルの民に与えられたシナイ律法、十戒のことを意味しています。これは十戒という律法に束縛されているユダヤ人のことを指します。そして現在のエルサレムは、この律法の奴隷になっていると言っています。

他方、天のエルサレムがあって、これは約束の子イサクを生んだサラのことを指しています。この神の約束を信じて、神の子を産む女性のことを自由な身の女であり、これこそ私たちの信仰の母であると言っています。ハガルは、神の約束によらずに、自分の計画、自分の予想、自分の思いによって事を運ぼうとする肉の母を代表しています。一方、サラは神の約束を信じて待ち続けた信仰の母のき姿として述べられています。肉によって子供を産むことではなく、霊によって産む子供の母です。奴隷ではなく、自由な身の女であり、天にあるエルサレムを指していると言っています。

地上の肉の母と天上の霊の母、肉から生まれる者と霊から生まれる者です。私たちはこの二人の母をもっているように思います。ガッツ石松のお母さんが、こう言っていたそうです。ガッツさんが非行に走って母を悲しませたことがありました。その時、お母さんが、「わたしは、石松の体を産むことはできるが、心を産むことはできない。」と。母は、そういう意味で、子供の体を産む時にも苦しみ、子供の心を産む時にももう一度苦しむことがあります。

キリストの十字架によって、その血の苦しみによって新しく生まれ生まれ変わった者は、主にあって自由とされたものなのです。結婚してもいいし、しなくてもいい、子供を産んでもいいし、産まなくてもいいのです。そんなことに縛られてはいないのです。できればわたしのように、独り身の方がいいとパウロは言っています。主にあってはすべてが自由なのです。こうあらねばならないという律法という、法律や習慣やならわしから解放されているのです。

パウロはここで、イザヤ書54:1の御言葉を引用しています。「喜べ、子を産まない不妊の女よ、喜びの声をあげて叫べ、産みの苦しみを知らない女よ。一人取り残された女が夫ある女よりも、多くの子を産むから。」と。この言葉は、あの有名な苦難の僕としてのイエス様の十字架を預言したイザヤ書53章のすぐ後に述べられている言葉です。つまり、イエス・キリストの十字架と復活によって、神の救いが成就した暁には、今までのように肉の子供を何が何でももうけねばならないという時代はもはや終わった、これからは肉の子供ではなく天から与えられる霊の子供の出産の時代が来るということを預言したものです。

不妊の女が多くの子をもつ、産みの苦しみを知らない女の方が、多くの子供を持つ時代が来るというのです。それは、血筋によらず、肉によらず、ただ神の約束によるところの霊の子供の誕生の時代だからです。これこそ約束の子を宿したサラの子孫なのです。アブラハムの子供なのです。ガラテヤ教会の信徒も、また私たち富里教会の信徒も、同じアブラハムとサラを霊の父、霊の母として持つ者なのです。

3.神の約束は必ず実現する

最後に、パウロが、あなたがたはイサクの場合と同じように約束の子ですから、せっかく自由の身となったのですから、もう二度と奴隷の身に戻ってはいけませんと言ました。これは、神様の救いの御計画を決して人間の知恵や力で推し進めてはいけないということを戒めたものです。約束された方は真実な方ですから、必ずその約束を実現して下さいます。それを人間的な技術や方法を講じて実行してはならないというのです。そして、そのような人間的な考えた方策を排除して、ただ間の約束を信じて従う信仰が求められております。

最後に一つの証をして終わりたいと思います。それは、説教の冒頭でもお話させていただきましたが、エベリン・オーエン宣教師のことです。彼女は、青年時代に結婚を考えるような男性と交際しておりました。しかし、その後、彼女は宣教師になる道を選び、日本にやって来ました。そして、東京、福岡、大津で良き働きをされ、わたしをはじめ多くのバプテストの伝道者を生み出しました。私は高校生の時の特伝で、決心した時だけの人でしたが、その名前だけはずっと記憶に残っていました。

家内は良く、「あなたのその日本人離れした熱心な伝道心はどこから来たのでしょうか。」と不思議に思っておりました。今思えば、その時の女性宣教師のスピリットが、高校生の時に分け与えられたのかもしれません。そして、オーエン先生は50年にわたる日本での伝道活動を終えて、引退してアメリカに帰りました。そうしましたら、かつて結婚まで考えたハーブ・エッガー兄弟と偶然、教会関係のミニストリーで出会いました。ハーブさんは、その時、結婚をしていましたが、奥様と死別され独り身になっていました。

そして二人で祈っている間に、ハーブさんは、何か彼女の助けになることができるかどうか尋ねました。そうしましたら、祈りのミニストリーを日本で立ち上げるための手助けが必要だということでした。そして、年をとってからは一人よりも二人の方が働きやすいということで、二人は、50年の時を隔てて結婚を果たしました。そして、祈りのミニストリーである「エリヤハウスジャパン」を立ち上げるために再び、宣教師夫妻として日本に来られました。そして、五年間、日本で働かれて、ハーブさんは2009年、オーエン先生は昨年の2012年に天に召されました。

結婚する時には、オーエン先生は大分迷ったとのことです。自分が若い時、宣教師になる決心をして日本に来る時には、もう生涯絶対結婚はしないと心に決めたそうです。しかし、その結婚をしないという決心が、実は自分にとっての律法ではなかっただろうかと考えたそうです。結婚するのも自由、結婚しないのも自由です。真の自由は、キリストにあって、キリストの栄光が現されることではないだろうかと考え、結婚して再び日本に行く道を選んだとのことです。

本当にオーエン先生は、日本に来られて、結婚しないで伝道に励まれ、多くの霊の子を産みました。そして、今もその霊の子どもが全国で主の福音宣教のために働いて、霊の孫を産んでおります。私もその約束の子供の一人であることをうれしく思いました。そして、神様の約束は決して空しくは終わらないということです。クリスチャンの人生は、必ずおまけがあります。プレミアムがつく人生です。生涯、結婚すまいと決心したオーエン先生が、まさかかつての恋人と結婚を果たして、もう一度日本に宣教に来るなんて、そういう人生があると誰が想像できたでしょうか。もうここで私の人生が終わったと言うところから始まる、聖霊の働きによるすばらしい不思議な人生が待っています。
                     (岡田 久)

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