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二つ分の霊を下さい (列王記下2:6~14)

メッセージ

2016年9月4日富里キリスト教会

「二つ分の霊を下さい」
(列王記下2:6~14)

1.あなたを離れません

「主が嵐を起こしてエリヤを天に上げられた時のことである。エリヤはエリシャを連れてギルガルを出た。エリヤはエリシャに、『主はわたしをベテルまでお遣わしになるが、あなたはここに留まっていなさい。』と言った。しかしエリシャは、『主は生きておられ、あなたご自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません。』と答えたので、二人はベテルに下って行った。」(列王記下2:1~2)

そしてベテルに来てから、エリヤは次にエリコに行きました。その時にも、同じような会話をしています。そしてエリコからヨルダンに、更に進むわけですが、その時も同じような会話をしております。エリヤが、エリシャに「あなたはここに留まりなさい」と三回も言っています。ですがエリシャは、「わたしはあなたから離れません」と言ってどこまでも師の後について行きました。

注解書には、これはエリヤがエリシャを試したのではないかとありました。師匠から、ついて来なくてもいいよと言われて、はい解りましたそれではついて行きませんというようでは、真剣さがないのではないかというのです。あるいはエリシャは、自分が果たしてあの大預言者エリヤの後継者になれるだろうかという不安があったのではないでしょうか。まだ自分は預言者として訓練中だし、まだ預言者群のリーダーとしての自信がなかったのではないかとも考えられます。ですから、恩師のエリヤから預言の賜物を確実に継承したいと思ったのではないでしょうか。

エリヤは弟子のエリシャを拒むことによって、預言者の覚悟、真剣さを試したのではないでしょうか。すぐについて来ないようでは、本当に求めていないということです。拒まれても、拒まれても、それでもなお食い下がってついて来ているのです。エリヤは、そのエリシャの信仰を試したのではないかと思います。エリシャがエリヤの後継者として、これから伝道の働きをするためには、何かもっと確かなもの、エリヤに与えられた霊の賜物、預言者としての霊の力を、確実に受けたいと思って食い下がったのではないかと思います。

霊の賜物は棚ぼた式ではないのです。黙っていても与えられません。必死に食い下がらなければなりません。自分から、わたしにくれるまでは「わたしはなたを離れません」と言わなければならないのです。あのヤコブが神と相撲を取ったように、神ととことん取っ組み合いのけんかをしてまでも、手に入れなければ受けることはできません。そのことを、この別れの出来事が教えているような気がします。

2.二つ分の霊を下さい

そしてヨルダン川に差し掛かって、いよいよエリヤが、離れる時に、彼は弟子のエリシャにこう言いました。「エリヤが外套を脱いで丸め、それで水を打つと、水が左右に分かれたので、彼ら二人は乾いた土の上を渡って行った。渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。『わたしがあなたのもとから取り去られる前に、あなたのために何をしようか。何なりと願いなさい。』エリシャは、『あなたの二つ分の霊をわたしに受け継がせて下さい。』と言った。エリヤは言った。『あなたは難しい願いをする。わたしのもとから取り去られるのをあなたが見れば、願いはかなえられる。もし見なければ、願いはかなえられない。』」(列王記下2:8~10)

エリシャは師のエリヤから初めて、「あなたのためになにをしようか、なんなりと言いなさい。」という言葉をいただきました。やはりエリシャは、師匠のこの言葉を待っていたのではないでしょうか。「何が欲しいのか。願いなさい。」という言葉です。そこでエリシャは、待っていましたとばかりにエリヤにこう言いました。「あなたの霊の二つの分を、わたしに受け継がせて下さい。」と。

ここではっきりしましたね。エリシャが欲しかったのは、師匠の形見の品ではなかったのです。師匠のトレードマークだった、毛皮の上着ではなかったのです。師であるエリヤに神様から与えられた霊の賜物をエリシャは欲しかったのです。それは目に見えない祈りの賜物です。しかも神の奇蹟を起こす祈りです。壺の粉と瓶の油を絶やすことなく湧きあがらせる力です。雨を降らせたり、日照りにさせたりする超自然的な奇跡の力です。それは祈りです。そのような祈りの力をエリシャは、エリヤに求めたのです。

先週、H姉からお葉書をいただきました。「昨年の五月15日から一ヵ月間心房細動(慢性心不全)で八戸の日赤から成田の日赤に通い、そしてここ塩見の聖路加病院では、股関節の手術をして人工関節を入れていただきました。お蔭様で足もすっかり良くなり、11月には北海道の余市教会、それから九州の枚方教会へと宣教師を尋ねて行きたいと思っていますので、どうぞわたしのFBを見て下さい。」とのことでした。やはりあの藤田さんの伝道スピリットは、かつての南部バプテストの宣教師から受け継いだものだと思った次第です。

エリシャは、「あなたの霊の二つ分をわたしに受け継がせて下さい。」(2:9)と言ったのです。二つ分の霊と言いますのは、単純にエリヤの持っている霊の二倍を下さいという意味でもあります。また二倍の遺産と言いますのは、長男に与えられた特権であり、その家の正統な後継者という意味もあります。預言者エリヤの正統な後継者としての力を与えて下さい。そしてエリヤよりももって大きな霊の力を与えて下さいという願いです。そしてそれは、願わなければ与えられません。

そして具体的にはどんな二つ分の霊かと言いますと、まずエリヤは預言者です。ですから「預言の霊」が一つです。預言と言いますのは、未来を預言することもありますが、読んで字のごとく、神の言葉を預かることです。そしてその御言葉を大胆に語ることです。これが預言者の預言の霊です。パウロもこう言っています。「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。」「皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。」(Ⅰコリント14:1、31)と。

そしてもう一つは祈りの霊です。御言葉の水をびしょびしょになるくらい、自分の祈りの祭壇に注ぎかけるのです。つまり祈るときには、必ず御言葉を読んでから、主に祈り、主の御心を求めることです。水の祭壇を築くことです。神の御言葉を預かってそれを語る霊と、御言葉によって奇跡を引き起こす祈りの霊です。この二つが、エリシャが願い求めた預言者の霊ではないでしょうか。

しかし、最終的に二つ分の霊を与えて下さるのは神様ですから、いくらエリヤが欲しいと言ってもできるものではありません。ですからエリヤはこう言いました。「あなたは難しい願いをする。」(2:10)と。エリシャがいくら熱心にエリヤについて行っても、この霊の賜物だけは先生であるエリヤが与えるのではなく、最終的には神様が下さるものです。ただわたしたちは、祈り求めることはできます。イエス様も「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。門をたたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)と言いました。求めるならば与えられます。そしてそれは神様から来るものです。

3.エリヤの昇天

その後エリヤは、弟子のエリシャが二つ分の霊を受けるための条件を言いました。それが次の言葉です。「エリヤは言った。『あなたは難しい願いをする。わたしがあなたのもとから取り去られるのをあなたが見れば、願いはかなえられる。もし見なければ願いはかなえられない。』彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現われ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った。エリシャはこれを見て、『わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ。』と叫んだが、もうエリヤは見えなかった。エリシャは自分の衣をつかんで二つに引き裂いた。」(2:10~12)

エリヤが述べた条件とは、「エリヤがエリシャから引き離されて天に上る姿を見たなら、あなたには二つ分の霊の賜物が与えられます、しかし、もしそれを見なければ与えられません。」と言うことです。二つの霊を受けることのできるしるしとして与えられたのが、エリヤの昇天でした。そうして彼らが話しながら歩いていると、突然火の戦車と馬が現われて、二人の間を分けました。そしてエリヤはそれに乗って、嵐の中を天に上って行きました。エリシャは思わず、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ!」と叫んだのです。

これは万軍の主の象徴だと言われています。万軍の主の力がエリヤを、瞬く間に天に引き揚げられました。当然エリヤは生きたままで、天に上って行ったのです。あの創世記のエノクのように、またモーセがピスガの山に上って行って、その姿が見つからなかったように。エリヤも突然、勢いよく万軍の神の力によって天に上って行ったのです。

それはあの主イエスが、オリーブ山から天に上って行かれたのと同じことでした。(ルカ24:50~51、使徒言行録1:9)つまりこのエリヤの昇天は、主イエス・キリストの復活と召天のことを預言し、表しているのです。そして、このエリヤが火の戦車で昇って行ったということは、エリヤは復活にあずかって、彼自身も死を経験しないで天に引き揚げられたということを意味しています。そしてこのエリヤの復活と召天を見たものは、まぎれもなくエリヤの後継者たる預言者だということなのです。正真正銘の神の預言者だということです。そして、この復活のエリヤを見ない者は、二つ分の霊をいただいていないということになります。

実際、この後、預言者の仲間が、エリヤ先生の死体を回収させて下さい。と無理矢理エリシャにお願いして、エリシャガ引き止めるのを押しのけて、自分たちで遺体を探し回りました。しかし三日間探しても見つかりませんでした。(2:15~18)この三日という数字も、完全に見つからなかったということと、あの主が死んで復活するまで三日間の日にちがかかったということと一致しているところがあります。

他の預言者たちには、火の馬に乗って天にかけ上って行ったエリヤの姿が見えていませんでした。ですから、一生懸命この世の中に先生の遺体を探したのです。「主の霊が彼(エリヤ)を運び去り、どこかの山か谷に投げ落としたかもしれません。」(2:16)と言ってエリシャに食い下がりました。復活したということを信じられない時には、まだ二つ分の霊が与えられていないと言っても過言ではないでしょう。霊のことよりも肉体のことが心配なのです。死体がどっかにあると信じていました。天に帰ったということが信じられないのです。彼らは、死んだ後に霊の体に復活するということがまだ信じられませんでした。

私たちにとりましても、やはり復活の主と出会わなければ、そして、主は既に天に上って行かれたということを確信しなければ、預言することはできません。預言とはこの復活の主を証することです。復活された主、天に上られて、今はその体は見えませんが、生きておられてやがて来られるということを信じていなければ、預言はできません。わたしたちは求めることはできます。しかし、その霊の賜物は上から来るのです。地上から来る力として求めている限りは与えられません。目に見えない上からの神の下さる賜物として、目に見えないものです。

目に見えるもの、肉体をもった方を求めるのではなく、目に見えない霊を、二つ分の霊を求めましょう。「御言葉による祈りの霊」と「御言葉を宣べ伝える霊」です。「わたしにも二つの霊を下さい。」と単純に祈り求めればいいのです。そうすれば与えられます。子供のように、ただ単純に信じて求めればいいのです。
エリシャのように、主が下さるまで、必死に食い下がるのです。「主は生きておられ、あなたご自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません。」と言って、どこまでもついて行きましょう。そして「あなたの二つ分の霊をわたしに受け継がせて下さい。」と祈りましょう

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