ようこそ、富里キリスト教会の公式ホームページへ

二つの道・ダビデとサウル (サムエル記26:6~11)

メッセージ

012年7月8日富里キリスト教会
「二つの道・ダビデとサウル」
サムエル記上26:6~11)

1.ダビデの試練

「ダビデとアビシャイは夜になって兵士に近寄った。サウルは幕営の中に横になって眠り込んでおり、彼の槍はその枕もとの地面に突き刺してあった。アブネルも兵士もその周りで眠っていた。アビシャイはダビデに言った。『神は、今日、敵をあなたの手に渡されました。さあ、わたしに槍の一突きで彼を刺し殺させて下さい。一度でしとめます。』ダビデはアビシャイに言った。『殺してはならない。主が油注がれた方に手をかければ、罰を受けずには済まない。』更に言った。『主は生きておられる。主がサウルを打たれるだろう。時が来て死ぬか、戦に出て殺されるかだ。主が油を注がれた方に、わたしが手をかけることを主は決してお許しにならない。今は、枕もとの槍と水差しを取って立ち去ろう。』ダビデはサウルの枕もとから槍と水差しを取り、彼らは立ち去った。見ていた者も、気づいた者も、目を覚ました者もなかった。主から送られた深い眠りが彼らを襲い、全員眠り込んでいた。」(サムエル記上26:6~11)

ダビデにとっては、敵を討つ絶好のチャンスです。実はこういう場面は、以前にもありました。今回で二度目です。それはダビデたちが隠れているエン・ゲディの洞穴に、よりによって、ダビデを倒そうと追って来たサウルが用を足しに中に入ったのです。サウルが、たった一人でいる所を討つことはたやすいことでした。しかし、この時もダビデは、主が油注がれた方を手にかけることは、主が許されないと言って殺すことはしませんでした。しかし、後でサウルの上着の切れ端を見せて、自分がサウルに危害を加える者でないことを証明し、忠誠心を示しました。(サムエル上24章)

その時サウルは、ダビデの恩に感謝して涙を流して、ダビデのことを褒めます。しかし、本当の悔い改めには至っていませんでした。ですから、ほとぼりがさめるとまた、ダビデの命を狙って討伐隊を出してきたのでした。そして今回も、神様の導きによって、ダビデの手中に陥ってしまったのです。ダビデの従者のアビシャイは、自分にサウルを一突きに殺させて下さいと言いました。しかし、ダビデは、勢いづく兵士をとどめて、「主が油注がれた方に手をかけてはいけない」と言って、枕もとにあった槍と水差しだけを取って、引き返して行きました。

眠っている政敵である王を倒すかどうか、この選択をダビデは迫られましたが、信仰をもって、その場面を乗り切りました。普通でしたら、これこそ神が備えて下さった千載一遇のチャンスだと思って、討ち取っていたかもしれません。でも、ダビデは、主に油注がれて聖別された人に手をかけることはしませんでした。もし、自分がサウルを殺したら、それは神に対する反逆だと思ったからです。

神が、一度は選び、聖別した人を殺めることは正しいことではないし、神の選びを自分が否定するという大それた行為だと思われました。この時、主に試されていたのは、サウルではなくダビデの方ではなかったでしょうか。裁くのは自分ではなく、主が裁かれるということです。そして、ダビデは裁きを主の手に委ねました。

2.サウルの道

サウルは涙を流しながら、自分を救ってくれたダビデに感謝し、彼の正しい行いをほめたたえています。しかし、それでも、ひとたび熱さがのど元を過ぎると、またダビデの命を狙い始めるのです。私はここに人間が、心から悔い改めることの難しさを見る思いです。サウルは、「わたしが悪かった。わたしが愚かだった。大きな過ちを犯した。」と何度も自分の非を告白しています。しかし、それでもまたダビデを憎んでしまうのです。自分の非を認めつつも、それを悔い改めることができずにまた繰り返してしまう、まるで私たちの現実の姿を見る思いです。

人間の罪が、こんなにも激しく根深いものだということを見せつけられてしまいます。あれほどの神に愛され、選ばれた器であるにもかかわらず、こんなにも変われるものでしょうか。サウルはいつも、「私、私、私」という思いがありました。「わたしがイスラエルを守る、わたしがイスラエルを治める、わたしがサウル家を王の一族にする、わたしがヨナタンを王にする、わたしがペリシテ軍に勝利する。」と。いつの間にか、神の王国ではなく、サウルが支配するサウルの王国になってしまっていたような気がします。

もし、サウルが、これらは主が与えたものだと主に栄光を帰すならば、ダビデに対する異常なまでの競争心とねたみにさいなまされることもなかったでしょう。神様の選びですから、他人を見る必要はありません。しかし、私たちの周りにも、同じようなことが起こります。自分より下のものがいつの間にか上に昇ったり、後から入信した人が、どんどん賜物が与えられて用いられたりしますと誰でもねたむ心は出てきます。

私、私という思いが強くなってきますと心も病んできます。私というのは周囲から見たわたしなのです。神様から見た私ならば、恐れも劣等感も恥ずかしさもありません。この神様から目が離れる時、私たちは周囲に目が行き、心が病んできます。心が傷つくのは、プライドが高かったり、自我が強かったりして、物事が思うようにならない時に心がおれてしまうことです。自分の限界や不十分さや弱さを認めれば、安心し、他人をも同じように受け入れることができるのですが、自分のありのままの姿を受け入れることができないでいると、自分を傷つけたり相手を傷つけたりします。いろんなトラブルの原因は、ここにあると思います。

悪霊がサウルを悩ませたというのは、人を見たり、周りを見て不安と恐れの感情が起こり、そこにサタンが働きやすい心の状態になり、ダビデに槍を投げつけてしまうのです。ですから、まず大切なことは、まず神様に目を向けると言うことです。横を見ずに上を見上げることです。人を見るのではなく、神を見上げるのです。ダビデはいつも、上におられる主を見上げていました。ですから、「主が油注がれた方に手をかけること」を思いとどまることができたのです。

4.ダビデの道

この時、一思いにダビデがサウルを殺してしまえば、もう逃亡生活をしなくてもいいし、自分たちも助かるし、もしかしたらイスラエルの王になることもできたはずです。ダビデの側にサウルを討つ大義はありました。しかし、ダビデに注がれた神の霊は、今回もサウルを殺すことを禁じました。「主が油注がれた方に手をかけてはならない。主が許さない」と言うのです。

自分がなにも悪いことをしていないのに、非難されたりすることがあります。人の妬みをかって、思いがけない攻撃を突然受けることもあるでしょう。自分を守らなければなりません。そのためには正当防衛で、相手に反撃を加えることもあるかもしれません。まさに、ダビデの場合は正当防衛でした。サウルの命を取っても誰も反論する者はいないでしょう。

しかし、ダビデは常に、神様の前で自分はどうなのかということを考えていました。主はこのことを喜ばれるだろうか、人間が人を裁いてもいいのだろうか、しかも一度は主から油を注がれ聖別された人物です。そういう人を、いかなる理由であれ、自分の手で殺してしまうことは正しいことなのかと考えました。自分は神に選ばれたものであるということは誰でも信じることができます。でも、あの人も神に選ばれた人だ、神に愛されている人だということまでは考えることは難しいのではないでしょうか。ましてや、自分の命を狙って追い詰めているのです。

パウロもこう言っています。「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。・・愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『「復讐は私のすること、わたしが報復する。」と主は言われる。』と書いてあります。『あなたの敵が飢えたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。』悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマ12:17~21)と。主はダビデが、サウルをどうするのか見るために、サウル軍全体に深い眠りを送られたのです。

私はダビデが、何故かくまでも、サウルを手にかけることを躊躇し、何度もサウルに出会って、自分の身の潔白を証明し、サウルが二度と自分の命を狙うことのないように進言しているのかということです。自分の命が狙われ、殺される目に会いながらも悔い改めることを訴えている姿を見て、本当にこういう人物はいるのだろうかとさえ思いました。

ダビデは、サウルが心底悔い改めて、主の前に立ちかえることを願っていたのではないでしょうか。そしてまた神様も、何度もダビデに助けられつつも、また自分という暗闇に引き込まれて行ってしまうサウルの痛々しい王の姿を、同じような憐れみの目で見ていたのではないでしょうか。26:25節の後半が「ダビデは自分の道を行き、サウルは自分の場所に戻って行った。」という短い言葉で終わっています。残念ながら、これは二人の行く道が、どこまでも交じり合うことなく、それぞれ別の道を歩んで行ったということを言っているような気がしてなりません。私たちも、サウルの道ではなく、ダビデの道を選びとって行く者となることを願っています。            (岡田 久)

powered by Quick Homepage Maker 4.50
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional