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主イエスを信じなさい (使徒言行録16:25~34)

メッセージ

2012年4月22日富里キリスト教会
「主イエスを信じなさい」
(使徒言行録16:25~34)

1.真夜中の賛美と祈り

「この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。」(使徒言行録16:24~25)

パウロとシラスは、何も悪いことをしていないのに鞭打たれ、一番奥の真っ暗な、じめじめした暗い頑丈な牢に入れられてしまいました。しかも、足には足枷をはめられていました。牢に入れただけではなく、逃げないように丁寧にも足枷までかけられてしまいました。これは一方的な、不当逮捕であり、不当な監禁です。

二人は、背中の傷の痛みの故に、夜、眠ることさえできませんでした。すると、どうしたことでしょう。二人は、真夜中に牢屋の中で賛美歌を歌い始めました。当時も、わたしたちが今使っているような新生讃美歌があったのではないでしょうか。彼らは、歌詞を覚えている曲を数曲歌ったと思います。「慈しみ深き、友なるイエス」でしょうか、「アメイジング・グレイス」でしょうか。真夜中に、二人の歌う讃美の声が、フィリピの牢屋の中に静かに流れました。

そうです。たとえ、足枷をかけられても、牢屋に閉じ込められても、手を縛られても、わたしたちの心と口は縛ることはできません。手に何にもなくても、またどこへ連れて行かれましても、クリスチャンの戦いの武器は、この心と口から出る賛美と祈りの声です。誰も私たちの心と唇を縛ることはできません。そして、この心と口がある限り、私達は誰に対しても、どこにいても神様に助けを求めることができます。

マザー・テレサが、パレスチナ地方に行きました。検問所で兵士が持ち物の検査をしました。「あなたは武器を持っていませんか?」と尋ねましたら、マザーは「はい持っています。」と答えました。一瞬、兵士が身構えましたが、すかさずマザーは、「わたしの武器は、祈りです。」と答えたというのです。

そうです。クリスチャンの最強の武器は、祈りです。この口がある限り、心がある限り、私達はどこでも私たちの司令官であり、万物の支配者である神様に祈ることができます。そして、神様に賛美を捧げることもできます。誰もこの口と心に手錠も足枷もかけることはできません。私達には賛美と祈りという最大の武器があり、この口から神様に向かって賛美の歌声を捧げ、感謝の祈りの声をあげることができるのです。

しかも時間は、真夜中です。一番暗い時間帯です。これは今の時代を指しています。でも闇が暗くなればなるほど、夜明けが近づいているのです。今はそういう時代ですから、光の武具であるキリストを着て、光の武器である賛美と祈りを持って前進しようとパウロは勧めています。(ローマ13:11~12)賛美と祈りこそ、私たちの最大の武器です。たとえ、両手両足を縛られても、四面楚歌の真っ暗闇の中に置かれるようなことがありましても、私達には神への賛美と祈りがあります。誰もこれを奪い取ることはできません。

2.人生の土台を揺り動かす神

そして神様は、必ずわたし達の祈りと賛美に答えて下さるお方です。どのようにしてでしょうか。それは地震を通してです。これは別に、昨年の大震災が神様の手によるものだということではありません。神様は、人生の問題や悩みという大きな地震を通して、その人の人生を根本から激しく揺さぶられるということです。

いったい人生ってなんだ、生きるということは何だ、この地球に未来はあるのか、なんで自分だけが生き残ったのだ。という根本的な問いが、一人一人に問われた出来事ではなかったでしょうか。人生はもっとまじめに生きなければならない。生きることについての意味を、普段から真剣に問うべきだった。日本中が、神が果たしておられるのか、死とは何かといった根本的な問いを突き付けられたのではないでしょうか。

今朝の聖書の場面もそうです。突然の地震が襲いました。26節から読んでみましょう。「突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。」(16:26~27)

突然の地震によって、牢の土台が揺れ動いて、扉が開き、囚人たちをつないでいた鎖も全部外れてしまいました。看守は、てっきり全員が逃げてしまったと思い、とっさに自分の責任を感じて自害しようとしました。とても責任感の強い人だったようです。当時は、囚人を逃がした場合には看守がその責任を負わせられて、死罪になりました。この責任感の強い真面目な看守にとっては、まさに青天の霹靂です。人災ではなく天災です。人間の力ではどうしようもできないことですが、看守にとっては、自分の責任を取らされて死を覚悟しなければなりませんでした。

このように、私達も突然の災害や不幸や事故によって、人生の真っ暗闇に突き落とされることがあります。その時、当事者の取る道は自殺です。人間が自分で自分の答えを見出そうとする時に、最もありがちなことが自殺、自死ではないでしょうか。この看守のように、自分で責任を取って自殺する場合もあるでしょうし、この突然の災害によって答えを見出せなくて思い余って自殺する人もあるでしょう。人間は弱いです。いつでもそのような死と隣り合わせで生きています。真っ暗闇の時代です。看守の人生は、その土台から揺さぶられました。しかし、実は、そこにすでに光が射しこんでいるという事実もあったのです。死と隣り合わせの闇の中に、光も差し込んでいたのです。それが、次の出来事です。

3.主イエスを信じなさい(人生の揺るがない土台)

「パウロは大声で叫んだ。『自害してはいけない。私たちは皆ここにいる。』看守は、灯りを持ってこさせて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外に連れ出して行った。『先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。』二人は言った。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。』そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。」(16:28~31)

看守にとっては、信じられないことでした。囚人が一人も逃げないで牢の中にいるとは。まさに九死に一生を得たとはこのことです。自分が今日、自分の手で何度も鞭打ったあの人が、自分のために逃亡することなく、牢に留まってくれた。信じられないことが起こりました。そして、看守は、思わず灯りを手に取って牢の中に駆け込んだのでした。彼は瞬時にして、この人たちは罪を犯してはいない、いや間違っていたのはこの自分だということを悟りました。

このパウロの堂々とした正しい行為によって、彼は初めて自分のしたことが間違っていたことを示され、「どうしたらこの自分の罪から救われることができるのだろうか」と尋ねました。パウロは、言いました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と。今は危機的な時代です。人類だけではなく、この地球さえどうなるか分からない時代です。そして科学者の方が、人類の最期を科学的に予想しています。しかし、人間はいつまでもこの世界が続くと信じています。今は終わりの時です。しかし、神は、一人でも多くの人が、一日でも早く救いにあずかることを願って、その最後の審判の時を忍耐をもって遅らせておられます。

先週の週報に書きましたが、昨年の地震で、一つだけ良いことがありました。
そして自分自身もどうなるだろうかという不安さえ感じました。うち続く余震で、夜眠れないのです。その時、聖書の一説が頭に浮かんできました。「主よ、わたしを安らかにおらせて下さるのは、ただあなただけです。」(詩編4:8)という言葉です。そしてこの御言葉を、毎晩唱えてから休みました。この御言葉によって、何とか不眠から守られたのです。人間眠れないということほどつらいことはありません。

そして、この体験を通して、私たちを守って下さるのは、イエス・キリスト様しかいないという確信を与えられたのです。私たちが必死の思いで、この方にすがる時、このお方がどんな中でも守って下さるという確信です。イエス様だけが安らかにおらせて下さる。イエス様だけが私たちを救って下さる。どんな事故や災害や悩みの中でも、このお方だけにより頼み、信じて従って行けば大丈夫という確信です。なぜなら、私たちは既に救いにあずかっているからです。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます!」という御言葉の通りです。救いはイエス様にあります。平安も助けも慰めもイエス様の中にあります。このお方を除いて、天下のどこにも救いはありません。
そして私たちには、このお方がおられるということです。たとえ地震で家の下敷きになっても、津波にのみこまれるような時があっても、放射能にさらされるようなことがありましても、主イエス様を信じましょう。そこに私たちの救いがあり、助けがあり、希望があります。

4.神を喜ぶ聖家族

「まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐにバプテスマを受けた。この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。」
                      (16:33~34)

パウロはこの後、看守とその家族の者全員に神の言葉を語りました。そして、真夜中にもかかわらず、この看守の家族の者は全員バプテスマを受けました。ここに救われた家族の姿が生き生きと描かれています。看守はパウロの打ち傷を洗って、自分の罪の償いをしました。そしてバプテスマを受けました。真夜中のバプテスマです。そしてこの後、自分の家に案内して一緒に食事をして、神を信じる者になったことをともどもに喜びました。

すべて、これらのことはその夜のうちに行われました。つまり、これは今の時代を指しています。今は、夜の暗闇の支配する時代です。でも、教会は、御言葉が語られるところです。そしてお互いに傷を洗いあう場所です。つまり、お互いに罪を告白して、赦し合う群れだということです。そして信じた者はバプテスマを受けます。伝道者を自分の家に案内して、一緒に食事をします。そしてお互いに信仰をいただいたことを喜び合う群れです。真夜中にもかかわらず、この看守の家は光と喜びと感謝で家の中が満ち溢れていました。「看守の家の教会」の誕生です。これが私たちの教会です。

夜が明けると同時に、今までのことがすべて白日の下にさらされて、裁きがなされました。高官たちは、自分たちから出て来て、ローマの市民権を持つパウロに深々と謝罪をしました。すべてが太陽の光のもとに明らかにされたのです。
「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」というこの言葉は真実です。このわたし達の救い主イエス・キリスト様を信じて、常に賛美と感謝の祈りを持って歩んでゆきましょう。     (岡田 久)

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