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主イエスにある勝利の人生 (第一ヨハネ5・1~5)

メッセージ

2010年7月25日富里教会
「主イエスにある勝利の人生」
(第一ヨハネ5:1~5)

1. はじめに

先日、韓国から、元北朝鮮の工作員だった、金賢妃死刑囚が来日しました。そして横田めぐみさんのお母さんや田口八重子さんの息子さんと会見しました。めぐみさんのお母さんはクリスチャンだと聞いておりますが、彼女の人生は自分の愛娘めぐみさんの救出の人生であったといっても過言ではないと思います。突然、わが子を奪われた母として、その心境はいかばかりかと、察するに余りあります。

でも聖書は、私たちに対して、また横田さきえさんに対しても、悪の世に打ち勝つ勝利の信仰を語っております。第一ヨハネ5:1~5までを読んで見ましょう。「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつでも、神の子供たちを愛します。神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」

今朝は、この御言葉の中から、勝利の人生を送る秘訣として、三つの点をあげさせていただきました。一つは、御言葉による勝利の人生、二つ目は、祈りによる勝利の人生、そして三つ目は、失敗による勝利の人生についてお話させていただきたいと思います。

2. 御言葉による勝利の人生

まず最初に、御言葉による勝利の人生についてお話したいと思います。「信仰」という字は、左側には「人」という字が来ています。そして右側には「言」という言葉からできております。すなわち、「信」というのは、人間である私たちと「言=ロゴス」であるイエス・キリスト様が一緒にいること、これが信仰です。しかも私たちの方から、イエス様のそばに行ったのではなく、イエス様のほうから私たちのほうに近づいてきてくださって、一緒になってくださったのです。イエス様が救い主であると信じる者は、神から生まれた者であり、神から生まれた者は世に打ち勝つのです。世に勝利する者、それはイエス・キリストを信じる者なのです。

問題のある家庭に育った一人のアメリカ人の方のあかしをさせていただきたいと思います。彼の両親は二人ともアルコール依存症で、父親は母親を何度となく虐待していました。両親が離婚した後、彼は祖父母のもとに預けられました。それから彼もまた、アルコールと麻薬におぼれるようになり、盗みで初めて逮捕され、その後は刑務所に出たり入ったりの生活が続きました。そして、43歳の時に、彼は「矯正不可能な犯罪人」という理由で、終身刑を宣告され、もはや刑務所を出ることはできないと言い渡されました。

ある日彼は刑務所で、一人の囚人からメモを渡されました。そのメモには、その囚人の神に対する救いの短いあかしが書いてありました。その短いメモのようなあかしを読んだ時のことを、彼は後日こう語っています。「あのメモを読んだ時、私は聖書を手にとって読んでみました。そして、イエス・キリストはこのどうしようもない矯正不可能な私のような人間のためにも、死んでくださったことが解りました。それまでは、『自分は善人ではないから救われるはずがない』と思っていましたが、イエス様が『私はお前を赦す』と語りかけてくださっているのに気がつきました。そして私は、イエスを私の人生と生活の主として受け入れバプテスマを受けました。」と。そして、彼がバプテスマを受けた3ヵ月後、ワシントン州の最高裁判所は、彼の上告を認め、厳密な法解釈をした上で、下級裁判所でなされた判決を覆して、彼を釈放したのでした。

社会にもどった彼は、「あなたがもし釈放されたら、お手伝いします」というプリズンフェローシップという団体の助けを受けて、住まいと職場を世話してもらいました。そしてその職場で、妻となる女性とも出会い、教会にも通うようになりました。そして、二人で「マスターライフ」を学ぶようになりました。彼は、「弟子の十字架」を見たとき、「自分がこの世にあってどのように生きるべきかを、教えてもらったような気がします」と話してくれました。その後彼は、刑務所の囚人へのミニストリーを始めるようにと神様から召しを受け、服役中の人や服役後の人達にマスターライフを用いた働きをしました。

「聖書はすべて神の霊の導きのもとに書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような良い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」(Ⅱテモテ3:16~17)神様のみ言葉は真理です。私たちはこの真理であり光である御言葉の道をとる時、勝利へと導かれます。上の聖霊の窓を開けるか、下のこの世の肉の窓を開けるかは私たちにゆだねられています。神の御言葉を愛するもの、神のみ言葉を守る者は、この世の力、罪と滅びの力に勝利することができます。この信仰こそ、世に勝利する神の力です。その御言葉の方から、私たちのそばに近づいて来て下さっているのです。「信仰」の「信」という言葉の形をいつも心にとどめて歩む者となりたいです。

3. 祈りによる勝利

第二の勝利の秘訣は、祈りによる勝利です。もう一度、囚人であった一人のアメリカ人の話を思い出して見ましょう。彼が救われたプロセスについて、手を使ってもう一度、説明してみましょう。

①人間の創造・・・右手が神様、左手が人間です。神様は、天地創造の時に人間をご自分の姿に似せて造られました。(この時、手を開いて向き合せるが、人間の左手は少し下に置く。)人間は、神より少し劣る者として創造されました。
そして、エデンの園でいつも神様と向き合って生きていました。

②人間の罪=堕罪・・・アダムは園の木の実を食べて、神様の戒めに背き、罪を犯しました。その結果、心をかたくなにして神から離れ背を向けてしまいました。これが人間の罪です。心を自分から閉ざしてしまいました。そして神から離れてしまったこと(分離)です。(この時、左手を丸めて、右手から離す。)
これが罪の状態です。刑法上の罪を問うているのではありません。

③十字架の救い・・・しかし、神はこの人間のために御一人子イエス・キリストを遣わされました。(この時、右手の3本の指を開け、三位一体の神を示す。その中の人差し指が、子なる神イエス・キリストであり、この神を人間のもとに遣わしますと言いながら、左のこぶしを右の手でつかむ。)これがキリストの十字架の死であり、私たちの罪を覆い隠すために主は罪もろともに死んでくださり、神の罰を私たちの身代わりとなって、その身に受けて死んで下さいました。(そしてゆっくりと両手を下に下げる。)

④復活・・・そして主イエス・キリストは三日目に死人の中より甦られました。こうして主は、復活を通して、罪と死と悪魔に勝利されたのです。(左手は握ったままで、右手を開いて、一緒に持ち上げる。)イエス・キリストを信じる者は誰でも、この十字架と復活によって、罪赦され、永遠の命にあずかることができるのです。

⑤信仰生活・・・私たちは罪を持ったままでも、イエス・キリストを信じる信仰によって救われています。でもまだ罪がありますので、心は閉ざされたままかも知れません。でも、主はこの私たちの全て罪もろとも覆い尽くしてくださり、キリストに似たものへと造り替えてくださいます。これが信仰生活であり、聖化の過程です。(握った左手を、右手でつかんで斜め上に引き上げる)イエス様が私たちを引き上げて下さるのです。さあ、この手の形を見てください。何に見えますか?そうです。祈りの手です。このようにして、私たちは、祈りを通して少しづつ少しづつ、キリストに似るものへと造りかえられて行くのです。ですから信仰生活とは、祈りの生活といっても過言ではありません。

⑥天国・・・そして、最終的にはもとのように、神の創造の世界、救いが完成された世界、天国へと帰って行くことができるのです。神様を顔と顔を合わせてみることができます。(両手を合わせるようにする。)これが救いの完成の時であり、最終的なゴールです。

神様によって捕らえられ、救われ、やがて天国へと帰って行くまでが祈りの生活です。信仰生活です。「信仰」の「信」の字は、先ほども言いましたが、人と言(=キリスト)が共に並んでいる生活です。でも、この手を見てください。ただ並んでいるのではなく、キリスト様の方が私たちを掴んで離さないのです。祈りとはそういうことです。たとえ私たちが祈れない時があっても、神様がしっかりとつかまえていて助けて下さっているのです。これが祈りです。祈っているのは私たちではなく、私たちの心の中にいてうめきながらでも祈っていてくださる聖霊様なんです。

「御霊みずからが、言葉に表わせない切なるうめきを持って、私たちのためにとりなして下さるからである。」(ローマ8:26b)この聖霊様の祈りが、神様に届き、万事を益として下さる神様の手によって、私たちを勝利へと導いて下さるのです。このうめくような聖霊様の祈りが、最後の勝利へと私たちを導いて下さいます。この祈りを通して、私たちは勝利の人生を送ることができるのではないでしょうか。

4.失敗の勝利

最後に、勝利の人生、それはまず失敗するところにあるということです。人生はいつも、勝利、成功、喜びだけではありません。いろんな挫折、失敗、嘆き、孤独、苦しみの方が多いといってもいいかも知れません。そしてイエス様御自身も、地上での生活の時には多くの悩みや苦しみを経験されました。

キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その恐れ敬う態度の故に聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」(ヘブライ5:7~8)とあります。人の目から見たならば、イエス・キリストこそ人生の失敗者だったと言ってもいいかも知れません。生きている時は、本当に何も良いことがなかった、最後には民衆に、そして最愛の弟子たちにさえ裏切られ、いわば非業の最期を遂げ、磔にかけられてしまった罪人でしかありませんでした。この世の人の目にはそう見えたでしょう。

でもその苦しみと孤独と侮辱の中で、主は一人で父なる神様にとりなしの祈りを捧げ続けられました。ゲッセマネの園で、十字架のうえで、一人孤独の中で、人々の嘲りの中で、祈り続けました。その失敗と挫折の中の祈りにおいて、父なる神様が語りかけ慰められたのです。あの孤独の中に神様がいて下さり、あの苦しみの真っ只中にこそ、お父様の答えがあったのではないでしょうか。

私も60年くらいの人生ですが、本当に苦しみに会い、孤独に悩み、行き詰まり、挫折と失敗を経験してきました。でも、今思うとその時に神様が一番近くにいて下さったような気がします。私の傲慢な心、自己中心的な考えと言うものを打ち砕くために、神様は私に多くに試練と失敗を経験させられたのかもしれません。今では、そのような艱難や苦しみを少しは神様の視点から意味を考え、受け止めることができるようになったのではないかと、思えるようになりました。なぜなら、それはやがて来たるべく、輝かしい栄光の時のための準備だということがわかってきたからです。

主イエスにある勝利の人生の秘訣、それは失敗を恐れないことです。いや、失敗こそ人生の最高の教師です。試練の時こそ、「信仰」の「信」の字の意味がよく解るのではないでしょうか。そのことを通して主の御臨在がより近くに感じ、このことを通して祈ることのすばらしさが見えてくるのではないでしょうか。

                              岡田 久

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