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主よ、助けてください (マタイ14:22~33)

メッセージ
2017年2月26日富里キリスト教会

「主よ、助けて下さい」
(マタイ14:22~33)

あらすじ

今朝は、ペテロが海の上を歩くという奇跡的な出来事のお話です。イエス様でしたら、海の上を渡って行くことは可能かもしれませんが、人間の中で海の上を歩いた最初の人は、この弟子のペテロでした。五つのパンと二匹の魚で、五千人の群衆を養ったという奇跡の出来事の後、イエス様は、この興奮した群衆と弟子達を御自分でわざわざ引き離すようにして、船に乗せて向こう岸へ出発させました。そして御自分は群衆を解散させてから、一人で祈るために山に上って行かれました。その前に、嫌がる弟子たちを無理やり船に乗せて、これから暗くなろうとしているガリラヤ湖に「強いて」船出させたのです。

ここにもイエス様の神の国運動は、群衆を扇動して反体制運動を起こし、この地上に神の国を実現させるというものではありませんでした。もともと群衆とか大衆とか民衆というのは、イエス様と関係のない人々です。むしろ、そういう団体は、人間の罪を隠すためにはもってこいの人の群れなのかもしれません。イエス様にとって、神の国運動というのは、群衆、大衆を後にして、教会という船に乗って天国という向こう岸に、イエス様と一緒に行くことでした。

舟が岸から離れてから、案の定、突然の風が山から吹き降ろしてきました。先週も天気になったかともうと、突然大風が吹いてきたように、このガリラヤ湖の気候はいつも不安定でめまぐるしく変わります。舟が逆風に悩まされて、にっちもさっちもいかなくなっているのを、山上で見ておられた主は、湖の上を歩いて舟の方に向かって歩いて行かれました。ところが嵐で気が動転していた弟子達は、せっかく主が来て下さったのに、恐怖のあまり「幽霊だ!」と言って叫び声をあげる始末でした。その彼らに対して主は「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と声をかけて下さいました。

すると安心したペテロは、主に向かって「わたしを水の上を歩いて、そちらに行かせて下さい。」とお願いしたのです。主が「来なさい。」と言いますと、ペテロは恐る恐る水の上に足を出して歩きはじめました。しかし、途中で波風を見て怖くなり、イエス様から目が離れてしまったのでしょう。ブクブクと沈み込み始めたのです。そして「主よ、助けて下さい。」と必死に助けを求めて叫びました。すると、主はすぐに手を伸ばして、ペテロを水から引き上げて下さり、一緒に船に乗り込みますと、風は止みました。今朝はここから、1.ペテロの目線、2.主よ助けて下さい、3.主の伸ばした手という三つのテーマに沿って、ご一緒に考えてみたいと思います。

1.ペテロの目線

ある牧師がこう言いました。「問題や試練のない教会はない。どこの教会も必ず嵐が襲ってくる。でも教会はそういう嵐の中で、主イエスを呼び求め、主イエスに助けを求めて、主の御言葉を聞きながら、主を教会の中に迎え入れて、イエスと共に目的を目指して行く共同体である。」と。この教会の真の船長であるイエス・キリストから目を離すことなく、このお方をいつも見上げつつ、このお方の御声を聞きながら共に行く時に、目的地に到着することができるのです。

ペテロはここで二回も失敗しています。最初は、波風と一緒に海の上を歩いてくるイエス様を見ていました。そして、「幽霊だ!」と叫びました。そしてイエス様が語りかける声を聞いて初めて彼らは安心したのです。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」(14:27)と主は話しかけられました。つまりイエス様の話しかける声を聞いて初めて安心するのです。信仰は見ることではなく、聞くことからは始まります。嵐の中で主の御言葉を聞き分けることが大事です。しかも信仰は、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。(ローマ10:17)キリスト見るのではなく、聞くことによって初めて平安が与えられるのです。

ところがペテロは、この主の言葉を聞いたにもかかわらず、次にどうしたかといいますと、「主よ、あなたでしたら、わたしに命じて、水の上を歩いてそちらに生かせて下さい。」(14:28)と言いました。先週も祈祷会で、何でペテロはこんなことを言ったのだろうかと言うことが問題になりました。皆さんはどう思いますか?ペテロはなぜ、こんな冒険ともつかないようなことを願い出たのでしょうか。わたしは、これは彼の照れ隠しではないかと思いました。さっきまで、自分がリーダーであるというプライドも忘れて、恐怖の声をあげて右往左往していた男です。弟子達の手前もあったのでしょうか、名誉を挽回しようとして、こんな冒険みたいなことを願い出たのではないでしょうか。

彼の目はまだ、横を見ています。仲間の視線が気になったのです。リーダーとして、皆にいいところを見せよう、信仰深い自分を証明しようとしたのではないでしょうか。「わたしはこんな信仰のない弟子達とは違う。」という誇りがありました。つまり、本当の嵐の原因は、ここにもあったのです。舟の外ではなく、船の中にもあったのです。教会の外よりも、嵐の原因は教会の中にあった、ペテロの心の中にあったと考えてもいいのではないでしょうか。弟子たち同士の主導権争いという人間の心の嵐が、イエス様を見えなくしておりました。

そして彼の行動はいつもパーフォマンスでした。みんなよりはよく見せよう、見てもらいたい、評価して欲しいという気持ちでいっぱいだったのです。それがこのとんでもない冒険的な衝動的な行為へと彼を駆り立てたのです。彼の心の中が、いつも仲間との比較で動揺していたのです。嵐の原因はそこにあったのです。皆さんの目はどこを見ていますか。イエス様を見ていますか?それとも仲間を見ているでしょうか。上を見ていますか、それとも横を見ていますか?弟子たち同士の競争と比較に、いつもあくせくしていることはないでしょうか。少しでも自分を良く見てもらおうと、背伸びしていることはないですか。

この嵐の中で、主の御声を聞き分けると言うことはなかなか難しいかもしれません。先ほど「教会は試練の中を貫いて、イエスと共に目的地を目指して行く船だ」と言いましたが、それはイエスを見ると言うことではなく、イエスの御声を聞くと言うことによってなされる旅なのです。主を見ている限りでは、目は嵐の方に向いてしまいます。波風の方が目につくのです。現実の問題が、わたしたちの目を奪うのです。ヨハネ6:21では、「イエスを舟に迎え入れようとした」だけで、目的地に着きました。教会がイエスの御言葉に耳を傾けようとしただけで、目的地に着くのです。主の御言葉を聞くというところに教会の生命線があるのです。これが教会の命綱なのです。

2.主よ、助けて下さい

ペテロのこの衝動的冒険的な行動を見てみましょう。「イエスはすぐに彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』すると、ペテロが答えた。『主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに生かせて下さい。』イエスが『来なさい』と言われたのでペテロは船から降りて水の上を歩き、イエスのほうへ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けて下さい。」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、何故疑ったのか』と言われた。」
(マタイ14:28~31)

ペテロは案の定、途中で波風を見てしまい、イエス様から目を離してしまいました。そしてそのとたんに、彼は水の中に沈みかけてしまったのです。「叫んだ」とありますから、おそらく水の中に浮き沈みしながら、もがきながら必死の思いで手を伸ばして助けを求めたに違いありません。これでもう自分の信仰も人生も生活も、すべて終わってしまったと一瞬思ったかもしれません。

ここでペテロは、更に信仰についての訓練を受けたのです。何か偉大なことをすること、何か奇跡を行うことこれが信仰だと考えていました。その点において、自分は弟子達のリーダーだと思ったのではないでしょうか。リーダーとしてのプライドです。しかし、彼はそれができませんでした。足もとの波風に目が行って、それどころではなかったのです。主から目が離れ、瞬く間に沈みかけたのです。沈みかける不信仰な自分、信仰の薄い自分、信仰の弱い自分、そういう自分の本当の姿を見せつけられてしまいました。彼ができたことは、ただ一つ、「主よ、助けて下さい。(Lord save me!)」と叫ぶことでした。これしか言えなかったのです。

でも彼は、この二重の試練を通して、信仰とは何かと言うことを学んだのではないかとおもいます。何かをしたからではありません。何か大きな奇跡ができた、水の上を歩いたという奇跡ができたから信仰があるというのではないのです。信仰の一番の教訓は、本当に海の中に沈み込んで行くしかない自分、罪の深みに沈むしかない自分、我こそはと自分を誇り、自分を過信し、自分の力に頼ってしまう自己中心的な自分、沈んでしまうしかない罪深い自分、そういう自分に気がつくことです。つまり、罪人の自分に気づくことです。罪のゆえに死ぬしかない自分、弱い自分に気づくことではないでしょうか。

その自分が言えることは、「そこまで行かせて下さい」ではなく、ただ必死に「主よ、お助け下さい。」という言葉だけなんです。「我を救いたまえ」という祈りのみなのです。ギリシャ語も英語も「助けて下さい=help me」ではなく、「save me=わたしをお救い下さい」となっています。これが本当の信仰です。「主よ、わたしをお救い下さい」です。嵐からの救助ではなく、罪からの救いなのです。これが真の信仰であり、これが変わることのない教会の普遍的な祈りだと言うことを、主はペテロに教えたかったのではないでしょうか。ペテロを、教会の将来の信仰の頭とするために教えられたのではないかと思います。「主よ、我らを救いたまえ。」これがわたしたちの祈りなのです。教会の祈りなのです。

3.主の伸ばした手

31節に「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。」とあります。ここで主はペテロのことを「信仰の薄い者」と言っています。信仰が薄いと言うことは、別な言い方では、疑っている人のことです。おそらくこの時ペテロは、水に沈みかけながら、「もうだめだ死んでしまう」と思ったことでしょう。自分は助からないと思っている人です。罪の故に主を信じきれないで、沈んでしまう人のことを信仰の薄い人だと言っています。でも、ペテロはここで、もう必死に「主よ、お助け下さい。」と叫びました。自分のプライドも恥も外聞も忘れて、無我夢中で叫んだに違いありません。これが信仰の薄い人の姿です。でもそこから、真の信仰の祈りになって行くのです。「ダメだ」と思ったところから信仰が始まって行くのです。

聖書を良く見て下さい。そういう信仰の薄い人でも、主イエスはどうされましたか。三つの動作で答えました。それは「すぐに」「手を伸ばして」「捕まえた」という動作です。つまりイエス様は、そういう信仰の薄い者でも、その人が必死に藁をもつかむ思いで、助けを求めるならば、必ず来て下さるのです。そしてすぐに、そばに行って強い腕と伸ばした手を持って、その罪人を死の水の中から引き上げて下さるお方なのです。

口では「お前は信仰が薄いなあ。まだ未熟で信じ切れず疑ってしまう弱い弟子だな。」と言いつつも、そういう弱いわたしたちをしっかりと掴んでくださるのが、わたしたちのイエス様なのです。「何だ、口ほどでもない。」と言って、わたしたちを突き放したりしたでしょうか。「ガッカリしたよ」と言って、見捨てたでしょうか。そうではありません。そういう弱いわたしたちを、不信仰な私たちを、主は伸ばした腕と力強い大きな手をもって、しっかりと捕まえて下さったのです。

ペテロは今回だけではなく、何度も何度もイエス様を困らせました。口では良いことを言いますが、実践が伴わないのです。すぐに横を見たり、人を見たり、人と比べたりしてしまうわたしたちです。優越感と劣等感の両方を持ったわたしたちです。そういう罪深いわたしたちであって、いつでも駆け寄ってきて、腕を伸ばして手を差し出して引き上げて下さるお方です。わたしたちの襟首をつかんで、罪の中から力強く引き上げて下さるお方なのです。

この沈みゆくペテロの助けを求めて伸ばした手と、その手をつかんで引き上げる主の強い手、このタテの関係が大事なのです。横を見ないで、助けを求めて上を見上げましょう。いつも主を見上げて賛美と感謝を献げて行きましょう。「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえた。」とあります。「すぐに」です。間髪をいれずに主は、ただちに介入して来て下さるのです。たとえ海の上でありまして、火の中でありまして、暗闇の中でありましても、失敗と挫折と孤独の中にありましても、主はすぐにわたしたちのところに来て下さいます。聖霊様として。幽霊のように、霊としてどこでもわたしたちのそばに来て下さいます。そして語りかけ、話しかけて下さいます。

祈りましょう。「信仰の薄いわたしたちです。主よ、すぐに来て助けて下さい。」と。イエス様を見上げて、聖霊様を通してイエス様が天から降りて来て、この富里キリスト教会という小さな小舟に乗り込んでくださるよう祈りましょう。それが「主よ、助けてください!」という教会の祈りです。ペテロは図らずも、全世界の教会の声を代表して叫んだのです。わたしたちも叫びましょう。「主よ、助けて下さい。主よ、救って下さい。主よ、来て下さい。この富里教会という小さな船の中に。」と。

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