ようこそ、富里キリスト教会の公式ホームページへ

主は子ロバに乗って (マタイ21:1~11)

メッセージ
2017年3月12日富里キリスト教会

「主は子ロバに乗って」
(マタイ21:1~11)

1.ロバと子ロバを引いて来なさい

「一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。『向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしの所に引いて来なさい。もし、誰かが何か言ったら、「主がお入り用なのです」と言いなさい。すぐ渡してくれる。』それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『シオンの娘に告げよ。「見よ。お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。」』」(マタイ21:1~5)

このマタイによる福音書のほうでは、お母さんロバと子ロバを引いて来てその上にイエス様が乗りました。どちらのロバに乗ったのかは書かれていません。しかし、他のマルコ、ルカ、ヨハネの福音書には、「まだ人を載せたことのない子ロバを引いて来て、その上に乗った。」(マルコ11:2)とあります。おそらく、四つの福音書のうち、三つまでが「子ロバの上に乗った」とありますから、実際は、イエス様はまだ人を乗せたことのない、未経験の子ロバの上に乗って入城されたのではないかと思います。

ではなぜ、マタイは子ロバと書かないで、あたかも母ロバに乗って入城されたかのように記しているのでしょうか。確かに常識的に考えて、人を載せたことのない子ロバ、しかもまだ小さいロバです。それに大の大人が乗ると言うことは、子ロバにとっては酷な話ではないでしょうか。それよりはイエス様はお母さんロバに乗って、そしてその後を子ロバがついて行ったと言うことの方が、納得がゆくような気がします。

そしてもしこのロバと子ロバが、わたしたちクリスチャンを表していると言うのであれば、一体どのように考えたらいいでしょうか。他の二つの福音書には「まだ誰も乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。」(マルコ11:2、ルカ19:30)と、イエス様が言ったとあります。このことが事実だとしますと、イエスさまは、まだ未経験な子供のような、人を乗せる力もないような子ロバを必要とされるということになります。

人を載せる力がまだない、未経験だ、そういう子ロバのような人をイエス様は御自分を乗せて運ばれる働き人、奉仕者として用いると言うことでしょうか。これは軍馬のように馬力があり、何でも勢いよくこなし、リーダーシップのある人ではなく、未経験の力のない人を必要とされると言うことです。わたしはあれができます、これができますという人ではなく、わたしは何もできません経験がありません、力不足ですという人をお入り用とされるというのです。

そしてマタイの方は、子ロバだけではなく、お母さんロバも一緒に連れて行きました。他の三つの福音書は全部、子ロバだけを連れて行っています。マタイはどういうわけかお母さんロバ(お父さんかも知れませんが…。)も一緒に連れて行きました。そしてどっちにイエス様が乗ったということは書いていませんが、親子を必要とされたのです。

と言うことは、イエス様は子ロバのほうを用いようとしていましたが、その子ロバと一緒にお母さんロバもついて来なさいと言ったのではないでしょうか。子供が心配で、お母さんは離したくなかったかもしれません。そのように親子の関係を引き裂かないように、お母さんロバにも同じような従順さ、何もできないけれども、わたしを用いて下さいという信仰を求めたのではないでしょうか。マタイによる福音書では、子供だけではなく親の信仰と従順も同時に求められているような気がします。

確かにそうですね。神様は長男のイエス様を母マリヤから引き離しました。そしてイエス様が子ロバとして、福音を乗せて行く伝道の働きをしました。そして母マリヤは、自分の息子の後をついてきたわけです。ですから、お母さんも何もできなくていいのです。わたしがこの子の代わりに働いて、この子を敵から守りますというのではなく、子供の方が親を守るのです。「お母さんあなたも何もできない、力のない、未経験なままでいいんです、あなたも一緒に子供について来なさい」と言われたのではないでしょうか。

イエス様自身、そのような何にもできない経験のない、力のない小さなロバでした。そう言った時にお母さんは何と答えるでしょうか。「神様、うちの子はまだ力不足です。経験がありません。神様をお乗せする能力がありません。まだまだわたしの養育が必要です。保護者が必要です。わたしが育てなければなりません。もうちょっと大きくなってから、一人前になってからお捧げします。」というでしょうか。連れて行かないように、お願いするでしょうか。

大事なことは、そのロバの能力ではないのです。ロバの力や経験ではないのです。ロバの都合ではないのです。神様の選びであり、神様が主体なのです。主の必要なのです。「主がお入り用なのです。」(マタイ21:3)ここにわたしたちの献身と奉仕の根拠があります。

2.主がお入り用なのです

わたしたちが召されて主に仕えるようになったことの根拠は唯一つ、ここにあります。それは「主がお入り用なのです。」(21:3)という言葉です。つまりわたしたちが主に召されて、ある人は伝道、ある人は教育、ある人は献金、ある人は奉仕の働きができるのは、私達がそれに会った能力を持っているのではなく、ただひとえに、主がわたしを必要としていると言うことです。「主がお入り用です」という言葉は少し丁寧な言葉ですが、英語では「Lord needs 
them」とう言葉です。つまり「主が必要としている」と言うことなのです。

たとえ、まだ人を乗せたことがない経験のない人でも、イエス様が必要としているならば、その任務のためにイエス様が用いて下さるのです。いかがでしょうか、皆さんの中に自分はそんな器ではない、経験がない、まだ自分は伝道できない、お話しできない、司会ができないと思って引っ込み思案になっている人はいないでしょうか。あるいは「いやわたしは今は、子育て中だからできない、いやわたしは子供の教育がある、夫の世話がある」と言って、主の必要を断っている人はいないでしょうか。

イエス様は、準備ができた人、整った人を求めているのではありません。むしろ子育て中の人、仕事をしている人、勉強で忙しい人であっても、必要な時には必要ですと言って用いられるお方です。この主の召しに対して、行きたくない、行かせたくないという人はいるでしょう。「何でうちのロバを連れて行くのか?」とロバの主人は止めました。でも、「イエス様が必要なのです」と言ったら、持ち主はそのロバを貸してくれました。

イエス様は、今わたしたち一人一人に、「I need you」とおっしゃっておられます。「わたしを乗せて行ってくれる人はいないのか」と。「あなたが必要なのだ」と言っておられます。自分は何もできないと思っている人はいませんか。自分にはそんな力はないと思っている人はいませんか。自分は何の経験もない、教会生活も伝道もまだまだと思っている人はいませんか。でもイエス様は、そういう何もできない人、初心者、未経験の人を求めているのです。子ロバのほうを必要としているのです。

そして大事なことは、あれができるこれができるではなく、「主よ私はここにおります、どうぞ何もできないわたしですが、あなたが用いて下さい、あなたが必要として下さい、あなたが必要としていることなら何でもできます、させて下さい。」と祈ってみることではないでしょうか。そうして祈りつつ時を見ているならば、必ず主はわたしたちを用いて下さいます。それは何だかわかりませんが、主が必要とされる働きがあります。

3.服と木の枝を敷く

このようにして、主イエスは子ロバに乗って、大勢の群衆の歓呼の声の中、神殿の門から中に入城してゆきました。最後に8節を読んでみます。「大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。』」
(マタイ21:8~9)

「ホサナ」という言葉は、「今、我らを救いたまえ。」という意味の言葉です。群衆が歓呼するにはもってこいの言葉です。(ホサナ合唱)そして人々が道に敷いた服と木の枝と言いますのは、服を脱いで道に敷くと言うことは、あなたに従いますという完全服従と忠誠を表す行為です。木の枝と言いますのは、この地方になっていた棕櫚の葉ではないかと言われています。教会の周りにもありますが、先が分かれたうちわのような形をした枝です。これを道に敷いて、王様の前進を守ると言いますか、道備えをすることです。

これは何を意味するかと言いますと、イエス様の行進、すなわち神の国が前進するためには、イエス様だけではなく、イエス様を囲んでいろんな人々がその道を備えて行くと言うことです。ある人は子ロバとして、イエス様を乗せしてキリストの福音を宣べ伝えて行く働きをする、またある人は自分の大切なものを主に献げて神の国を前進させる働きをする。またある人は棕櫚の葉のように、主イエスの行進を賛美を持って導いて行く働きをする。いろんな人々のいろんな奉仕によって、イエス様の国は前進して行くと言うことを示しているのではないでしょうか。

一人の魂が救われるためには、イエス・キリストの福音を背負って人々の心の中に運び入れる人、その福音が入りやすくするために、礼拝や集会の場所を整える人、またその福音が前進するためにお金を出して必要な場所や食事を準備してくださる人、いろんな人の奉仕と手助けによって、イエス・キリストの福音が前進して行くのです。一人一人の心の中に届けられてゆくのです。そのようないろんな働きを主は必要とされているのです。そしてついには、人々の心の門に近づき、その人の心の扉を開いて中に入城し、一人の魂の救いを成し遂げ、神の国がその人に訪れるのです。

未経験でもいいのです。力がなくてもいいのです。ただ大事なことは、主よ、あなたの必要のために、このわたしを用いて下さいと祈ることです。福音のために、福音が前進するために、この小さな子ロバのようなわたしを用いて下さいと祈ることが大事なのではないでしょうか。そこに神様の力が働き、聖霊様が豊かに臨んでくださいます。そこにイエス様を王とする神の国の救いが前進して行くのです。共に「ホサナ、今我らを救いたまえ」と声をあげて叫びましょう。     

powered by Quick Homepage Maker 4.50
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional