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主の過越 (出エジプト記12:1~13)

メッセージ

2011年9月4日富里キリスト教会
「主の過越」
(出エジプト記12:1~13)
1.家の柱と鴨居に子羊の血を塗る
キリストの十字架の血の贖い)

「エジプトの国で、主はモーセとアロンに言われた。『この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい。イスラエルの共同体全体に次のように告げなさい。「今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに子羊を一匹用意しなければならない。もし、家族が少人数で子羊一匹を食べきれない場合には、隣の家族と共に、人数に見合うものを用意し、めいめいの食べる量に見合う子羊を選ばねばならない。その子羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。用意するのは羊でも山羊でもよい。それは、この月の14日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、子羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。」』」(12:1~7)

このエジプトを脱出する日、これはイスラエルにとりまして、新しい神の救いの歴史的な第一歩になるというのです。そして、その脱出の日を記念し、これを年の初め、正月として新しい生活へと踏み出すことを命じました。暦も変えてしまったというのです。そして家族で、その月の10日に一歳の雄の子羊を用意し、10日から14日まで取り分けておいて、14日の夕暮に子羊を屠って夜に食べなさいと命じました。そして14日に子羊を屠殺した時に、その血を鉢にとって、ヒソプで家の二本の柱と鴨居に血を塗りなさいと命じました。これは何を意味しているのかと申しますと、わたしは二つの意味があるのではないかと思います。

一つは、イエス・キリストが十字架の上で流された贖いの血潮です。家の柱とは、十字架の縦の棒の部分です。即ち、神と人間を結ぶ線です。そして家の鴨居と言いますのは、横の棒です。即ち、人々との和解を表します。ですから、二本の柱の縦の棒と横の棒がやがて組み合わさって、十字架を表すわけですが、ここでは家の柱と鴨居という二本の棒の組み合わせをもって、十字架の贖いの血を示しています。

もちろん、この一歳の雄の子羊というのは、神の子羊なるイエス・キリストのことを表しております(ヨハネ1:36)。1月10日から14日まで、子羊を取り分けておくということは、4日間の準備期間があるのですが、これは、イエスのエルサレム入場から十字架刑までの間の最後の4日間とみることもできます。そして夕暮に屠ると言いますが、ユダヤ人にとりましては夕暮れとは午後3時からの時間帯のことで、イエス様がちょうど十字架の上で息を引き取った時間を意味しています。ですから、この過越しの食事はすべてイエス・キリストの十字架の救いの出来事を指し示しており、神の救いの歴史的な始まりと言っても過言ではないと思います。週報にも書きましたが、これを神学的な言葉で予型あるいは予表と言います。

そして、家の入り口に血を塗ることの二つ目の意味は、その家族が救われるということを意味しています。皆さんは、家の玄関の柱に何を見ますか。(間)
そうですね。家の柱には、その家の表札がかかっています。つまり柱に血を塗るということは、その家、その家族が全員救われる、家族の救いを意味しています。表札には、その家の人の名前が記されています。家族の救いをこの入口の血は意味しています。あるいは教会という神の家族のことかも知れません。

12:22からを読んでみましょう「そして一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝まで誰も家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。」(12:22~23)

ですから、誰も主の災いが過ぎ越すまで、この家から、この神の家族である教会から外へ出てはいけないと言っています。もし迷いだす者があれば、その人はエジプト人と一緒に滅ぼされてしまいます。そして、血を塗る時にはヒソプの枝を束ねたものを使いました。それは、イエス様が十字架にかかった時に、兵士がヒソプの枝に酸っぱい葡萄酒をしみこませて差し出したことを思い出させます(ヨハネ19:29)。この柱と鴨居の子羊の血は、イエス・キリストの十字架の救いを表しているのです。そしてこれがイスラエルの救いの始まりであり、新しい信仰生活への出発だということです。

3.種なしパンを苦菜と共に食べる
(父なる神の御言葉)

次にどうしたかと言いますと、その子羊の肉を焼いて食べ、苦菜と一緒にして種の入っていないパンと共に食べました。12:8にこうあります。「そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。肉は生で食べたり、煮て食べてはならない。必ず、頭も四肢も内蔵も切り離さずに火で焼かねばならないそれを翌朝まで残しておいてはならない。翌朝まで残った場合には焼却する。」(12:8~10) 

3時ころ子羊を屠って、夜はこの子羊の肉を食べました。その時に、種なしパンに苦菜を添えて食べました。これは、パン種はパンを膨らませるという意味から、人間の傲慢な心を意味しています。パウロがⅠコリント5:7~8で「キリストが私たちの過越しの子羊として屠られたからです。古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越しを祝おうではありませんか。」と言っているように、私たちも、傲慢な心や邪悪な心で交わりをするのではなく、純粋な汚れのない心で互いに交わりをすることを示しています。そのパン種、酵母菌の入っていない純粋なパンはイエス・キリストの御言葉から来るものです。この悪い種の入っていない純粋なパンを共に食することによって生かされ、主にある良き交わりをすることができるのです。

12:15に「七日の間、あなたたちは酵母を入れないパンを食べる。まず、祭りの最初の日に家から酵母を取り除く。この日から第七日までの間に酵母入りのパンを食べたものは、すべてイスラエルから絶たれる。」とあります。これはイエス・キリストの十字架の贖いによって救われた者は、純粋な神の御言葉を食べる訓練を一週間行うということではないでしょうか。

多少苦くて、自分の口に合わない、味がないパンだと思っても、このパン種の入っていない純粋な神の御言葉を少しづつ食べることによって、霊的に成長してゆくということを意味しています。また、「ごうや」のような苦い植物と一緒にパンを食べるということは、自分の過去の苦い罪を思い出し、悔い改めを持って御言葉を食べ続けるということです。良い習慣が身につくまでは時間がかかりますが、これは私たちの日々のデボーション、成長の時間の大切さと訓練を命じたものだと思います。

4.解体しないで火で焼く(聖霊の聖め)

そして、羊の肉を食べる時にも規定がありました。それは「生で食べたり、煮て食べてはならない」ということです。さらに、頭、四肢、内臓も解体してバラバラにせず、そのまま一つの体として焼いて肉を食べる。そして残った部分は、翌朝までに焼却処分をしなければなりませんでした。

なぜ生はだめなのでしょうか。また、煮てもだめなのでしょうか。先般も牛肉店で出した生の牛肉で大きな被害が出ました。亡くなった方もおられます。つまり生は、菌が付着している可能性があります。パン種の入っていないパンのように、余分なもの、邪悪のものが混じっている危険性があります。それは火で焼かれて殺菌されなければならないのです。

つまり、火というのは聖霊の火です。神の霊で清められる必要があるのです。イエス様は、最初、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられました。その時天が開けて、聖霊が鳩のように下って来ました。そして、「これは私の愛する子、御心にかなう者である。」(マルコ1:9~11)という声がありました。これは、父なる神様から、我が子であるという承認をいただいたものです。聖霊なるお方は、炎を通して御子を聖め、神の子という保証を授けてくださったのです。罪のない完全な贖いの供え物であると認証されたのです。これが火で焼くということではないかと思います。

ですから、キリストの体は神の霊である火をもって焼かれなければならなかったのです。鍋を使って煮てもだめです。つまりこれは、神とキリストの間に鉄という文化や科学を媒介させてはいけないということを意味しています。人間の手を介して、味付けがされたりしておいしくする必要はないのです。聖霊の炎は、直接、人に働かれることを示しています。人間の手がそこに入ってはいけないのです。それが、鉄鍋やレンジを使って肉を煮てはいけないということの意味ではないでしょうか。

また、子羊の手足や頭、内臓を解体してバラバラに離してはいけないと命じました。これは、一つの体を食べることによって、キリストの体である教会の一致を示しています。邪悪なパン種を取り除き、聖霊で聖められた一つのキリストの体を食べることによって、私たちも主にあって一つだということを、教会ごとにその場で確認し合うのです。これが過越しの食事の言わんとすることです。

そして、食べ残した肉や部分を、そのまま残しておかないで、朝までには全部焼いてしまうことが命じられました。これは、過越しが完全に終了したということです。つまり、イエス・キリストの十字架の贖いの業が、これで成就した、成し遂げられた、完了したということを意味しています。イエス様が十字架の上で「すべてが成し遂げられた。」(ヨハネ19:30)と言って息を引き取ったように、これで神の救いの業は完了したことになるのであって、未完了のまま朝までやり残してはいけないということです。

5.血を見たならば

最後に、13節の御言葉を読んで終わりたいと思います。「あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。」(12:13)

神様は、私たちの家の柱と鴨居に塗った御子イエス・キリストの血を御覧になられます。そして、その柱と鴨居の両方に、すなわちイエス・キリストの十字架の血が塗られているならば、その家を通り過ごされると言われました。過ぎ越すことをヘブライ語で「ペサハー」といいますが、これは眠っている人を起こさないように静かにまたいでゆくような動作と言われています。英語では「パスオーバー」(=Passover)といいます。

ですから、主は、私達の心の門に塗られているイエスの血潮をじっくりと御覧になり、血が塗られているならば、その人のそばを通り過ぎ、もし、塗られていなければ、神がわたし達に代わってその人と戦い、その人を撃ち滅ぼされるというのです。私たちはどうでしょうか。お一人お一人の心の入り口に子羊の血が塗られているでしょうか。これは「イエス・キリストはわたしの罪のために十字架にかかって死んでくださいました。私はこのお方の贖いの血が必要です。」という方には、その心の入り口に血が塗られることになります。そして神様は、この血を見て、災いを降さずに通り過ぎてくださるのです。

私たちは今日、この後、十字架中の血を塗るだけではなく、主の晩餐式を通して飲もうとしています。また、キリストの体である命のパンもいただこうとしております。これは私たちの罪が贖われたことを記念して行う、教会の礼典の一つであります「主の晩餐式」です。そしてこれはどなたにでも開かれているものです。聖書がよく解るからとか、よい行いをしたとかというものではなりません。滅ぶしかない私達の罪のために、身代わりになって死んでくださり、その血を通して、私たちの罪をあがなって下さった神の子羊イエス・キリストの恵みの血なのです。神様は、その御子の血をわたし達の心の入り口に見て、私たちを過ぎ越して下さるのです。

このイエスの血に私たちを救う力があるのです。神の怒りを過ぎ越させ、滅びから私たちを救う驚くべき力です。救いの力です。神の驚くべき恵みです。わたしには子羊の血は必要ありませんと言える人はいるでしょうか。誰でもキリストの血を必要としています。自分の罪を悔い改めて、主を心にお迎えする人には、十分にしたたるほどに主はその血を注ぎかけて下さいます。今がその時です。子の救いの力ある十字架の血を、今日受けてください。信じない者ではなく、信じるものになりましょう。             (岡田 久)

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