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主の足元に座って-マルタとマリア- (ルカ10:38~42)

メッセージ

2012年1月22日富里キリスト教会
「主の足もとに座ってーマルタとマリアー」
(ルカ10:38~42)

1.二つの迎え方

ルカ10:38から読んでみましょう。「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」(10:38~39)

ここに、イエス様に対する信仰が、はっきりと区別されて描かれています。姉のマルタは、イエス様を自分の「家」にお迎えしました。姉は一生懸命接待の準備をして忙しくしています。イエス様のお話どころではありません。人数分の皿を準備したり、おかずをそろえたり、飲み物は暖かいほうがいいか冷たいほうがいいか考えて、頭の中は献立と接待のことでいっぱいです。てんてこ舞いです。

一方、妹のマリアは、「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。」とあります。マリアは、イエス様の足元に座って、一生懸命集中してお話に聞き入っています。マリアは、イエス様を姉と一緒に家にお迎えしましたが、彼女は自分の心の中にイエス様をお迎えしていたのではないでしょうか。イエス様を自分の家にお招きする場合、たん に家の中に応接間やリビングにお迎えするというだけではなく、イエス様の足元に座って、熱心に集中してイエスの御言葉に聞き入るということ、これが真にイエスを迎えるということではないかと思います。おそらくイエス様も、そのような接待の方がうれしかったのではないでしょうか。

2.マルタの不満

しかし、それでは姉のマルタは承服しませんでした。「マリアは妹のくせに、姉の私ばかり仕事をさせて、自分は何もしないでちゃっかり座ってお話を聞いている。一体どうゆうつもりなの。」と不平不満の心が募って来ました。そして、とうとう堪忍袋の緒が切れて、イエス様に訴えたのです。聖書には、「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。『主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。』」(10:40)と。

そしてこの不満は、ついにはイエス様ご自身に向けられました。「イエス様は、妹のマリアになぜイエス様は注意をしないのだろうか。目の前に座って話を聞いている妹に、注意してほしいわ。イエス様言って下さい『マリアよ、お姉さんばかり忙しそうに働いているのだから、あなたもお話を聞いていないでお姉さんのところに行って手伝いなさい。』」と。マルタの気持ちもわかります。

でもここで、注意していただきたいことは、マルタは、その名前の意味である「女主人」が示す通り、いつの間にか、イエス様に命令し、イエス様を自分の考え通りに使おうとさえしていたのです。ここにマリヤの信仰の間違いが三つ出ております。一つは「わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせています。」と言っていることです。目がイエス様ではなく妹の方に向かって、自分と妹を比較していることです。イエス様から目が離れると、必ずこういう不満が出てきます。他の人につまずきます。

二つ目は「あなたは何とも思いませんか。」とイエスを責めているところです。つまり自分の方が主人になってしまっているのです。三つ目は「手伝ってくれるようにおっしゃって下さい。」とイエス様を自分の思い通りに使おうとしているところです。このようにマリアの信仰は、一見クリスチャンとして熱心に見えますが、その心の中には「マルタ=女主人」のように、自分が主人になっていました。そしてイエス様をも批判し、イエス様を自分の思い通りに使おうとさえしていたのです。

それでも、こういう性急な、そしていつの間にかイエス様にも命令するほど肥大化した自分という偶像礼拝の信仰でありましても、イエス様は、マルタを叱り飛ばすことなく、優しくいさめてくれました。それが次の言葉です。

4.必要なことはただ一つ

「主はお答えになった。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。』」(10:41~42)

イエス様が、マルタの名前を二回読んでいるということは、いかにマルタの勢いがすごかったかということです。一回名前を呼んだだけでは収まらないほど、マルタは興奮していました。カッカしていたわけです。やっと名前を二回呼んで、マルタの気持ちを落ち着かせてから、マルタに言い含めるようにして言いました。「お前は、多くのことで思い悩んで、心が乱れている」と。

イエス様は、こう言いました、「しかし、必要なことはただ一つだけである」と。
そうです、私たちの信仰生活において大切なことは、ただ一つだけです。他は必要ないとは言いませんが、第一のことを第一にすることです。端的に言いますと、私たちの人生にとってなくてならぬものは、ただ一つだけであるということです。それは何か、「主の足もとに座って御言葉に耳を傾ける」ということです。これさえしっかりとしていれば、後は主がすべてを備えてくださいます。

詩編27:4に「わたしは一つのことを主に願った。わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。」私たちの人生、なくてならないものは多くはありません。必要なこと、なくてならない大事なことはただ一つです。

私は昨年の大地震で、ただ一つだけ良いことがありました。それは、「主イエス様だけ」という御言葉が与えられたことです。3・11の後も大きな余震が続きました。夜も眠れません。一週間は、服を着たまま寝ました。それでも余震で何度も目が覚めます。眠れなくなりました。その時に浮かんだみ言葉が、「主よ、あなただけが、わたしを安らかにおらせて下さいます。」(詩編4:9口語訳)という御言葉です。

そうだ、イエス様だけが、わたしに平安を与え休ませて下さるんだと思いました。そして、この御言葉から、イエス様だけがこの教会を支えてくださるんだ、イエス様だけが私たちを養って下さるんだと祈ることができるようになったのです。私たちの人生も将来も、予測できない時代に入りました。何が起こるか分かりません。でも、どんな時でもイエス様だけが常にそばにいてくださる、この方以外に救いはない。この方以外に平安はない、と祈れるようになったのです。

私たちの人生において、必要なことはただ一つ、それは主の足もとに座って御言葉に聞き入るということです。クリスチャンには、この中心があります。何物にも動じない核、と言いますか座標軸があるのです。これが人生にならぬ一つのことです。マリアはその良い方を選んだのです。人生はいつもこの選択ではないでしょうか。良い方、主の御言葉を選ぶことです。ここにいつも人生の答えがあります。

そして、さらに言うならば主の足もとに座るということは、三つの意味があります。一つは、「御言葉を生活の第一とし、最優先とする」ということです。いつも生活の場面で、御言葉の前に立ち、御言葉を読み、心に蓄え、暗唱し、御言葉で祈り、御言葉に従うということです。第二は、主の足もとですから、「十字架のもとに立つ」ということです。我が罪のために十字架にかかって下さった主を見上げつつ歩むということです。罪の告白と悔い改めの生活です。そして第三には、足もとは、奴隷の座る場所です。ですから、御言葉を聞いてその御言葉に従う心の準備を常にしているということです。マルタのように自分が主人になるのではなく、イエス様が自分の主人であるということを常に意識することです。この三つが、「主の足もとに座って聞く」という姿勢ではないでしょうか。

ところがそれを取り上げようとする力が、自分の身近なものから、家庭の中で、また教会の中で起こってしまいます。忙しさ、目に見える物、現実の世界、そこに目を向ける時、心が亡んでしまいます。わたし達は、その背後にある主の御言葉に、目を向けることによって、はじめて現実を乗り越えて行くことができるのです。私たちの人生にとって、「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」という主の御言葉を心に刻んで2012年も歩んでまいりましょう。(岡田 久)

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