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主の言葉の仲介者 (サムエル記上8:1~10)

メッセージ

2012年6月17日富里キリスト教会
「主の言葉の仲介者」
(サムエル記8:1~10)

1.他の国と同じようになりたい

今日のお話に登場してまいります士師サムエルも、いわばイスラエルの父と言われたような人物でした。寡黙でしたけれども、幼い時から神様と共にいて神の御言葉をイスラエルの民に取り次いでまいりました。このサムエル記の冒頭のお話が、一人の子供のなかった女性の涙の祈りから始まっているように、サムエル記は神様との祈りと御言葉の記録でもあったのです。

8:1から読んでみます。「サムエルは年老い、イスラエルのために裁きを行う者として息子たちを任命した。長男の名はヨエル、次男の名はアビヤと言い、この二人はべエル・シェバで裁きを行った。しかし、この息子たちは父の道を歩まず、不正な利益を求め、わいろを取って裁きを曲げた。イスラエルの長老は全員集まり、ラマのサムエルのもとに来て、彼に申し入れた。『あなたは既に年を取られ、息子たちはあなたの道を歩んでいません。今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください。』」
(サムエル上8:1~5)

年を取って来て、祭司を引退したサムエル、しかしその後継者である二人の息子の不祥事。イスラエルの将来を案じた長老たちは、サムエルに対して自分たちも他の国のように、自分たちを裁き指導してくれる王が欲しいと申し出ました。ここに、一つ気になる言葉があります。それは「今こそ、ほかの国々のように、我々にも王を立ててください。」と願い出たことです。つまり、「ほかの国々のように」と言っていることです。自分の家の芝生よりも、ほかの家の芝生がよく見えることがあります。長老たちの目は、神を見上げるのではなく、自分たちを取り巻いている他の国々を見ているのです。そして、王様と宮殿がある、それをうらやましく思っていました。

自分たちにないものをあこがれる。自分たちが欠けているのではないかと劣等感を持ってしまう。これは人間の罪のなせる業です。アダムとエバが、自分たちが裸であることを恥ずかしいと思い、相手と自分の違いを恥ずかしく思い、腰にいちじくの葉を巻いたことと同じなのです。他人の持っているものをうらやましがったり、持っていない自分を恥と思ったりする感情です。これを罪と言います。あるがままの自分、神様与えて下さったイスラエルの十二部族からなる宗教制度を良しとしてはいなかったようです。イスラエルの民はいまだに、周辺諸国との比較と競争の世界に生きていました。

イスラエルの長老や民の目は、残念ながら神様から離れてしまっていました。彼らの目は、上を見るのではなく、周囲の周りの国々を見ていました。教会でも合言葉のように言われる言葉があります。それは「横を見るな、横を見るな、上を見ろ、イエス・キリストだけを見て歩みなさい」と言う言葉です。どこの教会でも、まるで野球選手が練習していて掛け声をかけあうように、「横見るな!横見るな!上を見ろ!イエス様だけを見上げろ!」と掛け声を掛け合っています。それだけ、クリスチャンンも横を見てしまいやすいということです。
「横見るな!周りを見るな!上におられる神様だけを見なさい!」と、サムエルも声をあげたかったのではないでしょうか。

2.神を見あげる(祈るサムエル)

そして、このような長老たちの要求に対して、サムエルが取った行動は何だったでしょうか。6節からを読んでみましょう。「裁きを行う王を与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映った。そこでサムエルは主に祈った。主はサムエルに言われた。『民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることと言えば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった。あなたに対しても同じことをしているのだ。いま彼らの声に従いなさい。ただし、彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい。』」(8:6~9)

エジプトを出てから300年以上も経っているにもかかわらず、彼らのすることと言えば、真の神を捨てて常に偶像礼拝へと走ってしまうことでした。今回も、他の国々を見て羨ましく思い、自分たちもあの立派な王を仰ぎたい、人間が立てた王様という偶像に恋い焦がれたのでした。サムエルが長い間、神の御言葉を取り次いで、民を裁き、外敵ペリシテ人から守ってきたにもかかわらず、そのサムエルの恩も忘れて、厚かましくも別の指導者が欲しいと言ってきたのです。

サムエルの心境いかばかりかと思います。こんなにもイスラエルのために尽くしてきたのに、いとも簡単に功労者サムエルを排除しようとしているのです。私でしたら、「あなたがたは何で人の恩を仇で返そうとするのか!今までわたしがどんな苦労をして、あなたがたをここまで導いて来たのか忘れたのか!私ではなく、王様が欲しいと言うのか。」と激高してしまうかもしれません。

サムエルは、複雑な思いで、民の間違ったわがままな要求を神に祈り求めました。「神様、どうしたらいいでしょうか。」と。すると、神は、「彼らの声に従いなさい。」(8:7,9,22)といいました。しかも三回も言っています。どうして、神はここでサムエルに、彼らの自分勝手な要求を止めさせなかったのだろうかと思います。サムエルの心境としては、彼らの偶像礼拝を裁き、自分をリーダーとしてもう一度認めさせたいと言う思いはあったと思いますが、神はそうさせませんでした。この後サムエルは、神が言ったとおりに、イスラエルの新しい王を選ぶ働きをすることになります。そして、これからバビロン捕囚に至るまで、約400年間にわたるイスラエルの王制国家の時代が始まって行きます。

3.主に従う人生

この間、サムエルは、自分の感情を動揺させることなく、神様に彼らの要求をそのまま伝え、また神からの答えを待って、神の御言葉をその通りに伝えました。彼は、民と神との仲介者、パイプ役となりました。自分では彼らの要求は間違っている、悪と見えるようなことがあっても、自分では裁かずに、神様に尋ねています。そして、自分では不本意なことでありましても、神の御命令には従いました。

サムエルはどんな時でも、どんな事案でも、自分で判断して自分で行動するのではなく、常に神の前にその出来事を持って行きました。そして神様の判断を待ったのです。サムエルは常に、神に伺いを立て、神にその答えを聞いてから民に答えています。そして、自分には承服しかねるような神の答えでありましても、それに従いました。サムエルほど、徹底的に主に従った人物は他にいませんでした。

「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」と(サムエル上15:22)。自分の願望や自分の感情に従って、判断するのではなく、神に伺って、神に尋ねてその答えを見出し、それを語ること、それに従うこと、これこそ神がイスラエルの民に一番求めていたことでした。主を愛することは、この神の御心に従うことでした。彼の息子たちは、残念ながら父の道に従うことはできませんでしたが、サムエルは、その生涯を通して主に祈り、主に従い続けた人生でした。イスラエルの霊の父としての生涯でした。

最後に、サムエルが最初の王サウルを選んだあと、最後にイスラエルの民に宣べた告別の言葉を読んで終わりにしたいと思います。
「見よ、あなたたちが求め、選んだ王がここにいる。主はあなたたちに王をお与えになる。だから、あなたたちが主を畏れ、主に仕え、御声に聞き従い、主の御命令に背かず、あなたたちもあなたたちの上に君臨する王も、あなたたちの神、主に従うならそれでよい。・・恐れるな。あなたたちはこのような悪を行ったが、今後は、それることなく主に付き従い、心を尽くして主に仕えなさい。・・主はあなたたちをご自分の民と決めておられるからである。わたしもまた、あなたたちのために祈ることをやめ、主に対して罪を犯すようなことは決してしない。主を畏れ、心を尽くし、まことをもって主に仕えなさい。」
  (サムエル上12:14、30,22~24)                             (岡田 久)

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