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主の祭壇 (列王記上18:30~40)

メッセージ

2011年1月9日富里教会
「主の祭壇」
(列王記上18:30~40)
1. はじめに

主の御名を賛美します。
先日、テレビを見ていましたら面白い番組がありました。日本人は正月に神社やお寺にお参りに行く習慣がありますが、お寺にお参りに行く時にはどんな仏様を拝んでいるのかという番組をやっていました。特に、私が関心を持ったのは、仏像の中で位が二番目にランクされている観音様でした。よく千手観音という仏像がありますが、これは手が何本もついている仏像です。どうして手が何本もあるかと言いますと、人々のいろんな要求に答えるための手なのだそうです。つまり、人間が仏様にああして欲しい、こうして欲しいと願う時に、その必要に答えるために、千の手が本体につけられたのだそうです。まさに、人間の願いを聞届ける仏様というわけです。ですから日本人は、自分の希望に合わせて、あっちのお寺、こっちのお寺に御利益を求めてお参りに行くのではないでしょうか。厄除け地蔵とか、子宝が授かる仏様とか、頭がよくなる神様とか、まさに今日のお話に出てくるバアルの神様のようです。自分の願いをかなえてもらう、典型的な「偶像礼拝」なのです。

2.どっちつかずに迷ってはいけない

先週もお話ししましたが、バアルの神と申しますのは、五穀豊穣の神様です。バアルは男神ですが、女神アシェラとの性的結合によって子供が生まれるように、礼拝すればたくさんの実りをもたらす、即ち、牛や羊の子供が生まれ、麦や作物が豊作になるという神様です。これも神様が結婚して、子供をたくさん造るのだろうという人間の側の考えを反映しているわけです。そして、作物が収穫されればされるほど、バアルの御蔭だと言って、バアルの祭壇を増やし、イスラエルの国中に偶像礼拝を広げていっていました。しかし聖書の神は、人間の願いや希望を無条件でかなえるかというとそうではありません。ここが、偶像礼拝と霊的な正しい礼拝との違いです。

このバアル信仰は、異教徒の王妃イゼベルが持ち込んだものです。預言者エリヤは、この偶像礼拝によって信仰が曖昧になってしまっていたイスラエルの民を厳しく糾弾しました。18:21にこうあります。「エリヤはすべての民に近づいて言った。『あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。』民はひと言も答えなかった。」とあります。

私たちも、ともするとクリスチャンでありながら、日本人の週間や風習に染まってしまい、仏様を拝んだり、神社に元朝参りに行ったり、どっちつかずの信仰を持っていることはないでしょうか。日本人である限り、仏教と全く関係しないということはできません。家族の関係でどうしても仏事に参列しなければならない時もあります。その時でも、私たちは十分に祈って神様から赦しをいただいてから出かけますね。ただ、クリスチャンでありながら、神社参拝を平気でするとか、法事に自分から積極的に関わるということはありえないことです。仏教半分、教会半分という信仰はありません。「仏教徒かキリスト教徒かはっきりしなさい。」とエリヤは、私たちを叱咤激励しているような気がします。

3.バアルの祭壇

バアルの預言者たちは、どんな祭壇を造って神に呼びかけたかを見てみましょう。28節から読んでみましょう。「彼らは大声を張り上げ、彼らのならわしに従って剣や槍で体を傷つけ、血を流すまでに至った。真昼を過ぎても、彼らは狂ったように叫び続け、献げものをささげる時刻になった。しかし、声もなく答える者もなく、何の兆候もなかった。」(18:28~29)

バアルの預言者の礼拝の様子が目に浮かんでくるようです。汗を流し、声をからしてバアルに必死に呼びかけています。しかし、何の応答もありません。そして異教の祭司がしているように、自分たちの体に刀や槍で傷をつけ、血を流して狂ったように必死に叫び続けました。どんな礼拝だったでしょう。450人の大人が、血を流しながら呻きとも叫びともつかないような声を張り上げて祈っているのです。どらや楽器がけたたましく鳴り響き、ものすごい騒ぎです。でも、何の応答もありませんでした。これが偶像礼拝の本質です。自分の願い願望を必死に訴えるそのすさまじさです。自分の血を流すほどにすさまじい熱心さです。

私たちはどうでしょうか。もしかしたら、このような偶像礼拝のような祈りをささげてはいないでしょうか。熱心に祈っているけれども、自分の願望や願い事だけを神様に訴えてはいないでしょうか。神様、ジャンボ宝くじが当りますように、ああしてください、こうしてくださいと空しく訴えていることはないでしょうか。あるいは、自分の願望や理想を神様も願っているはずだと、思い込んでいることはないでしょうか。もしそうであれば、たとえそれが熱心な礼拝、熱心な祈りでありましても、自分の思い通りになる偶像を拝んでいることになる危険性があります。

4. 主の祭壇

それでは、預言者エリヤはどんな祭壇を築いたのでしょうか。31節から読んでみましょう。「エリヤは、主がかつて、『あなたの名はイスラエルである』と告げられたヤコブの子孫の部族の数に従って、12の石を取り、その石を用いて主の御名のために祭壇を築き、祭壇の周りに種2セアを入れることのできるほどの溝を掘った。次に薪を並べ、雄牛を切り裂き、それを薪の上に載せ、『四つの瓶に水を満たして、いけにえと薪の上にその水を注げ』と命じた。彼が『もう一度』と言うと、彼らはもう一度そうした。彼が『さらに三度目を』と言うと、彼らは三度同じようにした。」(18:31~34)

A)12の石で祭壇を築く
まず第一にエリヤは、壊された主の祭壇を修復しました。どのようにしてかと申しますと、12の石を取ってそれを積み重ねて祭壇を作りました。これは、バラバラになったイスラエルの12部族が一致団結することを意味しています。今は、北と南の二つの王国に分裂していますが、やがてこの南北二つの王国が一つの国となって、ともに神に礼拝をささげることを願ったからでした。

私たちの礼拝もそうです。兄弟姉妹が分裂したり、仲たがいしたりしていては神様に喜ばれる礼拝を捧げることはできません。一つ思い、一つの心になって礼拝をささげることがまず第一です。それが祭壇の修復という作業です。石が崩れていたり、バラバラだったりしては祭壇を築くことはできません。たとえお互いに言い分があっても、その石の角を御言葉のハンマーで打ち砕いて、滑らかにし、石と石がすきまなくピッタリと組み合わされるようにする必要があります。

B)祭壇の周囲に溝を掘る
そして二番目に、祭壇の周りに、種を2セア(約18リットル)入れることのできる溝を掘りました。これは、イスラエルの民とこの世を区別するという意味の溝です。つまり、神によって区別され聖別された12部族、クリスチャンの群れ、教会と考えてもいいかもしれません。先ほども申しましたが、宗教とは言っても、仏教とかおみくじとかお札とか、異教の神々、偶像の神と私たちをはっきりと溝を掘って境界線をつけるということです。分離すると言う事です。

パウロも言っています。「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御胸であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。」(ローマ12:2口語訳)世と妥協してはいけないと警告しています。サタンは、解らないようにして、うまくごまかしながら入って来ますので、私たちも霊的な目と感覚を鋭くして、偶像の侵入を許さないようにしてゆく必要があります。

C)祭壇に水を注げ
第三番目に、ここでエリヤは何をしたかと言いますと、なんと、祭壇の上に四つの瓶に満たした水を注げと命じたのでした。しかも、念を入れて3回も祭壇の上に水を注ぎました。そして、ここがバアルの祭壇、すなわち偶像礼拝の祭壇と決定的に違うところでした。

実は、この水と申しますのは、聖書では普通、神の御言葉を指しています。つまり、エリヤのささげる祭壇、エリヤの礼拝は、神の御言葉が十分に語られ注がれる礼拝ということです。これが、バアルの偶像礼拝と真の礼拝との根本的な違いです。エリヤはこう祈っています。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること、またわたしがあなたの僕であって、これらすべてのことをあなたのみ言葉によって行ったことが、今日明らかになりますように。わたしに答えてください。主よ、わたしに答えてください。」(18:36~37)と祈っています。

いくら自分の体に傷をつけて熱心に祈っても、何頭もの雄牛を捧げても、神は喜ばれません。神が喜ぶ祭壇は、御言葉に聞き従う心です。賢者サムエルも、勝手に犠牲の供え物を献げてしまったサウル王に対してこう言っています。「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主のみ声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」(サムエル上15:22)と。

つまり、真の主の祭壇とは、びしょびしょになるほどに御言葉が十分に語られることです。そして、その御言葉に聞き従う心、これが本当の主の祭壇なのです。たとえ、礼拝ですばらしい歌声が流れても、証があっても、パーフォーマンスがあっても、献金が献げられても、熱心な祈りが捧げられても、そこに神様のみ言葉が語られなければ本当の意味での主の祭壇とはいえません。エリヤは、この神の御言葉の祭壇を修復したのです。自分たちの願いどおりになる神ではなく、自分たちの願望を反映させて思い通りになる神ではなく、神の御言葉が語られ、神の御心に従う心、これこそ神様が最も喜ばれる正しい礼拝なのです。そしてその祭壇に主は、天からの炎を降して答えられました。

5.御言葉と祈りの勝利

最後に38節から読んでみましょう。「すると、主の火が降って、焼き尽くす献げ物と薪、石、塵を焼き、溝にあった水をもなめ尽くした。これを見たすべての民はひれ伏し、『主こそ神です。主こそ神です』と言った。エリヤは、『バアルの預言者どもを捕えよ。一人も逃がしてはならない。』と民に命じた。民が彼らを取られると、エリヤは彼らをキション川に連れて行って殺した。」(18:38~40)

神の御言葉に従い、神の御言葉に聞いて、神の御言葉に従う時、私たちは偶像礼拝という罪に勝利することができます。この天からの火と言いますのは、聖霊様です。聖霊は私たちの罪や汚れや欲望といったものを焼き尽くして、私たちを聖めて下さいます。今まで、イゼベルを恐れていたイスラエルの民は、聖霊の力を得て450人のバアルの預言者をカルメル山の麓を流れるキション川のほとりで全滅させました。これは、私たちの中にある偶像礼拝の罪や肉欲、悪い習慣、悪い心といった一切の罪を、聖霊の力によって完全に滅ぼしてしまうということです。一人のバアルの預言者をも残さないように、徹底的に完全に焼き尽くして罪を滅ぼし、イスラエル全体を聖めるということを意味します。

私たちもただ熱心に祈っているだけでは、あのバアルの預言者のような自分の願望を反映する偶像礼拝の祈りになりかねません。まず、私たちの心の祭壇に、そしてこの主日の礼拝の祭壇に、神様の御言葉の水をたっぷりと注いでいただきましょう。そしてこの御言葉の助けと導きを求めつつ祈ろうではありませんか。そこに神の力の爆発的な威力と勝利の鍵があります。この年も、正しい主の祭壇を新しく築き直して歩んでまいりたいと願っています。(岡田 久)

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