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主の晩餐の意味 (Ⅰコリント11:17~34)

メッセージ

2014年2月2日富里キリスト教会

「主の晩餐の意味」
(Ⅰコリント11:17~34)

1.教会での集会が害になっている

「次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの中に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。それでは一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹のものがいるかと思えば、酔っている者もいるという始末です。」
(11:17~21)

はっきり言っています。仲間割れがあると。コリント教会では、どちらが正しいか適格者か、ということで相対立するリーダーを中心にして派閥ができ、いつも睨み合っていたわけです。ここでは何で争っていたか書いていませんが、自分の仲間だけは大事にして、そうでない兄弟姉妹には知らん顔をしているわけです。いやむしろ、敵意をあらわにしていますから、ことあるごとに、集会の度に反目しあって一発触発の集会になっておりました。こんなところに新来者が来たら、びっくりしますよね。当事者たちは気がつきませんが、初めての人が来たら、いったいこの教会は何だろう。礼拝堂の中で火花が散っているわけです。お互いにつっけんどん、敵と味方ですから話もしないわけです。冷蔵庫に入ったみたいに、冷たい空気が教会の中に満ちているわけです。

特に愛餐会がありましても、自分の気にいる者同士、仲間内で丸くなって食べているわけです。21節を読んでみますと、愛餐会の時には皆さん家から食べ物を持って来ていたようです。ところがお金持ちはお金持ちで、先に来て勝手に食べているわけです。お金と時間に余裕がありますから、たくさん食べものやぶどう酒を持って来て、勝手に先に食べてみんなが集まる前に、すっかり出来上がっていました。中には酔っぱらってしまうものもいました。

そして、遅くなってから、貧しい人たちが仕事を終えてやっと集会に来るわけです。特に奴隷階層の人たちは、仕事に追われて食べる時間も食事の準備もないままに集会にやって来ます。すると先に来ていた富裕層の人たちが、食べて酔っぱらっているわけです。貧しい人たちは食事を食べずに、晩餐式が始まるまで待っていました。当時は今日よりも、もっと大きな格差社会ですから、富める者、貧しい者という階層が教会の中でもはっきりしていました。パウロは、そういう愛のない人たちに対して、「あなたがたは神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。」(11:22)と言って厳しく非難しています。

2.神の裁きを招いている教会

その結果、こう言う教会にどういうことが起こっていたかと申しますと、11:29を見て下さい。こう言っています。「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。」(11:27~30)

わたしたちは、皆イエス様の十字架の血潮によって罪赦された者であり、罪人の一人であり、神様の憐みによってこうして生かされ、教会のメンバーにさせていただいているものです。そして、このキリストの体に属する者であり、お互いが一つの体となるために召された者です。そうでありながら、他の兄弟姉妹を見下げたり、軽視したり、みくびったり、裁いたりしたままで、平気で晩餐式にあずかっているならば、その人は主のからだと血に対して罪を犯すことになりますと、警告しています。つまり、反省もせず悔い改めもせず、貧しい人々を顧みもせずに、自分勝手に平気で愛餐を食べ、何の罪の自覚もなく主の晩餐式にあずかっているならば、あなたがた罪を犯しており、自分自身を裁きに定めているのです。その結果、あなたがたの中には、信仰的に弱っている人や、病人がたくさんいて、中には死んでしまっていると言っています。(11:27~30)

これは厳しい言葉ですが、事実だと認めなければなりません。そういう教会の中の仲間割れや分裂、愛のなさと言ったものが、教会員の信仰生活や健康状態にも表れてくると言っても過言ではありません。だから、病気の人、弱い人、中には死んでしまった人もいるでしょうというのです。確かにそうですよね。今日は愛餐会があると言っても、その場で二つのグループに分かれて、反目し合って食事を食べていたらどうですか。その後に持たれる主の晩餐式はどうでしょうか。参加した人も具合が悪くなります。いや~な思いになります。イエス様の肉の痛みをますます増すようなものです。教会員がお互いに反目していたら、私たちがイエス様の体にぶら下がって、十字架の傷口をもっと広げてますますイエス様を苦しめているようなものです。

一体何のための教会なんでしょうかね。コリント教会も、同じように派閥があり、集会の度にもめていたわけです。これじゃ、集まらない方がいいです。集まりが悪い結果を招いていて、害を及ぼしていました。「あなたがたの集まりが、良い結果よりはむしろ悪い結果を招いている」(11:17)とパウロも嘆いております。イエス様の体である教会、傷つき、痛み、苦しんでいるのではないでしょうか。

そして教会員も、苦しみ、傷つきます。コリント教会が、弱い者や病人が多い教会になってしまったのです。そして多くの人々が死んだと言っています。これは何も、相争って死んだのではなく、自分たちの競争心、同じ主の兄弟姉妹を見くびり、恥をかかせて、差別しながらもなお、平気で主の晩餐式にあずかっていた人々に対する神様の懲らしめだと言っています。神様の教会に対する警告だというのです。ですから、教会では、毎月、毎月、繰り返して主の十字架の苦しみは一体誰のためか、ということを教え諭すために主の晩餐式を行います。これは、イエス様がこの世に来られるときまで続けられるのです。

ですから、主の晩餐を受ける時には、もっと真剣に自分の心の内を調べ、そのような固い心、苦い根がないかどうかを吟味すべきです。そして、お互いに心から悔い改めを持って、信仰を持って受けるべきではないでしょうか。それが主の晩餐を受けるわたしたちの心構えです。安易に受けてはいけません。自分を反省せず、自分の罪を顧みずにうけてもいけません。自分の身に神の裁きを積んでいるのです。悔い改めを持って、真剣に、真実をもってあずかりたいものです。

3.ひとつの体を目指して

そして、この主の晩餐式は教会の中心です。基礎の部分です。イエス・キリストの裂かれた肉、流された血潮を記念して私たちはいただくのです。礼拝の中心であり、説教のメインテーマです。ですから、イエス様に命じられたように、世々の教会がこの礼典を守って来ました。パウロ自身もイエス様から受けたものですと言っています。

「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしのからだである。わたしの記念としてこのように行いなさい。』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい。』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(Ⅰコリント23~26)

この御言葉は、主の晩餐式の時にいつも読まれる御言葉です。パンはイエス様のからだです。命のパンであるイエス様を食べるということは、イエス様の御言葉をいただくということです。そして、この御言葉によって、自分の罪を示され、悔い改めるのです。そして兄弟姉妹が、互いに罪を告白し合って、赦し合い、受け入れ合うことによって一つになるのです。中東のパンは、もともと丸い一つのパンです。それを裂いて渡しますが、もともとは一つのパンであり、同じ一つのキリストのからだなのです。食べることによって、御言葉を通して、兄弟姉妹が一体となるということを意味しているのではないでしょうか。

25節に「食事の後で」という言葉が入っていますので、今日私たちがしているように、小さな食パンの一切れではなく、丸いパンが配られて、そのパンを全員が、食事をするようにたっぷりと食べた後で、今度はぶどう酒が配られたのではないかと思います。ですから、パンを配った後に、私たちが第二週にしているような、愛餐会をもって、食事を食べ終わってから、最期にぶどう酒を飲んだのではないでしょうか。食事が、このパンと杯の間に入っていたようですね。それだけ、教会の愛餐会が大事だということです。主にある兄弟姉妹の交わりです。

主イエスは、ぶどう酒とは言わず、「この杯は」と言っています。つまり、このぶどう酒はイエス様の贖いの血を意味しています。すなわち、主は私たちのために御自身の尊い血を流されて、私たちの罪を一方的に贖い赦して下さったということです。この主の杯を受けるということは、イエス様の恵みによって無償で罪を赦していただいたものであるということを再確認することです。これが新しい契約です。そして、この罪の赦しを受けた者が、主の前にもう一度へりくだることによって、主にある他の兄弟姉妹を心から赦しているかどうかを反省してみる時だというのです。

あるクリスチャンの方が、「わたしは罪を犯したことがないので、安心してこの晩餐式を受けられます。」と言いましたが、これは正しいでしょうか。また別のあるクリスチャンは、「わたしは罪に汚れています。罪だらけです。ですから主の晩餐式を受けられません。」と言いて杯を拒みました。これは正しいことでしょうか。罪がないから堂々と受けられますということも、罪を持っているので受けられませんと言うことも正しくはありません。わたしたちは、すべて罪人です。罪を赦された罪人です。罪を今も贖ってもらっている罪人です。パウロは「わたしは罪人の頭です。」と言いました。また、イエス様は、この主の晩餐を持った夜に、弟子たちの足を洗いながら、「もし私があなたの足を洗わなければ、あなたとわたしとは何の関わりもありません。」(ヨハネ13:8)と言いました。

イエス様と私たちをつなぐ唯一の接点は、この汚れた足を洗う、私たちの罪の汚れを永遠に贖い続けていて下さるということこの一点に尽きます。罪のない人も、罪を犯したことのない人も一人もいません。わたしも罪人です。でも、いつもこの主の晩餐式に招かれ、イエス様から、「さあ、食べなさい。これが私のからだです。」また「この杯から飲みなさい。」とおっしゃいました。

ですから、私たちはこのパンを食べこの杯から飲む度に、過ぎし日のイエス様の十字架の贖いの業を信仰を持って受け止め、そして、今現在、復活されたイエス様が共におられることを感謝し神様の愛に生き、やがて来たるべきイエス様を待ち望みつつ、伝道と証しの生活を続けて行くことを主の晩餐式の中で確認するのです。そしてキリストのからだである教会が、イエス様の御言葉と十字架の血潮によって清められ、兄弟姉妹が聖霊の助けによって一致を目指して行くことを決心する時なのです。そのために、毎月毎月、私たちの十字架の贖いの信仰を確認し、日々に罪を悔い改めて、聖霊様の一致によって、キリストの御栄光の体を表して行く教会になって行きたいと願っております。(岡田 久)

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