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主の恵みを忘れるな (詩編103・1~5)

メッセージ

2010年9月12日富里教会
「主の恵みを忘れるな」(詩編103:1~5)

1.主を忘れる時

私たちは、信仰をもっていますが、弱い人間です。病気をしたり、職を失ったり、失敗したり、罪を犯してしまったりする時があります。そして、時には落ち込み祈る事すらできなくなることがあります。自分の生まれを呪ったり、境遇を嘆いたり、家族のことで落ち込んでしまったりします。また、突然の不幸に見舞われることがあります。人生何が起こるかわかりません。「まさか」という坂が誰にでもあります。時には、「神様は、なんでこんなひどいことをするんだろう」といって信仰さえ失ってしまう人もあるかも知れません。

では、私たちは何を忘れてはいけないのか、その具体的な根拠を見てみたいと思います。それが、3節以下に述べられています。「主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖いだしてくださる。」と。今朝は、この御言葉の中の三つの言葉、すなわち「罪を赦す主」「病を癒す主」「墓から贖い出して下さる主」を中心に、お話してみたいと思います。

2.私の罪を赦す主

まず第一に、主は私たちの罪をことごとく赦して下さるお方だということです。たとえ私たちが、罪を犯すようなことがありましても、主は、私たちの罪をことごとく赦して下さるお方なのです。主は慈しみと憐れみの神ですから、私たちを永久に責められることがなく、永遠に怒り続けるお方ではありません。また、私たちの犯した罪の大小によって、処罰される方でもありません。私たちの罪をことごとく赦して下さるお方です。

ある一つの部隊を統率していた一人の軍曹の話です。彼らは、その国の独裁者を倒そうと、家族連れで行動を共にしていました。その部隊のリーダーであった軍曹の名前はガルシアと言います。ある夜、一人の兵士が食糧庫から食べ物が盗まれていると報告に来ました。軍曹は、怒って部隊とその家族を集めて、食糧泥棒は、見つけ次第、鞭打ちの刑にすると言いました。そして翌日、その犯人が捕まりました。ところが良く見ると、何とガルシア軍曹の年老いた母親ではありませんか。彼は弱り果てました。大目に見て赦すわけにも行きません、また鞭打ちの刑に耐える程の体力も母にはありませんでした。

軍曹は、悩んだあげく、母親を木に縛り付けました。そして、部下に鞭を取らせました。そして、皆が見ている前で、やおら自分の上着を脱ぎ裸になりました。そしてお母さんの体を自分の体で覆い、命じました。「鞭打ち開始!」兵士の振り下ろした鞭の先には、母をかばうガルシアの背中がありました。ピシッ、ピシッと鞭の音がするたびに、ガルシアの背中からは血が飛び散りました。

ガルシア軍曹の体が、あの十字架につけられた神の子イエス・キリストの体です。神様は、このようにしてわたしたちが犯した罪をご自分の御独り子イエス・キリストの体に背負わせ、キリストの打たれた傷、流された血をもって私たちの罪を赦して下さったのです。これが、主はお前の罪をキリストの十字架において、ことごとく赦して下さったということの意味です。あのカルバリの丘に、神様の慈しみと憐れみが現されました。私達の罪の身代わりに、イエス・キリストがその罰をすべて受けてくださったのです。

神が、ご自分の独り子イエス・キリストの体の上に、私たちの犯した罪の罰を加えられたのです。神が私達の罪の代価を支払って下さったのです。神が、ご自分の独り息子の苦しみと死を通して、私たちの罪の代償を支払い、身請けして下さったのです。この御子の死を通して、私たちの罪をことごとく贖うと御決断された神の御意志に、一体誰が疑問の余地を差し挟むことができましょうか。

神様は、私たちの罪を赦すお方なのです。3節には、「ことごとく赦し」とありますように、全部、どんな罪もお赦しになるお方なのです。わたしたちが悔改めるならば、神様に赦されない罪はありません。その神様の愛の深さは、私たちの思いをはるかに超えて、天と地ほどの差があります。しかも、私たちの神様に対する背きの罪を、東と西の間ほどはるか遠くに隔てて、遠ざけてくださるお方なのです。

3.病をすべて癒す神

そして神様の恵みはそれだけではありません。第二に、私たちの病をすべて癒して下さるお方なのです。しかも、5節には「長らえる限り良いものに満ち足らせて下さる」お方です。主は私たちの罪を赦して下さったばかりではなく、生きている限り病をも癒してくださり、生活に必要なものすべてを備えていて下さるお方なのです。私は今まで、多くの奇跡を見てきました。どんな病をも神様は、祈りによって癒してくださいました。病名をあげればきりがありません。特に教会の祈りは大きな力があります。週報や祈りのカードに具体的に名前をあげて、祈っています。

それは私たちが熱心だから、私たちが信仰深いからだというのではなく、私たちには何もできないからなのです。私たちは癒すことも人を救うこともできません。ただ、癒してくださるお方がおられるのです。それが私たちのイエス・キリスト様です。祈りはそのお方によりすがって、助けを求めることです。私が癒しの時に読む、有名なイザヤ書の十字架のキリスト預言の聖書箇所はこうです。「彼(キリスト)多くの痛みを負い、病を知っている。・・・彼(キリスト)が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった。」(イザヤ書52:3~4)とあります。私たちの神、イエス・キリスト様は私たちの病をも知っておられ、手術の痛みも傷口の痛みも代わりに負って下さるお方です。

ですから、この詩編の中でも「主は病をすべて癒してくださる」と、言っているのです。ここには「すべて」と書いてあります。ですから、私たちはその神様の癒しの力、大きな慈しみと憐れみの御心と御旨を忘れないようにしましょう。むしろ私の内にあるものはこぞって聖なる御名をほめたたえなさいと言っています。これは、私の魂はもちろんのこと、魂だけではなく、私の内臓のすべて、心臓もすい臓も肝臓も肺も全部、神様をたたえよと言っていると説明していた注解書もありました。主の恵み深い御計らいを、何ひとつ忘れてはいけないのです。

4.墓から贖いだされる主

そして最後になりますが、4節に「墓から贖い出してくださる」とあります。主イエス・キリスト様は、私たちの罪をことごとく赦し、どんな病もすべて癒し、そして最期には、私たちの命を墓の中から贖い出して、甦らせてくださるのです。神様は、これでもかこれでもかと言わんばかりに私たちに、恵みと慈しみをあふれるほどに与え、充満させて下さるお方です。恵みと祝福の充満です。まるで、スーパーのウインナー・ソーセージつめ放題のコーナーのように、あの小さなビニール袋に、これでもかこれでもかとウインナーを詰め込まれるみたいなものです。上手な人は、袋の二倍ものウインナーを山盛りに詰め込みます。それほどまでに、神様の恵みは満ちあふれているということです。

この復活、甦り、永遠の命という希望がある故に、私たちはどんなに年老いていても、病を持っていても「鷲のように若さを新たにしていただくのです」(5節b)。皆さんは、鷲を見たことがあるでしょうか。空高く、悠々と飛んでいる姿を思い起こします。鷲は自分の力で、天高く舞い上がることができません。深い谷底から吹き上げてくる風をとらえて舞い上がります。私たちもそうです。自分の力では天国まで飛んで行くことはできません。私たちも、あの鷲のようにただ両手を広げて下から吹いてくる神の力である聖霊の息吹を受けて、力強く上って行くのです。両手を広げて、神様に向って賛美と感謝を捧げつつ、聖霊の風に乗って力強く舞い上がることができるのです。両手を広げることは、聖霊によって、神様に祈り、神をほめたたえることです。

イザヤ書40:30~31節までにも同じような言葉があります。私はこの御言葉が大好きです。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまづき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」若い時には、ただがむしゃらに働いてがんばって来た。やってもやってもかいがない、結果を出せないただ疲れを覚える日々でした。

でも今、年老いて体力の衰えを感じ、持病も持っている。そして、自分の限界、無力さを知れば知るほど、神の力に頼らざるを得ない現実があります。そして、自分の力ではなく、神の力、聖霊様の導きに従う時、今までに無い力と勢いを得て、若い力がみなぎってくる。そして、若鷲のように天かけ舞い上がる、そういう復活の希望をもった信仰者の姿を想像しております。徹底的にへりくだり、主を畏れ、自分の力を捨て、ひたすら主のみ言葉に希望をおき、祈りを持って主に仕えてゆく信仰者の姿です。人生のラストスパートをかける時です。

2節からの御言葉を、最後にもう一度読んで、終りたいと思います。
「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何一つ忘れてはならない。
主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、
 命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け、
長らえる限り良いものに満ち足らせ、
鷲のような若さを新たにしてくださる。」(詩編103:3~5)
                                          (岡田 久)

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