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主の前に立つ (列王記上19:8~12)

メッセージ

2011年1月16日富里教会
「主の前に立つ」
(列王記上19:1~18)
1.引きこもったエリヤ

450人のバアルの預言者を滅ぼしてしまったエリヤは、本来ならば、勝利者として凱旋してもいいはずですが、王妃イゼベルの報復宣言に恐れをなして、逃亡しました。エリヤは、カルメル山から南のベエル・シェバの砂漠まで逃げてきました。そして、1本の木の下に座って自分の命が絶えるのを願ってこうつぶやきました。「主よ、もう十分です。わたしの命をとってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」(19:4)と言って眠ってしまいました。するとそこに御使いが現れて、エリヤに触れ「起きて食べなさい。」と言って、枕元においしいにおいがしている焼き立てのパン菓子と、水が置いてありました。エリヤはそれを食べて、また眠りました。すると御使いがもう一度現れて、パンと水を置きました。エリヤはもう一度それを食べて元気になりました。(19:5~8)

A.「この時エリヤは、自分の思いをその通り神に訴えました。」

私はこの箇所を読みながら、エリヤの気持ちが良く分かるような気がします。あんなに一人で450人と戦って、勝利はしたものの悪の根源であるイゼベルは、依然としてイスラエルの国を支配しており、しかも自分の命を狙うと国中に宣言しました。いくら主の名によって戦っても、なお敵は大きな力を持ってエリヤを狙っているわけです。これ以上戦えないという恐れ、また、何で自分がこんなにしてまで戦わなければならないのだろうかという不満もあったでしょう。「いっそうのことこのまま死んでしまった方が楽だ、神様一思いに私を殺して下さい、こんな出口のない戦いにもう疲れ果てました。私は、あのモーセやヨシュアと言った偉大な先祖のような力はありません。」と神に訴えました。ここにあの偉大な預言者エリヤの本音が、赤裸々に描かれています。挫折と絶望と自暴自棄、そして他の人との比較です。

私も、このエリヤのような燃え尽き症候群、先の見えない絶望感、自分の無力感を感じたことがあります。やってもやっても先が見えない、これ以上この伝道者としてやって行けないという気持ちになったことがありました。でも、大事なことはその時に、自分の本音を口に出すということです。神様にあるがままの気持ちを訴えることが大事です。

B.「次に大事なことは、体の休養と食べ物です。」

エリヤは、バアルとの戦いで、断食をしたり、また飲まず食わずで戦ってきたのではないでしょうか。体力も大分消耗していました。そして睡眠も十分に取ることができない、夜も眠ることもできないほどの霊の戦いがあったと思います。気がつけば、体重も減り、目の縁も落ち窪み、体力も消耗して、神経だけが以上に過敏に研ぎ澄まされて、もう精神病の一歩手前です。

私もよく経験しましたが、また若い牧師が良く体験することですが、神経が緊張しっぱなしになって夜も眠れず、やせ細ってしまっている状態です。でも、本人や家族者は気がつきません。何日も眠れない日が続いてノイローゼの一歩手前まで来ていますが、当事者が気がつかないのです。ずーッとカルメル山の精神的霊的な緊張状態が、続いているわけです。

そういう時に、先輩の牧師が、「岡田先生、少し近くの温泉にでも行ってリラックスしてきて下さい。」と勧めてくれる時があります。戦いの場であるカルメル山、あるいは教会、牧師館という職場を離れて、ゆっくりと体も心も休める時が必要なのですね。それが、このパン菓子と水の差し入れです。まず、おいしいもの甘いものを十分に食べる、そうすると気持ちがリラックスしてきます。「あ、何で自分はあんなことで悩んでいたのだろうか。」と気が付くことがあります。そして、お腹がいっぱいになると、睡眠です。エリヤは、エニシダの木の下で横になりました。いわゆる爆睡をしました。三日三晩眠り続けたのではないでしょうか。睡眠はとても大切です。人間、ぐっすりと休むとまた力が出てきます。

C.「第三番目に心の癒しです。」

8節から読んでみます。「エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、40日40夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。エリヤはそこにあった洞穴に入り、夜を過ごした。見よ、そのとき、主の言葉があった。『エリヤよ、ここで何をしているのか。』エリヤは答えた。『私は万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。』 」とあります。

エリヤは、パンと水、そして睡眠と十分に力が与えられ、体力を回復しました。体は元気になりました。40日40夜歩く元気も出てきて、神の山ホレブまで歩くことができました。でも、体力は回復しましたが、彼の心はまだ癒えていませんでした。エリヤは、洞穴に一人入って夜を過ごしました。彼は一人、穴の暗がりの中で、うずくまっていました。いわば、引きこもり状態にあったのです。

すると主の言葉があって、「エリヤよ、ここで何をしているのか。」と尋ねました。するとエリヤは、自分の今までの霊の戦いについて、いろいろと答えました。このエリヤの、訴えの言葉は14節にも出てまいります。つまり彼は今までの経過について2回も神様に訴えています。主は、エリヤの言い分をじっくりと十分に聞いてあげました。

誰かに自分の辛さ、苦しさを話すことです。これは癒されるために必要なことです。そして、穴の中に引きこもりました。これも大事な自己防衛反応です。外部と連絡を一切を遮断して、一人になり休む場所が必要なのです。皆さんも経験があるのではないでしょうか。例えば、姑さんがいる家に嫁いで、姑と激しい戦いを繰り広げて家の中が戦場になっているとか、あるいはご主人とけんかをして実家に帰ってしまうとか。そして、実家に戻り、お母さんのお腹の中に帰って安らぎを得ることです。これがホレブの山の洞穴でした。

2.主の前に立ちなさい

エリヤが今までのことをすべて、主に打ち明けますと、主はエリヤに、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われました。11節からを読んでみましょう。「主は、『そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい』と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」(19:11~12)

A.自分の世界から出てくること

主はエリヤに対して、「そこを出なさい」とまず言いました。そこと言うのは、洞穴です。自分の身を守るための安全な場所、いつまでも甘えて居れる場所です。お嫁さんなら、自分の実家かもしれません。牧師だったら神学校の先生の所か先輩の牧師の所でしょうか。ともかく自分の身を守ってくれる人のところです。そこから出てきなさい。いつまでも、そこに留まって愚痴をこぼしてばかりしていてはいけないと言いました。

そして「山の中で主の前に立ちなさい」と言いました。「山」は普通、礼拝する場所です。自分の殻に閉じこもってばかりいないで、礼拝に出なさいということです。そして、「主の前に立つ」ことです。外部との連絡を遮断して、自分の殻、自分の世界に引きこもっているのではなく、その自分中心の考えから出て来なさいということです。そして、礼拝に出て、「潔く主の前に立ちなさい」、神の世界、神中心の世界に立つことです。ここに私たちの本当の回復の道があるような気がします。何何をしなさいではないのです。ただ、無心で「神の前に立つ」ことです。

B.神との縦の線(祈りと御言葉)に身を置くこと

このように私たちが「主の前に立つ」ということは、主の御言葉の前に立つと言う事です。キリスト教の人物像はたいてい立っています。そして、立ったままで上を見上げていたり、手を合わせて祈っている姿が多いです。一方、仏像などは座っている姿のものが多くあります。つまり「主の前に立つ」ということは、神に対する礼拝者の態度や心構えを表わしていると言っても良いかもしれません。つまり、神の前に立つということは、神に向って手を合わせて祈る姿、これが神の前に立つと言うことです。つまり、神と人間を結ぶこの縦の垂直の線を表わしています。その縦の線のところに自分を置きなさいということです。それが私たちのこの礼拝です。これが「主の前に立つ」と言うことの第一の意味です。

C,心静めて静かな声をきくこと

エリヤが主の前に立つと、山を裂き、岩を砕くほどの激しい風が起こりました。しかし、その風の中には主はおられませんでした。その後、地震が起こりました。しかし、地震の中にも主はおられませんでした。その後火が起こりましたが、その中にも主はおられませんでした。この風、地震、火と言いますのは、神の臨在を表すものですが、神そのものではありません。日本では昔から、「風神雷神の図」と言うものがあり、風や地震や炎を神のように考えてきました。しかし、真の神は、そういう自然現象ではありません。真の神は、「静かにささやく声」として、私たちに出会ってくださいます。この声を聞く時に、私たちは初めて神と出会うことができます。

私たちが神の前に立つ時、そこに静かなささやくような神の声が聞こえてくるのです。しかもその御言葉の声は、耳をすましてみなければ聞こえないほどの小さな声なのです。つまり、神様のみ声と言うのは、私が今皆さんに説教しているように、全体に聞こえる声ではないのです。もちろん風や地震を通して聞こえてくるものではありません。ささやく声ですから、一人一人が耳を澄まして、静かにして精神を集中して聴かなければ聞こえてこない声です。そして、なによりも一人一人に、違ったように聞こえてきます。一人一人への個人的な神様の呼びかけです。これが「主の前に立つ」ということの第二の意味です。

自分の言い分、言い訳、訴えが止む所に、初めて神様のささやくような声が心に聞こえてくるのです。「主の前に立つ」ということは、まず聞くという心から始まってきます。

4.引き返して荒れ野に向え

エリヤが洞穴から出てきて、入り口に立つと、再び、そのささやく声が「エリヤよ、ここで何をしているのか。」と尋ねました。そしてエリヤが、再び今までのことを説明し訴えていると、主はエリヤに「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向え。」と命じました。エリシャに油を注いで自分の後継者とするようにと命じました。さらに、バアルにひざまずかない7000人の忠実な信徒をイスラエルに残していると言いました。(19:13~18)

私たちが、落ち込んで自分の殻に閉じこもってしまっていても、主の前に立つ時、主は私たちに新たな使命を与えられます。それは再び、荒れ野に行く道でした。荒れ野とは、文字通り、何もない場所です。神の助け無しには1歩も進むことのできない砂漠地帯です。頼りになるのは、神の御言葉のみです。エリヤは再び信仰の戦いの道に押し出されました。

でも、ベエル・シバのエニシダの木の下で休み、体力を回復させ、そしてホレブの洞穴の中に閉じこもって過ごしたことによって、エリヤは神様から肉の食べ物と霊の食べ物である御言葉をいただきました。そしてもう一度、荒れ野である宣教の現場に遣わされたのです。主は私たちを、再び宣教の現場に押し出して下さるお方です。たとえ激しい霊的な戦いで心身ともに疲れを覚える時でも、私たちに休みを与えて下さり、食べ物も与えて下さり、御言葉を持って再び立たせて下さるお方です。そして、主の前に立つ時、さらに新しい使命に生かして遣わしてくださいます。7節のところに「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」とおっしゃって、私たちに触れて下さるお方です。

ですからたとえ、途中で投げ出したくなり、疲れと破れ、挫折を覚えるような時こそ、静まって主の前に立とうではありませんか。主は御手を触れ、御言葉を持って立たせて下さいます。そして、私たちに力を与え、なすべきあたらしい宣教の使命を教えてくださいます。そして、もう一度、来た道を引き返させ荒野へと押し出して下さるお方です。            (岡田 久)

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