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主のために生き、主のために死ぬ (ローマ14:1~12)

メッセージ

2014年11月30日富里キリスト教会

「主のために生き、主のために死ぬ」
(ローマ14:1~12)

1.兄弟を裁いてはならない

「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。」
(ローマ14:1~3)
つまり、ローマ教会では、ユダヤ教の背景を持ったユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンがいました。ユダヤ人クリスチャンは、肉料理の中に、もしかしたら律法に禁じられている豚肉が入っているのではないかと思い、いっさいの肉料理を食べることをしませんでした。そうすると、どうしても野菜だけを食べる菜食主義者になってしまいます。

一方、異邦人やイタリヤ人は、ユダヤ教の律法の規定に縛られていませんから、どんな肉でも遠慮なく食べるわけです。そして、あの人たちはキリスト教徒なのにユダヤ教徒のように、律法に縛られているのはおかしいんじゃないかということで、菜食主義の人たちを軽蔑していたわけです。日本でも最近は、ハラールというイスラム教徒用の聖別された肉を準備する店も出て来たと聞いております。

パウロはこの手紙の中で、「豚肉を食べない人は豚肉を食べない、食べてもいいと考えている人は食べても差し支えはない、しかし、お互いに相手を非難したり軽視したりすることだけはやめましょう」と勧めています。お互いに相手を批判したり、軽蔑し合ったりすることはやめて、それぞれが神様の前に正しいと思っているようにしようではありませんか。絶対相手を見てはいけない。ちゃんと天の神様だけを見て歩みなさい。もし上から目を話して横を見てしまいますとあなたは必ずつまずいてしまいますよと警告しています。

パウロ先生によれば、必ずこうあらねばならないということはないということです。「肉を食べても食べなくても、また教会暦を大事にしてもしなくても、そのことでお互いに反目したり争ったりすることの無いようにしなさい」と言っています。大事なことは、汚れた豚肉を食べてしまったから、自分も汚れて罪を犯してしまうと考えずに、神様の前に自分の信仰の確信をしっかりと持っていれば、どちらでもよいというのです。食べない人は主の前に食べない、食べる人は信仰を持って自由に食べるが、そういう弱い信仰を持っている人をつまずかせないように配慮しなさいと言っております。

2.主のために生き、主のために死ぬ

「特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神の感謝しているのです。わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(14:6~8)

特定の日を重んじる人は、自分のためではなく主のために重んじているのです。そして肉を食べる人は主のために自由に感謝して食べているし、肉を食べずに野菜だけを食べる人も、主のために肉を食べないで野菜だけを食べています。そして、その人も神に感謝しているのです。このようにどちらの人も、主のためにしていて、主に感謝しているわけです。

従いましてクリスチャンの信仰上の生活態度は、どちらも主のためにしているのであるから、お互いにそのことを認めるべきではないでしょうか。みんなが神様のために、一生懸命していることですから、決して自分お考えに合わないからと言って他の人を裁いたり、無視したり、軽視したりしないようにしなさいとパウロは勧告しています。

それがここで言っている「主のために食べる」「主のために食べない」「主のためにその日を大事にする」ということです。教会におけるどんな奉仕も、また日々の生活の中で行うどんな働きも、すべては主のためにするということです。
8節に「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」と言っています。6~10節の間に、「主」という言葉が七つ出て来ています。

つまり、私たちの主人はイエス・キリストであり、わたしたちはその奴隷、召使だということです。ですから、わたしたちが誰かを非難するとしたら、それは自分の主人であるイエス様を非難することになります。僕である私たちがなすべきことは、すべて主人のためにすべきであり、他人を裁くということはとりもなおさず自分の主人をも裁くということになります。つまり、パウロはわたしたちに、何事でも主のためにしなさいと言っているのです。わたしたちは皆、主の僕であり、主の奴隷であり、主の所有物、主のものなのです。

パウロは14:22でこう言っています。「あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことはすべて罪なのです。」(14:22~23)どうすることが主の御心であり、自分はどのような態度をとれば良いのかということを考えてみることです。確信をもってするということです。確信のない行動はすべて罪だと言っています。時には、自分の信仰、自分の考え、自分のポリシー、自分の神学と異なることがあるかもしれません。

もし自分が我慢をして教会に留まることが御心ならば、自分の考えや思いに死んで、主の御心に生きることもあるでしょう。これが生きるにも主のために生き、死ぬにしても主のために死ぬということではないでしょうか。このパウロが言っている「主のために」という言葉は、「主のために生きること」もあるし、「主のために死ぬ」こともあるということです。むしろ教会では、「主のために生きること」は、「主のために自分に死ぬ」ということを意味しているような気がします。

「自分に死ぬこと」が「主のため」である場合もあります。そうでないといつまでも、自分が間違っていたのではないかという、負い目に縛られて信仰が前進しません。もし戻ることが御心ならば、そうすればいいのではないでしょうか。いつまでも、あの人の言葉に傷ついたと、それを引きずって二十年も三十年も生きることも辛いものがあります。そういう人は、まだ自分に死んでいません。いさぎよく「自分の非も認めて」戻ることが御心ならば、そうすべきではないでしょうか。

3.みな神の裁きの座の前に立つ

「それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。こう書いてあります。『主は言われる。「わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる」と』それで、わたしたち一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。」(14:10~12)

私達は誰一人例外なく、最後には神の裁きの前に立たされるのです。もちろん信じていない人も信じている人もです。信じなかった人には、なぜ信じなかったのかと問われます。その時に皆さんは何と答えるでしょうか。そしてクリスチャンも同じように神の前に立たされて問われます。「なぜ同じ主を信じている兄弟を裁いたのか。なぜあの人を侮って、軽視し、馬鹿にしたのか。なぜ確信のない行動をとったのか。」と。全員が例外なく主の前に立たされて問われる時が来るのです。

私たちのなすことや言葉や行動はすべて、記録されていて、最後には神の裁きの座の前に立たされるのです。最後の審判が恐いから、神様が恐くてやるというようなことではないと思います。大事なことは、どんな小さいことでも、「主のために、主に御名によって」なしているかどうかです。ポスターを造ることも、チラシや葉書を造ることも、それを子供たちや近所に配ることも、誘うことも、すべては主のためにしているかどうかが問われているのです。

礼拝の奉仕も、教会学校もスモールグループも、祈りの生活も全ては主のためにしているかどうかです。主のために生きているか、主のために自分に死んでいるかということが大事ではないでしょうか。死んでから最後の審判で、主の前に申し開きをしなければならないような生き方をしてはいけません。今、どうしているかなのです。主のために食べてもいいです。飲んでもいいです。主のために食べなくてもいいし、飲まなくてもいいです。最後に14:8を読んで終わります。「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」          

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